感想日記

演劇とかの感想を書きなぐってます。ネタバレはしまくってるのでぜひ気をつけてください。

2024年1月末から3月初めまで生で観た舞台のちょっとした感想

1年間休学してたんですが、4月から無事に復学することになりました。

また東京で頑張るぞー!の気持ちで実家でこのブログ書いてます。

あと3月末のNTLの『ディア・イングランドを諦めて実家に帰って来てしまったので、アンコールとかをほのかに期待しています…!頼む…!

 

 

2024年1月

東葛スポーツ『相続税¥102006200』

@ミニシアター1010(29日、14時)

 

東葛スポーツ。去年の岸田國士戯曲賞で知った。私みたいな人結構いるんだろうなあ、と思った。

 

他作品は『パチンコ(上)』『ユキコ』しか知らない。エッジというか風刺というか皮肉というか、なんかそういうのを思いっきり効かせたラップを(右翼の人から怒られそうな内容だなとは思ったんだけど、劇中のセリフ曰く別に怒られないどころか、下手な左翼よりは笑いのツボが合っていいらしい。そうなんだ)、センスの良いかわいい衣裳を着た演者がかっこよく歌っているので(長井短の歌が上手すぎてものすごくビビった)、もうそれだけで結構満足感がある上演だった。私生活切り売りスタイルは他作品と変わらなくて、他人の家のゴシップを覗いている面白さも他作品と似ていた。しかし結構内輪ネタが多くて新参者の私は半分も分かっていない気がする。

 

あと生で観て初めて気が付いたんだけれど、言葉の力を結構信じている作家なんだな、と感じた。劇中にも「言葉は力」ってセリフ、というか歌詞?があるし、そもそも「ラップ」という形式をとっているから当たり前と言えば当たり前なんだけれど…。

しかし言葉の力を真っ直ぐに信じているというよりは、「こんなとこでこんなこと言ってたってどうせ全世界には伝わんねえや」と、やや自虐めいた哀愁があるのが気にいっているポイントな気もするし、逆に表現としては「逃げ」の場所を予め用意しているという意味で弱い点のような気もする。チラシなんかの痕跡を残さない「やり逃げ」スタイルの上演形式もそうだし、ラップという形式もそうだけれど、どうもメインストリームからは見えづらいところで、気心の知れたメンバー同士で「抵抗」の歌を楽しんでいるような、そういう感覚がある。ただ実際歴史上のさまざまな「抵抗」の始まりってこんな感じなんだろうし、岸田國士戯曲賞も取って、私みたいな内輪以外の、物珍しさから観に来たようなライトな観客が入り始めたような時期なんだろうから、この辺の感覚はこれからどんどん変わっていくんじゃないかなあ、となんとなく感じた。

 

それにしても観た人なら分かると思うんだけど、開場中に流れている、「ピラミッドってダムに比べると金ばっかかかって役に立たないですよね」という内容の映像は何だったんだろう。舞台美術にもでかいピラミッドがあって、冒頭、そのピラミッドの中から演者が出てくるので、「演劇って、ピラミッドがダムに比べてそうであるように、金ばっかかかって役に立たないですよね」ということを言いたいのか?と勘繰ったけど、作者は『パチンコ(上)』で「税金対策の演劇」と言い切った前科があるので、「いや、作者の役には立ってるのでは…?」と思いながら観ていた。あと最後に相続税という税金を払うための札束(しかも5000万円分はマジの現ナマらしい。なんちゅうもんを舞台上に持ち込んでんだ!?と思った)が舞台中央にピラミッド型に詰みあがっていたので、「演劇って、ピラミッドがダムに比べてそうであるように金ばっかかかって役に立たないんですけど、税金対策には意外と役に立つんですよ」というジョークなのかな、と色々考えた。

 

にしたってなんでピラミッドである必要があるんだろう、という疑問は消えないけど。

 

2024年2月

①KAATカナガワ・ツアー・プロジェクト 第二弾『箱根山美女と野獣』『三浦半島の人魚姫』

@KAAT神奈川芸術劇場 中スタジオ(11日、11時)

 

2本立ての上演。タイトルは箱根山美女と野獣』『三浦半島の人魚姫』の順なんだけど、上演順序は逆だったのでその辺どうなんだろう、と思った。細かいことだけど…。

 

三浦半島の人魚姫』

「人魚を見たい」という欲望を持つ、ルリという女性が、色々なところを探しながらぐるぐる歩き回る。その道中で色んな場所や色んな伝承をめぐる、「ツアー」プロジェクトらしいドラマトゥルギーだった。

 

あと、作者が意図しているかはしらないけれど、結構クィアだな、と思った。まず「人魚を見たい」というルリの欲望が、相対的に奇妙なものとして描かれている。それに、人魚が、太宰治の作品の引用を通して、明確に「女性」としてイメージされている。また、(ルリが探していた目当ての人魚ではないが)ルリが旅の途中で遭遇する人魚を演じているのは女性俳優で、その人魚とルリの遭遇の場面は、いっそ官能的とすら表現できるようなダンスによって表現されている。以上のことから、ルリのこの、「人魚を見たい」という欲望の下地に、女性の同性愛的な要素を読み取ることは不可能ではないと思う。

一応、ルリは男性と結婚しているし、性的志向についてはおそらくマジョリティなのだとは思う。しかしおそらく、何らかのきっかけがあって、日々の生活の中から湧き上がるように「人魚が見たい」というクィアな欲望が発現したのではないのかな、となんとなく感じた。幕切れでルリとルリの夫は人魚を目撃するのだが、その後のルリは、夫がいささか戸惑うほどにスッキリしていることからも、そういうことがうかがえると思う。

 

あと、ルリとダンスを踊った人魚は、ルリに対して、「もっと新しいもの」「もっと見たことのないもの」を「見たいでしょう?」と半ば強迫的に語りかける(そして、ルリの夫から「それは海の底で退屈しているあなたの方でしょう?」と反論されてしまうのだけど)。これは演劇の観客一般にも言えることだな、と感じた。「新しいもの」「見たことないもの」を「見たい」と欲望すること自体、ルリの持った「人魚を見たい」というクィアな欲望と地続きなのではないか、と接続して考えることも可能なつくりにはなっていた。

しかしどちらにせよ、あくまでもマジョリティ側が抱くちょっとしたクィア寄りの欲望、という程度の描き方に留まる。こういう匂わせをするぐらいならきちんとクィアを真正面から描けよ、と思わないでもない。

 

でも2年連続で白輪園長が出てくるとは思わなかった。クソ笑った。

 

箱根山美女と野獣

「神様的な人に嫁いだので意識改革を試みましたが…!?」みたいなタイトルの漫画でありそうな話だった。それの1巻を試し読みした感覚。つまらなくはないが、特に面白くもない。なんならオチもついていない。強いて言うなら柿崎麻莉子のヅカを思わせる男装がかっこいい。それぐらい。

 

あと結構激しめなDV描写があるので注意書きが必要だと思う。たぶん家族連れとか子供がメインのターゲット層のプロジェクトなんだろうし。その辺はしっかりして欲しいな、と思った。

 

②『テラヤマキャバレー』

日生劇場(14日、12時)

 

死を目前にした寺山修司が、夢の中で脳内劇団員を使って、お迎えにきた「死」(演じているのが現役のヅカの人なので、エリザベートのトートのパロディだよな、と思った。あんまり笑えはしないけど)を感動させるための芝居を頑張って作る話。寺山は「死」が持っていた魔法のマッチで、近松門左衛門の時代と2024年のバレンタインデー(偶然にも私が観劇した日!)を観て回ったけど、最終的にきちんとした芝居を作るのは放棄して、脳内劇団員に対して「質問」をする(寺山修司はたしか飼ってた亀に「質問」と「答」という名前をつけていた)形の即興的な芝居を作り上げる。その後、死後の世界に旅立っていく、という感じの話だった。

 

デイヴィッド・ルヴォーの演出は全体的には蜷川幸雄風というか、そういうちょっとアングラっぽい雰囲気をうまくエンタメにしたような感じだった。あとはマッチとか、田園に死すの指のパネルとか、寺山修司が大好きだったボクシングとか、身毒丸のもう一度僕を妊娠してくださいセリフから始まる「母」の強い印象とかを上手く演出とかセリフに取り入れてあった。それに加えて、『カム・ダウン・モーゼ』『戦争は知らない』『時には母のない子のように』『明日のジョーのテーマ』みたいな寺山作詞の歌謡曲が劇中でバカスカ歌われるので、たしかに寺山修司風味みたいなものはふんだんにある上演だった。

 

しかし、上演それ自体のクオリティとはまた別の次元で、「寺山修司」とか「前衛」を期待して行ってしまうと、なんだか表層だけをなぞったようなパチモンに見えるのではないかな、と思った。歌謡曲の効果なのかなんなのか、全てがノスタルジアにラッピングされてしまい、セットの見た目の豪華さ、登場人物たちの見た目のアングラさ(ほぼ全員白塗り)とは反対に、なんだかとてもまろやかな味わいになってしまっている。

そもそも香取慎吾が演じている寺山修司がなんだか妙に小物、というか、まあ「かわいい」感じの造形になっているのも気にはなった。コーラをあおりながら、不機嫌なときは周りに当たり散らし、感情を特に隠しもしないような、なんかそんな造形だった。私は寺山修司を知らない世代なのでよく分からないけど、こんなに「かわいい」人だったのかな?(それを言い始めると、「死」から「感動させてくれ」と言われて素直に「死」を感動させるような芝居を書くために奮闘するような人かな?という、あれもある)という疑問は残るには残る。

ちなみにこの香取慎吾演じる寺山修司、全然訛ってなかったので同郷出身としてはキレかけた。でも香取慎吾以外の俳優はほとんど正しい日本語ミュージカルみたいな歌い方をするのに、香取慎吾だけはポップスの歌い方のままだったので、そこで結果的に差別化は見られた。ということで無理矢理納得はした。たぶん意図はしてないんだろうけど。

上手く言えないのだけれど、たとえば1幕幕切れに、伊礼彼方演じる大変エネルギッシュな蚊(この蚊は吸血をするのでメスで、この夢のキャバレーの1階に住んでいる。たしか寺山修司が2階に住んで母ハツも1階に住んでた時期がどっかにあったのでなんかその部分盛り込んだのかなと思う)を筆頭に、みんなが寺山修司に群がって乱闘(乱交)している場面がある。ここなんかはまさにこの上演でやっていることの縮図だな、と思った。「寺山修司」の、なんか美味しいとこだけ吸い取って、尖った部分はなんか良い感じにまろやかなエンタメにして、消費する。上演それ自体としてのクオリティはものすごく高いのに、この「まろやかなエンタメとして消費」されることをものすごく嫌っていそうな人のことを、「まろやかなエンタメとして消費」している罪悪感、みたいなものが観劇中終始付きまとって離れなかった。

 

劇の最後らへんに寺山修司が「現実に届くまで夢(劇作とか創作活動のこと)を見よう」と朗らかに客席に向かって言うのだけれど、寺山修司がやろうとしていた・やってたことというのは、日常の現実生活のなかに別の原則をもった劇をぶちこむことで、日常の現実原則に積極的に揺さぶりをかけ、それを遥か高みから見てニヤニヤする、という結構嫌味というかマッチョなインテリ仕草が含まれるものだということを、一応勉強していて知っている。だから、この「夢を見よう」というセリフの「受け入れやすい」「かわいらしさ」に、この上演の最終的なスタンスを見たような気がした。

 

あと台本を書いているのが池田亮なんだけど、せっかくドキュメントタッチというか、虚実綯い交ぜにしたような作風が売りの作家なのに、特にその良さが出ていなかったのもなんだかもったいないなあ、と感じた。こんなに豪華なメンバーを揃えたのなら腹くくって寺山修司の戯曲に総力あげて体当たりするか、池田亮の持ち味をもっと生かせるような設定の台本にすべきだったんじゃないかなと、素人的には思う。

しかしこの間観た演劇実験室◎万有引力『盲人書簡』もなんかかっこいいエンタメになっていて、全然前衛じゃなかったので、このあたりの前衛的な作品の「前衛さ」を失わせずに上演するのってかなり難しいのかもしれない。

 

寺山修司」というある種の呪いから切り離して考えればとてもクオリティの高い上演だったと思うし、なにより伊礼彼方演じる蚊が圧倒的だった。それは観られて素直に良かったと思う。ただしU25学生のチケットを後出ししたのはマジで許さない。先にA席買ってしまっていたU25学生は一体どうしろと。マジで差額の5000円返せよ。大金だぞこの野郎。

 

③名取事務所公演パレスチナ演劇上映シリーズ「占領の囚人たち」

中越パルプ工業株式会社東京本社(17日、12時)

 

SNSのオススメを見て行ってきた。映像上映なので「生」ではないけど、一応会場に出向いて行ったし番外編ということで。2本立ての上映だった。

 

『Prisoners of Occupation 東京版』

不当に逮捕されたパレスチナの人が受ける取り調べという名の暴力について、イスラエルの作家エイナット・ヴァイツマンが書いた作品。それを日本の演出家が、日本の俳優とパレスチナの俳優を使って上演する、という結構複雑な構成になっていた。

記録媒体の持ち込みがおそらくできない、つまり「記憶」や「体験」としてしか残らない刑務所の内情を、同じく基本的には、「記憶」や「体験」としてしか残らない「演劇」というメディアで、ドキュメンタリー的に構築しなおす形をとっていた。思いがけず「演劇」の力、というかメディアとしての痛切さを感じる上演だった。

 

『I, Dareen T, in Tokyo』

パレスチナの詩人ダーリーン・タートゥールが、不当に逮捕されたり、性的暴行にあったりした苦難を、彼女を支援する友人のイスラエルの作家エイナット・ヴァイツマンが描いた話。主にダーリーンの体験、ダーリーンとエイナットの友情と創作活動を描きつつ、それを演じる日本人俳優で女性である「私」というやや俯瞰的な視点が入りこむ1人芝居だった。

背景も言葉も違う3人の女性たちが、そのうちの1人の女性俳優の身体を通じて連帯していくさまがありありと浮かび上がっていくのがとても良かった。あと『Prisoners of Occupation 東京版』(これは主に男性たちの話)と2本立てにすることで、こういう文脈でよく語られがちな「男たち」の抵抗の物語の隣に、たしかに「女たち」の抵抗も同時に存在しているんだ、ということが強調されていて、ここもとても良かったと思う。これは結構2本立てならではなのではないかな、と感じた。

ただ個人的に1番演劇的だな、と感じたのは、冒頭、白いヒジャブ(ダーリーンを表す)をかけられた椅子と、黒いジャケット(エイナットを表す)をかけられた椅子の後ろで、俳優がその椅子たちを指さしながら「こっちがダーリーン、こっちがエイナット、彼女たちは○○な人で~」と説明するところ。不在の椅子から彼女たちの確かな存在感を感じた。

あと、刑務所のトイレが汚くて使いたくない絶対無理、とか、犬のおしっこの匂いが護送車の中で充満して吐いた、とか「確かにそれは絶対に無理…!」となるような、逮捕とか拘束とかの大きな過酷さの前で見過ごされがちな、小さな過酷さに対する言及も多くて良かった。こういう話だと切り捨てられがちな部分だけど、やっぱりそうだよね…辛いよね…!と謎に深く頷いてしまった。

 

私はほぼなんもできないけれど、早く戦争と虐殺が終わってほしいな、と心から思う。

 

④ゆうめい『養生』

ザ・スズナリ(18日、13時)

 

トイレ問題が解決できなくて決死の覚悟でしか行けなかったスズナリに、相互さんからのオススメ近隣トイレスポット情報のおかげでまあなんとか行けるようになった記念の観劇だった。

 

あと私はゆうめいの良き観客ではない自覚があるので(基本観ると「なんかよく分かんねえな…?」と何故かなる。今回も正直ちょっとなった)、以下盛大に意味を取り違えている可能性があることは一応太字で書いておく。

ただ局所的に好きなシーンとか筋とか登場人物がいることが多い。今回も観た人なら分かると思うんだけど新入社員の清水くんの拗らせ方良くなかったですか?絶対に関わりたくないタイプの人間すぎる。

 

舞台美術が結構特徴的な作品で、まず舞台後方に養生テープが滝?というか壁?のようになるように、舞台後方上から舞台前面にかけて何個もの養生テープが縦に並べて貼ってあった。観客はこの養生テープの壁の後ろを通って劇場内に入場する。舞台中央には脚立でできた奇妙なオブジェが飾ってある(このオブジェは、上演が始まると明らかになるのだけれど、主人公の橋本の卒業制作らしい)。

 

ゆうめいの作品を観るといつもあらすじ説明しにくいな、と思うんだけど(だから『テラヤマキャバレー』のあらすじはむしろいつもより分かりやすいし説明しやすいなとぶっちゃけ感じた)、とりあえずだいたい以下のような話。橋本という美大生が、画材代を稼ぐために百貨店の内装作業などを手掛ける深夜バイトを始めた。阿部という歌い手になる夢を持つ学生バイトとともにそこで働き、大学卒業に合わせて阿部と同時にそこの正社員になった。しばらく後に、橋本の美大時代の同期で人気作家になった佐伯の展示の内装とかを手掛けることになった。その作業を進めていたが、作業していた阿部はペットが死に、同じく作業中だった新入社員の清水はSNSで炎上し自宅がてんやわんや、橋本の元には佐伯の自殺というニュースが届いて作業場は混乱状態となる。清水は帰り、阿部は色々あってなぜか微妙に下手くそなアヴェ・マリアを作業場で熱唱したあと寝落ちする。またどこからともなくアヴェ・マリアが静かに流れ始めた作業場で、橋本が1人作業をし終えると、舞台奥に張り巡らされた養生テープの向こう側に、佐伯と思しき人影が現れ、橋本と手を振り合って幕、という感じだった。

 

正直メインの話自体は、それこそ美大とかではよくある成功コンプレックスの話というか、「何者か」になりたいコンプレックスの話で、そういう系の漫画で読んだ覚えのある感情がいろいろ展開されているな、という感じだった。ただ全編通して脚立とマネキン、養生テープという主な舞台美術たちが、ほとんど全くといっていいほど本来の使い方をされていないことと重なると、結構グッとくる感じがした。本来の使い方をされていないからといって他の使い方の可能性がないわけでもないし、むしろ美しく見えたりするように、本来望んでいた「何者か」になれる人生を歩んでも歩めなかったとしても、そこに可能性がないわけではない、という、綺麗ごとだけど大事だよね…と思ってしまう、なんかそんなメッセージがあるような気がした。それを踏まえたうえで、最後の「何者か」になった挙句に色々あって自殺してしまった佐伯と、「何者か」にはなれていない元美大生の橋本が手を振り合うという演出を観ると、すごくありきたりだけど、それぞれにそれぞれの辛さもあるし、幸せもあるんだろうな…となんとなく感じた。

 

⑤『う蝕』

@シアタートラム(20日、14時)

 

以下、読んでくださっている方への愚痴です。

まずは公式サイトからあらすじを引用します。

setagaya-pt.jp

 

小さな漁村、沈丁花が見事に咲く瑞香院という神社、あとは海沿いのささやかな温泉があっただけのコノ島が、25年前のリゾート開発でおかしなデザインのホテルが建ったり、温泉施設ができたり、本土との定期連絡船が設定されたり、随分様変わりした。
そのことが直接関係あるわけではないだろうが、コノ島を「う蝕(しょく)」が襲い、島のあちこちを陥没させて、たくさんの人を飲み込んだ。
この地盤沈下のような現象を「う蝕」と言い出したのが誰なのかは不明だが、まるで虫歯がジワジワと侵食してくるように、地面にポッカリと穴を開けていく。
犠牲者の身元判明のために集められた歯科医師たちがいる。コノ島に移住して歯科医院を開業している根田(新納慎也)、本土からやってきたこだわりが強い歯科医師の加茂(近藤公園)、臨床実習で加茂に世話になったという木頭(坂東龍汰)の3人。彼らが歯科治療のカルテを使って、犠牲者の歯の状態と照合していく作業を進めていこうとしていた矢先に、2回目の「う蝕」がやってきた。遺体安置所や避難所までもが穴に沈む。またいつ次の「う蝕」にやられるかわからない危険性もあったので、コノ島に全島避難指示が出された。
まだ自分たちの仕事は終わっていないと、ここに留まることを選んだ歯科医師たち。そこに、役人の佐々木崎(相島一之)と、2度目の「う蝕」のニュースを聞いて居ても立ってもいられなくなった派手な出立ちの歯科医、剣持(綱啓永)が本土からコノ島に渡ってくる。
土砂を掘り起こす土木作業員が来てくれないことには、今、彼らにできる作業はなにもない。しかし、作業員たちは待てど暮らせどやってこない。現れたのは、思わせぶりに白衣をまとった久留米(正名僕蔵)という男。彼は言う。「この中に、ここにいるべきではない人間がまざっている」

 

どうですか。とある1つの状況に「侵入者」がやってくる、そんな不条理劇の典型パターンに読めませんか?しかもこの公式サイトの見出しには「横山拓也×瀬戸山美咲の強力タッグで立ち上がる、男性6名の実力派キャストが織り成す濃密な不条理劇」とあるんですよ。しかもしかも広報のチラシには「フランツ・カフカ、サミュエル・ベケット別役実の作品に想を得た不条理劇です」とか書いてあるんですよ。これはもう期待するしかないじゃないですか。「濃密な不条理劇」とやらを。

 

災害と死者をめぐるハートフルミステリだったんですよ。

 

念のためもう一度書きますけど災害と死者をめぐるハートフルミステリだったんですよ。マジで。2024年3月号の悲劇喜劇に戯曲載ってるらしいんで興味ある人は読んでみてください。

あと公式サイトに書いてあるように、能登半島地震があって話のあらすじをガラッと変えたらしいんですけど、ぶっちゃけ普通に能登地震を思い出しながら観ました。どこを変えたのか分からないし悲劇喜劇に載ってるのがどのバージョンなのか知りませんが…。てか主催がやらなきゃいけなかったのは、もうチケット買ってたけど能登半島地震を経て観に行くのをやめたくなった人に対する返金対応だったと普通に思います…。

 

とにかく観てない人は戯曲読んで確認して欲しいんです。あらすじを読むと完全に「侵入者」に見えたやつが、話が進んでいくと背後に「別の論理」を全く持っていなくて「既存の論理」で説明できるという、マジでただのミステリだったんですよ。それなのに不条理劇のお決まりのパターンに見えるように故意にあらすじを区切って公式サイトに掲載しているので、これはもはや詐欺では????は????????????????私の「不条理劇!」とわくわくしたピュアな思いを返せ???????????????

 

あと、沈丁花を舞台上でいじる度に「シャララララン☆彡」と効果音鳴らすのマジでなんなんですか?????笑えねえよ??????????戯曲読む人はぜひ沈丁花が出てくる度に頭の中で「シャララララン☆彡」ってちゃんとかわいい~効果音♡♡つけてくださいね。それが上演に近い形なので。

 

以上、愚痴でした。

「不条理劇」って触れ込みじゃなかったらさすがにここまでボロクソに言いません。

 

⑥音楽劇『不思議な国のエロス』~アリストパネス「女の平和」より

新国立劇場小劇場(22日、14時)

 

口コミが良かったので観に行った作品。

寺山修司がこんな面白い翻案を書いていたのを知らなかったのでかなり面白く観た。

観終わったあとに戯曲を確認したら結構戯曲に忠実な演出で驚いた。ただ、女のコロスと男のコロスが掛け合う(『女の平和』にもある)部分の演出で、その部分が全てラップになっていたのが相当にかっこよかった。現代風にするのに適切な演出だと感じた。衣裳もかわいかったし、ミュージシャンがほとんど1人でやっていた生演奏もかっこよかった。ただ、大きな布で俳優とかを隠したりする演出が結構頻繁にあったのだけれど、この布の演出に関してはいまいち何を意図してるのかを掴みかねることが多かった気がする。

 

とにかく『女の平和』の翻案としてそもそもの戯曲ががまずかなり面白い。性的マイノリティと思しき登場人物なんかもちょっとだけど登場していて、原作の男女二元論的な世界観ともバランスをとろうとしたのが分かる。あとクロ―エとアイアスの2人の恋人(婚約者)のエピソードが寺山修司が主に創作した部分なんだけれど、その2人を起点としたラストへの持っていき方というか、「『平和』もまた『戦争』同様、マジョリティや権力による集団的な営みである」という見方を提示するあたりなんかが「寺山修司だなあ!」と何となく感じた。最後、みんなが「平和」への歌を軍歌みたいに歌い上げる中、「平和」のための犠牲になったアイアスを思い、狂気しながら群衆の中に1人で立つクローネがかなり印象的だった。

 

それとこれを観る前に、寺山修司っぽさをとにかく拾い集めて演出に盛り込んだ『テラヤマキャバレー』を観ていたのでそのせいかもしれないんだけど、全体的な演出の印象としては「寺山修司っぽさはあまりないな」という感じだった。でも寺山修司の作品を上演するときに、変に寺山修司っぽさの表面をなぞってとっ散らかった印象になるよりは、普通にセンス良く戯曲に沿って上演していた今回のような上演の方が好みかもしれない。まあ寺山修司の作品自体がもはや古典化しているフシがあるので、どうせ上演するのならひとひねり加えて欲しかったような気がしないでもないけれど…(しかし寺山修司の作品にひとひねり加えるのはたぶん至難の業な気がする)。

 

あと社会情勢的に、(ラストに寺山修司によるひねりが加えられているとはいえ)「反戦」のメッセージを持つ『女の平和』の翻案が、新国立劇場で上演された意味は結構あるんじゃないかと思う。口コミを信じて観に行って良かった。あと年齢割チケットがあって本当に良かった(正規で買うと8800円とかなり高額…)。

 

⑦ワールド・シアター・ラボ2024『家族の配列』

@上野ストアハウス(24日、14時)

 

シスターフッドを描きたかったのは分かるんだけど、それを下支えするドラマ自体が薄くて単純に面白くなかった。「で?」というか、ぶっちゃけ「わざわざ台湾から持ってきた作品がこんなもんかよ」というか、なんかそんな感想を抱いてしまう作品だった。

あとトランス女性が登場するのだけど、性別適合手術において男性器を「切る/切らない」こととカラオケの曲を「切る/切らない」ことを引っかけて笑いを狙うシーンがあり(そして実際に劇場では笑いが起きていたのだけれど)、「あっ、そういう部分で笑いを狙っちゃうんだ…」と正直ドン引きしてしまった。

 

この作品があまりに面白くなさすぎて、次の日に観に行く予定だった『原宿ガールズ』をキャンセルしてしまった。この2本ともう1本収録された戯曲集が無料配布されたので、家で『原宿ガールズ』も読んだのだが、なんとなく「若い女性の相対的貧困とか夜職への従事に関しては日本でかなり解像度が高い作品があるので、わざわざ海外のトンチキジャパンな作品をやらんでもいいのに…」というのがぶっちゃけた感想だった。どちらかというともう1本収録されていた『囚われの本質』の方が好きだった。ガザやウクライナの戦争にも関わるような感じで、こっちの方を上演した方が良かったのでは…?と素人ながら感じた。

 

2024年3月

①Ate9ダンスカンパニー『EXHIBIT B』『calling glenn』

世田谷パブリックシアター(2日、15時)

 

2本立ての上演。イラン系アメリカ人作家のDJオミット・ワリザデとのコラボレーション作品の『EXHBIT B』と、グラミー賞受賞ドラマーのグレン・コッチェの生演奏による『calling glenn』

なおバットシェバ舞踊団出身のダニエル・アガミが振り付けと構成と演出。きちんと当日パンフレットには虐殺と戦争に反対する内容の声明が掲載されていた。

頼むからそういうメッセージは公式サイトにも明記してくれ。その方が安心して買えるから。

 

2本とも、何か特定の感情が伝わってくるというよりは、ひたすらに動くダンサーの身体の激しさと疲労がひしひしと伝わってくるような作品だった、となんとなく思う。

 

『EXHBIT B』

物理的な身体と身体の衝突が激しかった気がする。あとは、倒れたダンサーたちをひたすら袖に引きずっていくシーンと、向かい合う2人の男が互いの服を交換した後に激しく取っ組み合うシーンが印象に残った。全体的には(コンテンポラリーダンスを鑑賞するときいつもそうなるのだが)よく分からなかった。でも人と人との対立みたいなのは執拗に描かれていた気がする。

しかし正直、本編のパフォーマンスよりも、開場中に行われていたプレ・パフォーマンスの方が好みだった。強張った身体でバイオリンを弾き続ける人、花でひたすら他人の身体を飾る人、花でひたすら身体を飾られる人、何かを必死に食べている人、風船で音を出して遊んでいる人、ラジコンカーを動かしている人、ラジコンカーを動かしている人にちょっかいを出す人…などなど。ダンサーが入れ代わり立ち代わりそれらの行為を繰り返していて、かなり観ていて面白かった。

 

『calling glenn』

ダンスが吹っ飛ぶぐらいグレン・コッチェの生演奏がかっこよかったことしか覚えていない。もうドラムがヤバすぎる。異次元。床とスティックだけで演奏するシーンもあって爆イケ。もう無理。かっこよすぎる。

 

②紙カンパニーproject オープンアトリエ

@中野 水性(3日)

 

 

 

でっちあげの政治家・中田博打の、でっちあげの選挙のための、でっちあげの政治事務所。中では中田博打の選挙演説の映像がプロジェクターで投影されていて、それを観ることができる。裏金とか汚職問題に言及しながら「私が当選したあかつきには、区民パーティーを開きます。パーティー券は1枚5万円です」とか言ってて、ちゃんとやべえ政治家だった。あとなぜか演説の要所要所に赤ちゃんの泣き声が入る。謎。

 

マジで普通の政治事務所です、みたいな顔して商店街にぽつんとあるので、全然知らない人が見たらたぶんガチで政治事務所に見えたと思う。中で椅子に座って演説の映像を観てた時も、外を歩く人から「あいつは何をしているんだ?」みたいな感じでジロジロ見られて大変に居心地が悪かった。

 

あと何から何まで全部でっちあげなのに、やっぱり謎のリアリティがあって、この団体のやることは相変わらず変だけど面白いなと感じた。

 

③ナスタラン・ラザヴィ・ホラーサーニ『Songs for no oneー誰のためでもない歌』

ゲーテ・インスティテュート東京(3日、14時半)

 

ゲーテ・インスティテュート東京…ドイツかあ…というためらいは正直あったんだけど、まあ私1人がボイコットしてもな…しかも会場なだけだしな…という意識低めな態度でとりあえず観に行った。そしたら先輩がなんか働いててびっくりした。イギリスに留学しているもう1人の先輩も元気らしいという情報と、どうも来年度は院の新入生がいないらしい(もしかして修士1年生が私だけかもしれない?)という恐怖の情報を手に入れた。

 

上演の内容としては、6歳の頃にイランからオランダに亡命した作者が、イランに住む少女と少年それぞれ1人ずつに行った電話インタビュー(インタビューというより会話と表現する方が適切かもしれない)をもとに構成された感じだった。

電話インタビューという匿名性と私的性質が高いメディアで行われたことを、演劇という公的に開かれたメディアで構築しなおしているので、割ときちんとしたドキュメンタリー演劇だな、と思った。少年と少女は名前すら明らかにならず、録音された声のみの出演だったけれど、ちゃんとカーテンコールで存在を明示されていたのが、彼と彼女に対する作家の敬意を感じて良かった。

 

字幕の演出も結構凝っていた。たしかペルシア語での上演だったはずで、最初インタビューの音声だけが流れていて、主に公演を観に来ていると思われる日本語話者と英語話者には何がなんだかよく分からない。その状態でパフォーマーが、透明なアクリル板を白いペンキで塗りつぶすことによって、初めてマッピングされた日本語と英語の字幕が出てくる、という形だった。「塗りつぶす」ことで観客に対して意味が通じるようになるのは、なんだかイランで日常的に行われている検閲を逆手にとったような演出だな、と感じた。

なおパフォーマーはピンクの半袖を着ていて、上演中に露出している肌の部分をピンク色のペンキで塗っていくのだけれど、これもイランにおける、映画とかでよくある検閲のパロディらしいことがインタビューの会話から分かる。

 

最後に「DONT BE SAD」とマッピングされた字幕が、まるで検閲されていくみたいに消えていくのを観て、安全と自由が保障されている国でこの作品を観て、いったい私たちは何ができるんだろう、あまりに無力ではないか…、と少し落ち込んでしまった。こういう、なんというか、不自由な国とか状況にある人々が、それでも「私たち」が持つような自由を望む、強く「正しく」明るい声を持っていることを知ると、なんだか「私たち」は謎に感動してしまうのはしてしまうのだけれど、これって割と上から目線の感動というか、マジ特権仕草だよな…という落ち込みというか…。上手く言えているか分からないんだけど…。難しい…。まあ私が自意識過剰なだけかもしれないが…。

 

アピチャッポン・ウィーラセタクン『太陽との対話(VR)』

日本科学未来館1F 企画展示ゾーンb(8日、13時)

 

第1部の上映と第2部のVRに分かれた構成だった。

 

第1部は、第1部を鑑賞している観客には見えない何かを観ている第2部のVRの観客がうろうろしているのをよけながら、展示場の中央にあるパネルの両側に映された映像を鑑賞する形。どこかの街やその街の人々、ただひたすら眠る人々の映像なんかが映っている。会場内に響く、ごおおおおおん、という重低音が、滝の音のようにも地鳴りのようにも聞こえた。

 

第2部はいよいよVRゴーグルをつけての鑑賞。最初はなんかデカい洞窟みたいなとこにいる。ペニスがバカデカいクソデカ石像(たぶん当日パンフに書かれているアンデスの像かな。冥界の住人で豊饒さを象徴する死者らしい)なんかがおいてあってなんかちょっと神聖な感じ。突然床の下から太陽みたいな光の玉が現れる。あと上から太陽みたいな光の玉が分裂して降ってきたりする。ちなみにVRゴーグルをつけている他の鑑賞者は光の玉となって見えているため、この太陽の光の玉と区別が難しかった。鑑賞者の小さな光の玉が太陽の大きな光の玉に吸い込まれていくように観える瞬間もあった。

あと光の玉と一緒に石も降ってきてビビった。頭の上に石が降って来て、VRだから当然なんだけど私の身体をすり抜けていった。その時とか、あと洞窟の岩を無視して歩いて、その岩が足をすり抜けた時とか、なんかもやっとした変な感覚になったのが面白かった。人間の脳ミソは視覚情報に頼りすぎだな、と改めて実感した。

そんなこんなしてたら次第に地面が傾いてきて、VR鑑賞者は「浮き出す」。なんとなく魂になって成仏するときってこんな感じかな、と思った。遥か底にクソデカペニス石像が見えた。なぜか浮いていく途中の岩壁のちょっと突き出したところには謎の全身黒い人間が座っていた。頭上では相変わらずバカデカい太陽から光の玉が分裂し続けている。黒点がどんどん大きくなって太陽を飲み込んでいくようにも観える。地鳴りのような腹に響く音は相変わらず続いていて、遠くにかすかに坂本龍一のピアノ音楽が聞こえた。なんでか知らないけど、分裂し続ける太陽の玉と、それと区別がつかないVR鑑賞者の光の玉がめいっぱいに広がった、宇宙みたいなだだっ広い空間に、ひとりぽっちで浮いているような感覚になった。「エゴが消失するハイの瞬間」という言葉を聞いたことがあるけど、まさにそんな感じだった。死んだときにこんな感じにふわふわ宇宙に飛び出ていくなら、それはそれでありかもしれない、と思った。

 

あと全部は見えない両面スクリーンの映像、VRをつけて第1部の観客からは見えないものを観る第2部の観客、第2部の観客からは存在すら見えない第1部の観客(VRゴーグルをつけていると、同じくVRゴーグルをつけた人は光の玉として視認できるが、ゴーグルをつけていない第1部の観客は視認できない)、スクリーン上で「眠る」人々と、字幕で出てくる「盲目」「見えないふり」という言葉の羅列、などなど、なんだか「見えること」と「見えないこと」に対しても多層的な表象が積み重なっていて面白かった。

 

しかしVRゴーグルが地面に直置きしてあり、また前の人が使ったあとに除菌など何もしないまま装着しなければならなかったのが、潔癖症として本当に辛かった。せめて地面に直置きだけはやめてほしかった。椅子とかなんかあっただろ。ほんとに。

 

ちなみに初VRでした。バスで本読めるぐらいの人間なので特に酔ったりはしなかったです。しかし新幹線は新幹線の匂いで酔うので、VRに嗅覚のなんかがついたら酔うかも…。

 

⑤Q/市原佐都子『弱法師』

@スパイラルホール(9日、13時)

 

俊徳丸伝説ものは、一応能の『弱法師』人形浄瑠璃『摂州合邦辻』三島由紀夫『弱法師』寺山修司と岸田理生の身毒丸あたりを、うろ覚えながら全部読んだり観たりしたことがあった(読んだことないが、折口信夫の小説もあるらしい)。今回の上演にも、分かりやすいので言えばたとえば、三島由紀夫『弱法師』の有名なセリフ、「僕ってね、どうしてだか誰からも愛されるんだよ」、が引用されていたりしたので、私が気が付かないだけで、他作品からの引用とか影響がいっぱい隠されているのではないかな、と感じた。

 

上演のスタイルとしては、かなり人形浄瑠璃に近かった。全裸風のタイツを着て顔出しした俳優が、1人1体ずつ、全身を使いながらラブドールや交通誘導人形などを動かす。音楽は西原鶴真による、主に薩摩琵琶を用いた演奏。ただ電子音楽じみた音楽の時もあったし、初音ミクの歌声みたいなのも聞こえたし、なにより劇後半で西原自身が何故か爆音のなかバリカンで頭を剃っていたので、マジで「主に」薩摩琵琶だけど、それ以外のことも結構している、みたいな感じ。あとは、原サチコ(原宿系というか姫系というかなんかそんな感じで「お人形さん」みたいなかわいい衣裳を着ている)による義太夫語りで劇は進行していく形だった。

 

全体を通したテーマとしては「人間」と「人形」の境界の攪乱、それに伴って「生きていること」と「生きていないこと」の境界の攪乱、というのを感じた。

 

構成としては大体以下のような感じ。

第1部。なんとなく『摂州合邦辻』身毒丸っぽいな、と思った。交通誘導員で毎日の仕事を「自分は人形だから」と自身に言い聞かせて耐える父と、おそらく専業主婦の母の間に、念願の美しい息子が生まれるが、母はほどなく死ぬ。父が継母を連れてくる。その継母が息子に性的虐待加えているところ(三島のセリフが引用されるのはこの性的虐待のシーン。もちろん息子が継母に向かって言いはなつ)を父が目撃する。継母は息子の顔面及び眼球をめちゃくちゃに潰し、混乱のなか父は窓から落下し足を悪くする。

幕間。原サチコによるドイツ語での歌唱がメイン。「生きている人間そっくりなのに生きていない」「呪われた人形」などの歌詞が並ぶ。背後にはプロジェクションマッピングによって、父が100均で息子に買い与え、息子がその手足をもぎ取ったエミー人形が何十体もうごめいている。初音ミクの歌唱のような声が聞こえるのはこの幕間のラスト。

第2部。途中までは能の『弱法師』っぽい。ゴミ捨て場に捨てられた盲目の息子は、奇妙な(性的)マッサージ店で働くことになる。そこで働く人(形)たちはお客さんからマッサージのお代として、ペニスや唇などの身体のパーツの一部分をもらえる。店員たちはそれを用いて自分自身の身体を改造することによって、それまで自分を縛っていたしがらみからの解放を目指しているらしい。そのマッサージ店に足を悪くした父が偶然訪れ、息子と知らずに息子を指名する。息子はお代として父の心臓を抉り出す。父も、息子が首から下げている手足のもげたエミー人形を見て、自らの息子であることを知る。息子を買春してしまった後悔から父は首吊りをはかるが、父は「人形」なので死ねない。マッサージ店の店員の人形からは「自殺するなんて人形浄瑠璃の人形かよ(笑)」という皮肉が飛ぶ。息子は息子で、父から心臓を貰って「人間になれた!」とテンション爆上がりの舞を披露するが(ここはまさに能の『弱法師』の「夕日が見えた!」の狂いに相当する。なおバリカンのパフォーマンスはこの辺で行われた)、能の『弱法師』同様に結局勘違いだったことが分かる。「生きるのも死ぬのも結局は人形遊びにすぎない」という義太夫のセリフ。最後首だけになった息子が上手に、首を吊った父が下手にいる状態で定式幕がおり、息子の首から「ハロー!生きてるよ!キャハハ!」というセリフが流れて終わりだった。

 

登場人物たちは皆人形なのだけれど、人間らしく生きていこうとしたり、人間として生きている自覚を持ったセリフが散りばめられたりしていて、ぬいぐるみとお話しできる派の人間としては「そうだよなあ」という印象だった。生き生きとした人形とは対照的に、まるで「人形」のように無感情のまま、人形たちを背後で動かす「人間」である俳優たちとの対比も面白かった。ただ、人間として生きている自覚を持ったセリフが発せられた直後に、まさに「生きていない人形」であるがゆえの表象(たとえば、人間だったら死ぬ場面で死ななかったり)だったりセリフだったりが絶えず現れていた。加えて人形なのに人形を買ってもらったり、人間の自覚があるのに人間(俳優)に操られてしか動けなかったり、なんだかマトリョーシカみたいに「人間」と「人形」が登場人物たちの表層に代わる代わる出てくる。最初にも書いたけど、「人間」と「人形」の境界の攪乱、それに伴って「生きていること」と「生きていないこと」の境界の攪乱、というのを全体のテーマとして感じた。

あと、人形を愛するということと、人形を恐れるということのあわいが、この「人形の境界侵犯性」にあると思うので、人形を愛せる観客と、人形を恐れる観客とでは、大分違った印象を持つ上演なのではないかな、と思った。端的に言えば、人形を恐れる観客的には、この上演、かなり怖かったのではないかな、と想像する。個人的には、「人形だってこういう風に生きているよなあ!そうだよなあ!」とエンパワメントされる芝居だったのだけど…。

 

また、人間として生きているような自覚を持っている人形でも、舞台上での最終的な扱いは徹底して「捨て去ることのできる人形」であるのが、結構グロテスクだな、と感じた。本当の「人形」だったらもしかして無言で受け入れて許してくれるのかもしれないが、それが本当の「人間」だったらどうだろう。もしかしなくてもそういう扱いを無意識のうちに生きている「人間」にしたことがあるのではないか?と「人間」と「人形」が攪乱されるなかでちょっと考え込んでしまった。

 

あと、これは内容に全然関係ないんだけど、相互さんと偶然にもお会いできてすごく楽しかった。しかも学生ということでお茶までごちそうになってしまった。ありがとうございます。1カ月以上まともに人と話してなかったため余計に嬉しくて、ちょっと舞い上がってしまった自覚があって、ちょっと反省している。

 

頑張りすぎないように頑張るぞ

復学したら6割の力で頑張りましょう、という約束を精神科のお医者さんとしたので、頑張りすぎないように頑張ります。しかしこの1年、まともに勉強をしていなかったので、復学して授業についていけるか正直不安でいっぱいです…。

あとたぶんなんですけど、色々あって、演劇観る本数も2年前までよりはちょっと減るかな(もともと演劇学んでいる割には少ない方ですが)、と思います。

感想ブログは今まで通り気まぐれに更新していくつもりです。

2023年4月から10月までのNTLiveのちょっとした感想

タイトルまんまです。『るつぼ』ライフ・オブ・パイ『ベスト・オブ・エネミーズ』『善き人』『オセロー』(配信)の短い感想をまとめました。

 

 

 

『るつぼ』

シネ・リーブル池袋(4月15日、13時25分)

 

演出とかは結構オーソドックスで優等生的な感じ。加えて舞台美術は視覚的に美しかったのだけれど(ただなんで上から水が滝みたいに落ちてくるのかは結構謎)、戯曲がどうも嫌いな感じがする。アーサー・ミラーとどうしても仲良くなれない。もちろん赤狩り批判の芝居として大事な作品だと言うのは分かるのだが、なぜか全体を通して「若い女ってやっぱ怖え…」みたいなとこに話が縮んでいく感覚があって、「若い女」としては大変に不快。

 

そもそもアビゲイルという少女にプロクターという既婚者が手を出さなければ良かった話なのに、最終的にアビゲイルがなんかちょっと悪者ちっくに追放されて、プロクターは妙な聖性を帯びてかっこよく死んでいくのが解せない。アビゲイル自身、抑圧的なピューリタン社会の被害者なのに、そのアビゲイル、およびアビゲイルに同調する少女たちにのしかかるその抑圧を、批判的に眺めるような視点が戯曲に一切ないのも掘り下げが甘いと思う。あとプロクターの妻も、ものすごく薄っぺらい「良き妻」像として描かれるので、この辺はもうちょっと演出で補強してあげたほうがいいと感じた。今回、そこまでの積極的な補強は感じられなくて、なんだかとてもミソジニーな芝居だな、と率直に感じてしまい、ぜんぜん楽しめなかった。

 

なにより、アビゲイルを筆頭とする若い女性たちの実名顔出し告発をこういう風に扱ってしまっている芝居を、Me too運動とかが注目されている今やる意味が正直全然分からない。というかぶっちゃけ不愉快。なんでこの芝居今やろうと思ったんだろう…。

 

ライフ・オブ・パイ

@TOHOシネマズ日本橋(5月27日、11時40分)

 

パペットの技術は確かにすごいけど、原作(『パイの物語』で邦訳あり。弘前の図書館にもあるよ!)と全く違う話になっていた。もちろん話は同じなんだけれど、そこから立ち上がる主題が全く別になっているというか…。

NTLiveに関しては、演技とかを含めた技術面ですごいのは当たり前だと思っているので、パペットの操縦技術のすごさは特にプラス評価にはならなかった。

 

舞台の方は、とんでもない現実を経験したとき、そのトラウマを乗り越えるためには虚構の物語が人間にとって必要であり、創作の力というのはそういうところにある(だから演劇という創作も人類にとって有益である)、というありがちなところに縮んでいってしまっていたような印象がある。

 

それと比べて原作の方は(邦訳があるしハリー・ポッターシリーズ1冊分より全然短いからぜひ皆に読んで欲しいのだけれど)、なんていうか、ありきたりな言い方なんだけれど、もっと哲学的なところを主題として扱っていて、宗教とはなにか、「信じる」ということはどういうことなのか、この世界に対してどういう風に接していくべきなのか、というとこまで突っ込んだ内容になっている。

これを踏まえて舞台版を観ると(私は先に舞台版を観たのだけれど)、確かにスペクタクルではあるが、どうにも陳腐で普通なエンタメだな、という印象がぬぐえない。

 

そういえば、原作と舞台版で、主人公のパイの人物造形が全く異なるのも気になった。原作のパイは、父が動物園を経営していることから派生していった自身の特殊な経験を糧に、自分自身の力と知性でベンガルトラとの漂流生活を成し遂げていくように描かれている。要は、かなり賢く理知的な人物として描かれている。しかし舞台版では、いたずら心でトラの檻に侵入するような、良く言えば無邪気、悪く言えば馬鹿としか言いようのない感じで、トラとの漂流生活も、大切な人たちの幻想に頼ることでなんとかギリギリ命をつないでいくような、相当に危なっかしい印象があった。確かに特殊な経験と知識を持った聡い少年が、それを活用することでたくましく漂流生活を行うよりは、無邪気で幼い少年が、大切な人たちの幻に助けられながら漂流生活を行う方が、なんというかディズニー映画っぽいエモーショナルさで、たぶん大衆にウケるとは思う。ただそのために主人公の造形を大幅に変えてしまうのは、原作ファンに対する裏切りなんじゃないかと感じた。物語の主人公は確かに未熟で何にも出来ないところから成長していくのが、鑑賞者の自己投影を誘いやすい点で王道ではあるけれど、そういうのは大衆映画とかに任せておいても良かったのではないかと思う。

 

というわけで、舞台版を観られなかった人は舞台写真とかティーザーとかでパペットのすごさを実感したら、あとはくよくよせずに原作小説を読んだ方がいいと個人的には思う。少なくとも、私は舞台版を観た時にはエンタメだなとしか思えなかったけれど、原作小説を読んだ後は「神を信仰するのって日本だと悪いイメージがあるけれど、もしかしたらそんなことないのかもしれない」と少しだけ自分の考えが動かされるのを感じた(そしてこの物語全体は「神を信じたくなる話」として語られるので、作者の目論見は大成功ということになる)。実は鬱で活字が相当に読みづらい時期に読んだのだが、それでも頑張って読んで良かったと思える1冊だった。自信を持ってお勧めしたい。

 

『ベスト・オブ・エネミーズ』

シネ・リーブル池袋(9月9日、12時5分)

 

舞台は1968年アメリカ。大統領選挙前の共和党民主党大会に合わせて、視聴率最下位のABCは新しい政治討論番組を企画する。『ナショナル・レビュー』編集者であるウィリアム・F・バックリー(デイヴィッド・ヘアウッド)、民主党支持者でバイセクシャルのゴア・ウィダル(ザカリー・クリント)に白羽の矢が立ち、2人は毎晩カメラの前で舌戦を繰り広げていく…、という実際にあったことを基にした作品。

主演の2人へのインタビュー映像が幕間に流れたんだけど、話し方?アクセント?が全然違ってビビった。英語苦手民でも分かるくらい全然違った。たぶん2人そろって本人に話し方をめちゃくちゃに寄せたんだと思う。すごい。

 

アメリカのテレビ討論番組が今みたいなデマまみれのめちゃくちゃなものになったきっかけが、たぶんこの討論番組であった、ということをスリリングに描いていて面白い作品だとは思った(そしておそらく、こういう討論におけるヘイトのぶつけ合いみたいなエンタメ政治の終着点がトランプだったんだろうな、と感じた)。そしてその討論番組が残した、バックリーとウィダル2人へのどうしようもないダメージの大きさも結構意外だった。直接的な政治の話というよりは、この2点に重点がある作品だったと思う。

あとスーツのインテリエリートおじさんたちが、理性的に話し合いをするつもりが、何故かその知性を互いを罵倒し合うことに使い始めて、言葉によるガチの乱闘騒ぎになってしまった…みたいなのが好きな人なんかは、すごく刺さる作品なんじゃないかと思う。加えて時々ジェイムズ・ボールドウィン(サイラス・ロウ)が、こういう討論番組で1人の人間が1つの立場を代表することの弊害とか、その特権意識とかについて、鋭いコメントをさしはさみ、批評的視点というか、そういうエッジを効かせていたのも良かったと思う。

実は主演2人よりも、このボールドウィンが一番美味しい役なんじゃないかと思った。

 

なによりテレビのスタジオを意識したスタイリッシュな舞台美術と巧みかつスピーディーな舞台転換、またテレビカメラを意識したようなカメラワークが秀逸で、「収録」された演劇として観る面白さを高めていたように感じる。

 

ただ後半、もしテレビカメラがなかったらバックリーとウィダルの2人はどんな話をしていただろう、というif軸の話に入ってからは、愛だの恋だの信念だのの話に入っていき謎にエモくなるので、そこはちょっと好みではなかった。急にやおいの二次創作が始まった、という感じで、私はその切り替えにあまりついていけなかった。

でも、あとあとから考えてみると、政治的に対立していたハズの2人の間に、最後に(二次創作ではあるもの)ある種のエモーショナルなやり取りとそれによる和解が生じることは、「そういうことが起こり得ないであろう現在」に対する一種の願いなんだろうな、となんとなく感じた。そういう、思想面では対立してはいるものの、感情面では1人の人間として当たり前に尊重して話し合える、みたいなことが現実ではあんまり起こり得ないからこそ、トランプとその支持者によるあんなことが起きてしまったんだろうな、とぼんやり思った。

 

ただ、やっぱりこの最後のエモさ、好みではない。

 

『善き人』

シネ・リーブル池袋(10月20日、13時35分)

 

天下のデイヴィッド・テナント主演の舞台作品が2500円(3000円)で、しかも日本で観られるなんて…!とテンションアゲアゲで行ったら、席の異様な埋まり方とパンフレットの異様な速さでの売り切れ方にビビった。テナントさん人気を舐めてた…。

 

内容としては1933年から1941年くらいまでのドイツが舞台で、主人公は大学の研究者のジョン・ハルダー(デイヴィッド・テナント)。このハルダーのメモリー・プレイとして進むので時系列が直線的というよりはあっちゃこっちゃに飛ぶ印象があって、観ている観客としても、ぼんやりした記憶を断片的に思い出すような感覚にさせられる。加えて、ハルダー以外の登場人物は、ほぼエリオット・リーヴィーとシャロン・スモールが衣裳替えとかもせずとっかえひっかえ演じるので、余計に「あれ、いま誰が何の話をしてたんだっけかな…」と霧のかかった記憶を思い出しているような感覚にさせられる。この辺は観客への効果を考えるとかなり上手い演出だと思う。

あとリーヴィーが、ハルダーの友人でユダヤ人の医者であるモーリスを演じていたと思ったら、次の瞬間にはおそらくナチスの高官を演じているシーンが結構あった。抑圧する側とされる側の関係性になにか納得できるようなあれこれがあったわけではなく、舞台上でこんなふうにオセロみたいに切り替えれるようなそんな関係性しかなかったんだ、と感じてしまい(たぶん実際問題そうなので)、この役振りも上手いな、と感じた(元の戯曲は俳優十数名で演じる作品だったらしい)。

 

肝心の物語自体はそこまで複雑ではない。ハルダーにはたぶん認知症かなにかの母がいて、妻子もいたのに、指導学生と恋に落ちてしまい、おまけに同時期に著作がナチスに気に入られてしまう。そのままハルダーはどんどんナチスの仕事を任されるようになり、ユダヤ人虐殺へと深く関わっていく…というのが全体の内容。でも水晶の夜以前で舞台上で唯一写実的に描かれるナチスの蛮行が焚書だけなので、「ハルダーにとっては水晶の夜以前にナチスがやらかした一番のインパクトがあることが、焚書だけだったんだなあ(ハルダーは大学教授なので)」ということが明確に表されていたりなんかして、とにかく演出が上手い。

 

あとハルダーのメモリー・プレイとして進むのでとにかく刻むようにハルダーの独白やら傍白やらが入るのが特徴としてある。その中ですごく感動してしまった独白があって、「自分は基本的に恵まれている人間だから、その恵まれた状態を楽しんだり維持したりするのに忙しくて、ユダヤ人問題が真摯に取り組むべき問題だということは分かっていても、どうしても優先順位が低くなってしまう」とかなんとかいう独白。マジョリティ側の人間が陥りがちな「自分が幸せに暮らしていけることこそが、社会を善き社会にすることよりも重要なことなんだ」という間違った論理が前面に出ているセリフで(なんなら自分の幸せこそが、善き社会に繋がっている、と考えている節さえある)、「ああ~この考え方、間違ってはいるのだけれど同じマジョリティとして痛いほど分かる!」と共感してしまった。

私は強い人間ではないので、もし自分があの時代のドイツにいたら、ユダヤ人虐殺に積極的に関わるほどの地位にはいないと思うけれど(いま現在若い女性なので)、たぶん黙認はしていただろうな、という自信は正直ある。

こういうことを悪びれもせずに言い切ってしまえる人間は、そりゃああの時代にいたらユダヤ人虐殺へと関わっていくのが必然なわけで、少なくとも私はそう思っているから、ハルダーが幕切れ付近でナチスの制服を、まるで普通の制服のように着たことに特にショックを受けなかった(それまで舞台上にナチスの制服は一切出てこないので、たぶん演出意図としては観客にここである種のショックを与えたかったんだと思う)。

あと特にテナントさんのファンという訳でもないし…。

 

ところで、ハルダーには妙な病気みたいなのがある。人生のちょっとした局面みたいなところではいつもバンドの音楽が聞こえる、というものだ。たぶんこれは、ある種の現実逃避が精神病的に現れたものなんだと思う。これは作品通して何曲も現れてくるのだが、正直、最後の場面になるまで意味が分からない。

で、その最後、ハルダーがナチスの制服を着てアウシュビッツに着いた時にも、もちろん爆音で音楽がかかっているのだけれど、この時、舞台後方の壁が上がって、後ろから収容所の囚人服を着たバンド隊が演奏しているのが見えてくる。それを見たハルダーが「バンドは現実のものだったんだ…」と2回繰り返して幕、という形だった。この演出も上手いな…と思った(戯曲読んでないのでどこまでが演出なのかは知らないけれど)。

つまり、人生の局面で、気が付かないうちに押し込めたり、見ないようにしてきた不安とか抑圧みたいなものが、自分にだけ聞こえる音楽という精神病的なものとして現れていたのだけれど、そういう確かにあったはずなの見ないふりをしていた不安とか抑圧とかに対して、普通の善良な市民である主人公は、アウシュビッツの職に着くことになって(かなり引き返せないところまできて)、ようやく「現実」に存在するものだったんだ、ということに気が付いた、ということだと私は受け取った。

こういう、なんとなく気が付いていたくせに、引き返せないところまできて初めて「あれ?」と思うのも、「普通」の人、という感じで(まあ大学の先生ならもうちょっと頑張れよ、という気がしないでもないのだが)、「分かる!」とテンションが上がってしまった。

 

全体的に、別に今の価値観で判断すると超前衛的な戯曲というわけでもないと思うのだけれど(ちょっと時系列がごちゃごちゃしている程度。発表当時はもしかしたら珍しかったかもしれない)、その戯曲を彩る演出の手さばきが上手すぎて、観ている最中に「うまーい!!」とテンションが変な方向にあがってしまう作品だった。別にテンションがあがる内容ではないのだけれど…。

 

あとTwitterの方で教えていただいたポッドキャストを聞いて、演出家頭良すぎじゃね?????となったので興味ある方は是非どうぞ。自動翻訳がギリギリ仕事をしてるので英語できない私でもなんとなくは分かった。なので安心して聞こう。

youtu.be

 

本当に観ている間も観終わったあとも「演出上手い!!頭良すぎ!!いいね!!」がとまらない作品だった。あとテナント沼に落ちたらどうしよう…!とわくわくしながら観に行ったのだけれど、別に沼には落ちなかった。残念。

ただ、たぶん半年後に覚えているのはテナントさん演じるハルダーの執拗なカメラ目線だけだと思う、というくらいにはカメラ目線が多かったので、もうちょっと引きの絵で観たい場面あったな、頼むよNTLiveカメラ班、と思うには思った。でもまあテナントさんファンへの配慮かもしれないな、とも思ったからなんとも言えない。

 

『オセロー』

@家(YouTubeの無料配信、英語字幕)

 

英語字幕だったので以前に観た日本語での上演と読んだことある戯曲の記憶を頼りに雰囲気で乗り切って観た。のでたぶん解像度は低め。

 

演出自体は洗練されていてかっこよかったし、上手い演出だと思った。

特にあんまり観たことない演出としては、デズデモーナとエミリアシスターフッドみある演出。正直戯曲全体としては女性差別しまくりな作品なので、それに対抗する手段として頭いいなと感じた。

あとは白人のモブがチャーミングな扇動者であるイアーゴー(もちろん白人俳優)をはやし立てるような、現代でもよく見る政治的な構図を思い起こさせる演出とか、オセロー(黒人俳優)が転落していくさまをその白人のモブが楽しむように冷たく眺めている演出とかもあって、現代の排他的な政治状況と、人種差別と、あと先に挙げた女性差別の3点に演出意図をクリアに絞っている感じがして、よく戯曲をこんなにきれいにさばいたな、と上から目線で感心してしまった。

ただクリアに絞りすぎたせいか、オセローとイアーゴーの同性愛的なあれこれがごっそり抜け落ちてしまっていて、ここは好みが分かれるだろうな、と感じた。

あとこれも好みの問題になるんだとは思うんだけれど、イアーゴーを演じていた俳優(ポール・ヒルトン、たぶん51歳)が、たぶん私が観たことあるイアーゴーの中で最高齢で、イアーゴーってたしか27、8歳の設定(たしか戯曲にそう書いてたような…うろ覚えだけど)だったと思うので、オセローより年上に見えるだけで雰囲気変わるもんだなあとなんとなく感じた。なんというか、イアーゴーがオセローより年下かな、という風に見えると、イアーゴーがオセローを貶すのも憧れ混じりなのかな、という風に見えるのだけど、年上に見えると、純粋に年下の上司であるオセローをめたくそに貶しているだけに見えてしまって(もしかしたらそういう演出と演技だったのかもしれないけど)、ちょっとびっくりした。

 

しかしまあ、こんなに頭良く上手く演出されても、私の目にはやっぱり女性蔑視のものすごい昼ドラ感満載のくだらない話にしか見えず(たぶん戯曲自体が嫌い)、イアーゴーをめちゃくちゃ好きな俳優がやる、とかでない限り、しばらく『オセロー』はいいかな、と結構本気で思った。

 

今年もお世話になりました。来年もたまに更新するのでよろしくお願いします。

『オセロー』が公開された6月は東京にいなかったので「詰んだ…」と思ったんですが、あとから配信してくれて助かりました。これで今年のNTLiveは

 

monsa-sm.hatenablog.com

 

『レオポルトシュタット』『かもめ』☝も観ているのでコンプリートです!!

マジで休学中で半年以上実家のほうにいるのに、よく頑張ったと思います。偉いぞ自分。

 

正直NTLiveでやるような作品って私の好みからは外れているんじゃないかな…とここ最近思うことが多いんですけど、それでも色々観ると面白いのはあるし、なにより海外の舞台観られる貴重な機会を逃してたまるかという執念で観ています。

 

そんなわけで来年も(何やるか分かんないけど)NTLiveコンプリ目指して頑張ろうかと思います。

 

あと前の記事にも書いたけれど、生観劇を再開するのが来年2月なので、ブログの更新はそれ以降になります。とは言ってもこのブログ読んでる物好きな方は年内まだまだ観劇されると思うので、みなさんよいお年とよい観劇を~!!

2023年9月から10月に生で観た舞台のちょっとした感想

来年の2月まで実家にいる予定(休学中)なのでしばらく観劇しません。ちょっと演劇のことで最近頭でっかちにぐるぐるしすぎちゃうので、いい機会だと思って生の観劇から少し離れてみようかと思います。9月から10月の2カ月間映画を観てなくて、この間久しぶりに映画を観たら面白かったので、なんかそういう効果を期待してます。

 

てなわけで9本(実質10本?)感想書いていきます。うちミュージカル2本、ダンスは1本だけです。

 

 

2023年9月

①『スクールオブロック

@東京建物Brillia HALL(17日、12時45分)


柿澤勇人が太っていないのが駄目だった。というかデューイ役に太った俳優をキャスティングしていないのが駄目だった。

 

なんで駄目かと言うと、元の映画(2003)にあったボディポジティブ的なメッセージが皆無になってしまうからだ。映画ではデューイをジャック・ブラックが演じているのだけれど(調べればわかるが結構太めの俳優)、そのデューイが結構かっこよく、自分に自信満々で、最高にロックなのがこの話の1つのポイントだ。映画には、同じく太っているトミカという女の子が、デューイのそんな態度に勇気をもらう場面まである(この場面でデューイがトミカに対して「君は全然太ってない」と言うのではなく「太ってて何が悪いんだ?」という態度を貫くのがかっこいい)。

つまり、ロックスターは痩せててかっこよくなきゃなれない、という思い込みを盛大にぶち壊しつつ(とてもロックである)、太った人が太った自身を否定せずに「太っているやつが最高にロックで最高にかっこよくて何がいけないんだ!」とハチャメチャに人生を楽しんでいるところが、この映画の個人的に好きな面だったし評価されるべき面だと思う。

 

だからデューイ役がいわゆるイケメン俳優では駄目なのだ。トミカも同様にほっそりした子(三上さくら)が演じていたので、もちろん映画にあったようなデューイとトミカのやり取りはカットされている(その代わりなのかなんなのか、映画には出てこないトミカの親はゲイカップルになっていた)。映画と舞台版でもともとどの程度の違いがあって、かつ今回の日本版に合わせてどのぐらい舞台版が改変されたのかは知らないが、たとえトミカとデューイのやり取りがなくても、デューイ役が太った俳優なだけで十分にもとの映画にあったようなボディポジティブなメッセージは伝わる。だからやっぱりこれはミスキャストと言わざるを得ない気がする。

なんなら柿澤勇人演じるデューイが「ダイエット中なんだ」と言ってしまう悪影響の方が引っかかるレベルだった。それ以上痩せてどうすんのよ…。

 

それと、キャストがキャストなので歌唱力は全体的に子役も含めて高かったが、それ以前にアンドリュー・ロイド・ウェバーが書き下ろしたであろう曲が、映画のオリジナルかつ舞台版でも使われる“School of rock”という曲に全く合っていなくてずっこけた。もっとこういう曲調が得意な人に作曲させた方が良かったのではないか?と思う。正直「何か印象に残っている曲はありますか?」と聞かれたら「校長が歌っていた『夜の女王のアリア』です」と自信満々に答えるしかない。私もなんでロックなミュージカル作品に突然『夜の女王のアリア』をぶっこもうと思ったのかは知らない。ほんとになんでだ?

 

あとロックっぽい曲調とかロックっぽい楽器の音色とかは、ブリリアと相性最悪だった。マジで歌詞が聞き取れない。そうでない曲(『夜の女王のアリア』とか)は比較的聞き取りやすかったので、ロックなミュージカルなはずなのに、曲がロックになればなるほど聞き取りづらい謎状態になっていた。

 

もちろん好きだったところもあって、例えば梶裕貴が演じていたデューイの友人のネッドなんかは、映画版よりだいぶコミカルな感じでキャラが立っててとても良かったと思う。でもそれを上回る「日本のメインストリームってこんなもんだよなあ」という脱力感が半端ない。私はいつか、太ってたりイケてない見た目だったりするおっさんとかおばさんとかが、ブリリアみたいなでっかいハコで堂々とミュージカルの主演を務めているのが観てみたいと思う。もちろん日本で。

 

でも、たまたま相互フォローの方とお会いできたので、行って良かったな、とは思っている。

 

②『橋からの眺め』

東京芸術劇場 プレイハウス(21日、13時)

 

演出がジョー・ヒル=ギビンズじゃなかったら観に行かなかった、というぐらい戯曲が嫌い。叔父さん(伯父さん?)が姪に対して異常なまでの愛情を抱いてしまい、それをぽっと出の不法入国兄弟の弟にとられそうになって、腹いせに不法入国のことを密告したら、兄の方に殺された、というとんでもなく自業自得な話だからだ。「で?だから何?」と大声で言いたい(なんなら「キッショ!!」も付け加えたい)。ただNTLiveのイヴォ・ヴァン・ホーヴェの演出では結構視覚的にスタイリッシュかつショッキングな感じになっていて、観ていて「まあ面白くなくはないな?」と上から目線で思ったので、今回も行ってみた…というのが経緯。

 

そんなこんなで元の戯曲が嫌いすぎてハードルがだだ下がっていたので、意外と普通に観られたな、というのが第一印象。第二印象はエディ役の伊藤英明が棒読みすぎる、ということ。

ただその棒読みが上演全体に特に良くも悪くも作用していなかったので、まあこれはこれで…みたいな不思議な気持ちになった。妙な味わいがある…というか。

 

舞台美術全体としては天井が上下する流行りのタイプのあれで、どういう基準で上下しているのかは最後まで謎だった。キャサリンの目の覚めるような蛍光イエローのワンピースはポップで可愛かったと思う。あと室内の場面が多いのだけれど、登場人物たちがどういう基準で靴を脱ぎ履きしているのかは、日本的な感覚からすると結構謎だった。

 

全体的に特に心に引っかかるような場面がなく、面白味のない優等生的な上演だな、と感じた。

 

③『アナトミー・オブ・ア・スーサイド -死と生をめぐる重奏曲-』

文学座アトリエ(22日、13時)

 

知ってる先生が翻訳してるんだけど(結構おしゃべりしたことある先生で、なんか翻訳の口調がものすごく「ああ~あの先生っぽい!」という感じだったので、それは面白かった)、どうも上演で観るよりは翻訳原稿片手に原文で読んだほうがまだ面白いのでは?という感覚をぬぐえなかった、というのがぶっちゃけた本音。

 

一応説明すると、形式が結構とんがっている形の作品で、Aパート、Bパート、Cパートに分かれた3つの物語を舞台上に同時展開していく(原文戯曲は本を縦にめくる形で3列になっている)、というのが特徴。

 

〈Aパートのあらすじ〉

希死念慮持ちのキャロルが自殺未遂をして、病院で治療を受けたところから始まる。キャロルは妊娠ののち、「遺す」ためにプラムの木がある家を購入する。アナを出産し、娘のために「出来るだけ長くとどまる」ことを決意するが、電気痙攣療法を受けるものの改善はせず、誕生日の朝に自殺。なおキャロルと友人女性がキスをする描写がある。

 

〈Bパートのあらすじ〉

大学卒業後、薬物依存の治療のために入退院を繰り返していたアナ(キャロルの娘)は、ジェイミーという男性と出会い、結婚し、プラムの木がある家に戻る。その後ボニーを出産するが、そのことに大きなショックを受けてしまう。キャロルと同じように電気痙攣療法を受けるが、やはり回復せず、自殺。

 

〈Cパートのあらすじ〉

アナの娘ボニーは成長して病院の医師として勤務している。プラムの木がある家を売り払おうとしたが、次第にその家で多くの時間を過ごすようになっていく。一度、ジョーという女性と交際関係になりかけたが、うまく親密になりきれず破綻。プラムの木がある家で過ごすうちに、祖母と母とのつながりを感じるようになったボニーは、この繰り返しをここで終わらせようと避妊手術を決意する。

 

全体的にフーガ的な構成になっていてるのだけれど「三世代同時にセリフ発声されるとすごくうるさいな」と思ってしまって(戯曲自体は空白がかなり多くて静かな印象だったので余計にそう思った)、同時進行でやる意味が正直よく分からなかった。まあ三世代の話なので、連綿と受け継がれていく命の有り様を視覚的に表現しようとすると、同時進行という形になるのかもしれないけれど、3つの物語を順番に上演しても大して違いはないのではないかと思う。同じセリフを三世代同時に喋ったり、Aパートの人物の問いかけにCパートの人物が答えているように聞こえたりするような場面もあるのだけれど、それが何かとんでもなく面白い効果を生んでいるようには到底思えなかった。たしかに英語で上演すれば音楽的には面白いのかもしれないけど、英語の言語リズムで書かれたであろう音楽的な作品を、日本語のリズムに直さざるを得ない段階で、その音楽的な面白さの部分は半減(以上)しているのではないだろうか、と上演を観てなんとなく感じた。

 

あと、物語の女性たちが苦しんでいるのは、おそらく「女性とはこうあるべき」とか出産とかにまつわる社会的抑圧のせいなんだろうな、という予想は立つのだけれど(作中に明確には描かれないが)、それを血のつながりをベースでやられてしまうと、どうしても遺伝子決定論的な雰囲気(親が自殺したんだから子供も自殺したんだろ、とか、親が病んでるから子供も病むんだろ、とか果てはボニーが同性愛者なのは、もしかして祖母のキャロルが実は同性愛者だったからではないだろうか、的な考え方)を醸し出してしまっていて、観ていて大変に居心地が悪かった(遺伝子決定論、個人的に大嫌いなので)。こういう場合、もっと演出で「社会的な抑圧の方が原因ですよ~」ということを際立たせた方が良いのではないかな、と思ってしまったけれど、これは上に書いたように好みの問題かもしれないので何とも言えない。

でもそもそも、女性がメンタル病んで気が狂ってしまったり、自殺してしまう芝居って今のニーズに合っていないのではないかな、とも感じた。2017年の作品だから、その時と2023年ではまた状況が違うのだろうけれど、なんらかの精神的な苦痛を抱く3世代の女性を、ガラスケースに入れたみたいに並列させて比較することで、その苦痛の原因探しを観客にさせるような上演の構図に、ぶっちゃけ吐き気を覚えたことも一応書いておく。そんな簡単に希死念慮とか自殺に至った原因が分かってたまるかよ、と希死念慮持ちとしては感じた。

 

あと上演においては、基本的に下手からABCの順番で並んでいたのだけれど、たまにBACとかCBAみたいな並び方にシャッフルする演出が加わっていた。ただでさえ十分に混乱しやすい作品なのに、観客の頭をさらに疲れさせるこの演出に一体何の意味があるのだろう、ととても疑問だった。

それと、最後の場面、プラムの家を買いに来た母娘に、ボニーがプラムの果実を勧める場面で終わるんだけれど、そのとき、何にもなかった舞台上の背景に緑色が鮮やかに輝く庭が現れる演出がある。これはたぶん避妊手術をしようがしまいが、ボニーが連綿と受け継がれてきた生命の一個体であることは変わらず、これからの彼女の生を祝福する意味合いがあったのだろうけれど、ここをこうも美しく演出してしまって良いのだろうか、という疑問が尽きなかった。ボニーが避妊手術を志したのは、作中には明確に描かれてはいないけれど明らかに社会的な女性への抑圧が原因であって、それがなかったらボニーはこの選択をせずにすんだのかもしれないのだ。被害者がなんとか適応しようともがいた末に至った結末(本当はそんな必要などなく、変わるべきは加害者である社会のはずなのに)を、こうも美しく描いてしまうことの危うさの方を強く感じてしまった。

 

色々好き勝手書いたけど、ぶっちゃけ形式の面白さ以上の面白さが終始私にはよく分からなかったんだと思う。たぶん命をつなぐ、という行為自体を心の底では結構気持ち悪いと思っているので、そもそもの物語が全然好みに合ってないのが問題なんだろうな、となんとなく感じた。ごめん先生。

 

④木ノ下歌舞伎『勧進帳

東京芸術劇場 シアターイースト(23日、13時)

 

古典の現代化の好例だと感じた。衣裳は黒一色でまとめていて、ラップやダンスも入り乱れつつ、照明や音響の雰囲気なんかもクラブみたいなスタイリッシュさがあって、普通にかっこいい演出だと思った。ダンスの中に、ときどき歌舞伎や能から取ってきたのかな、という型の動きが入るのも面白い。セリフもそんな感じで古典から取ってきたものが混ざったりするので、古典の原作知らなくても楽しいけど、知っていたらいたで楽しい、みたいな絶妙なバランスだったと思う。

 

あと古典でもそうなのだけれど、よりいっそう富樫(坂口涼太郎)に比重を傾けたのが良かったと思う。最初は仲間からの差し入れのレッドブルすら飲まないぐらい権力とか規則側にがちがちに縛られている感じなんだけれど、弁慶(リー5世)が義経(高山のえみ)を打ち据えるのを見てかなりうろたえたり、弁慶たちの堅い団結や友情を見て心動かされたりする様子なんかが、歌舞伎よりもずっとはっきりと描かれていた。それを通して「自分はずっとがちがちに縛られたままの人生で良いのだろうか…?」みたいな考え方に富樫自身なっていくのがよく伝わってきた。最後に、富樫が、見逃した義経一行たちとピクニック&バカ騒ぎをするのは、そういう富樫の心境の変化によるものだと思う。幕切れのラジオ放送からも、この「見逃し」によって富樫が罰を与えられることは暗示されているのだけれど、そうだと分かっていても(馬鹿なことだと分かっていても)、一時の楽しみに身を投じてしまうのもまた人生の醍醐味だよね、という感じで、きっと富樫は、見逃した一行とバカ騒ぎをして楽しんだことを生涯後悔したりはしないだろうな、となんとなく思った。

 

あとキャスティングがとても良かったと感じた。みんなハマり役。

 

⑤『ラグタイム

日生劇場(27日、12時45分)

 

第二次世界大戦直前くらいの黒人差別とか移民問題とかを描いたミュージカル作品。キャストが派手で衣装もセットも豪華で、ザ・大型ミュージカル作品!ではあった。ただ私が馬鹿だからかもしれないけれど、この作品を「今」「日本で」やる意味がこれっぽっちも分からなかった。こんなの海外から持ってきてやるぐらいなら、同じキャスト使って、日本の差別の歴史とか移民問題の歴史とかに正面から向き合った(かつ簡単なお涙頂戴に流れない)オリジナルミュージカルをぶち上げて欲しい、と心の底から思った(と同時に、そんなの日本では無理か、とも即座に思ってしまったのが悲しい)。

 

あと、白い衣裳が白人、黒い衣裳が移民系、カラフルな衣裳が黒人を表していたの、たしかに「日本で」やるなら賢いやり方だとは思ったし別に駄目ってわけじゃないけど、「日本の演劇界ってほんとメインストリームには人種の多様性がないんだな」と改めて認識してしまいちょっと悲しくなった。

 

サラ役の遥海の歌声が、海外のミュージカルスターみたいでかっこよかったのが唯一の救いだったのだけれど、なんか物語内容とは全然別のところで、終始悲しくなってしまう作品だった。

 

2023年10月

①『ヒトラーを画家にする話』

東京芸術劇場 シアターイースト(1日、11時)

 

うっすらとした知り合いが出演しているし、前に全公演中止になってチケット払い戻した過去があるので、楽しみに観に行った。

ただ11時開演は早すぎんだろ、とちょっとキレた。でもこの日を選んだのは自分です。ザ・自業自得。

結果、今回観た9本の中で1、2を争う感じで評価が難しい感じの作品だった(もう1本は太陽劇団)。

 

物語はタイトルまんまで、美大生3人がひょんなことからタイムスリップしてしまい、画家を目指していた若きアドルフ・ヒトラーと出会ったので、「ここでアドルフを画家にできればホロコーストなくせるんじゃね?」というナイスな思い付きから奮闘していく…、という、ラノベとかなろう系とかのティーン向け小説で読んだことある雰囲気の歴史改変SFファンタジー、といった趣。

ちなみにこの美大生3人、あまりにも世界史の知識がふわふわしすぎていて「お前ら中学は出てんだよな?」と思ってしまった。それとも美大生ってみんな興味ない分野とかに対してはこんなもんなんだろうか…。あと絵画批評のセリフもふわふわしてたよね…。大丈夫か美大生…???

結構ドタバタコメディタッチなんだけれど、ユダヤ人同化の話とか、当時の女性参政権の話とかをさらっと拾っていて、素直に「上手いな」と思ってしまった(ただ、そのことで出てくる、画家を目指してるユダヤ人学生が、あまりにものっぺりとした模範的「善人」なので、そこは表面的だなと思った)。

最後、無理に歴史を大幅に改変するともとの時間軸に戻れなくなってしまうことを知った美大生たちは、大幅な改変を諦めてもとの時間軸に帰るのだけれど、そのもとの時間軸で、タイムスリップ前には発見されていなかったユダヤ人画家(もちろん上記の画家を目指していたユダヤ人学生)の作品が発見されていること、また、美大生がもとの世界に帰ったあとのアドルフ・ヒトラーの時間軸では、アドルフが親友に連れられる形で政治的活動の仲間から離れていく描写で幕切れになっていることからも、このタイムスリップが全くの無駄ではなかったことが示されて終わる。後味の良い作品だったと思う。

ただこのテンションで上演時間3時間弱だったので長すぎる、と思った。90分ぐらいがちょうどよいライトさ。もうちょっとコンパクトにした方がいいと思う。

 

3年ほど前、現役の高校教師から「今の高校生は”アウシュビッツ”と聞いてもピンとこないかも?」という話を聞きました。ヒトラーホロコーストのことは知っていても、それと「アウシュビッツ絶滅収容所」が結びつかないだろうと。私、とても驚いてしまって。若い人たちが歴史を知るきっかけになるような作品を作らないと!と思って作ったのがこの作品です(当日パンフより)

 

劇作家自身がこう書いてあるように、笑いあり涙ありのエンタメで、かつ考えさせるティーン向けの教育劇、という目線で見れば大変に良く出来た作品であると判断せざるを得ないと思う。実際に観ていてかなり楽しかったし。

 

ただこの物語の主題は、美大生3人(そのうちの特に1人)の自己実現なのだ。そもそもアドルフを画家にしようとしたのだってその1人の卒業制作のためだったし、物語の山場では、社会がどんよりしていて、好きなものを胸張って好きって言いづらくても、胸張って好きって言うのって結構大事だし、そうやって好きなものを選び取ることが、ささいなことかもしれないけれど自分、ひいては社会のためすらなるんだ、というメッセージが前面に出てくる。物語の最後で、画商の父から画商になることを強く勧められていて悩んでいた1人が、自分は絵を描くことが好きなのでやっぱり画家になる!と大宣言をぶちかまして終わるので、メッセージとしてはやっぱりこの辺に重点があるのだろう。

 

このメッセージ自体は何の問題もない。素敵なメッセージだと思うし、進路選択に迷う高校生なんかは勇気づけられるかもしれないな、とも感じる。

 

問題なのは、なんだか、ぶっちゃけちょっとノーテンキで薄っぺらいこの自己実現とかこのメッセージを伝えたいがために、ユダヤ人迫害の歴史を「利用」している感じがどうにもぬぐえないということだ。そんなことに「利用」していいものではないことはよほどの馬鹿じゃない限り分かっていると思うので、上演側にそんなつもりはないというのはもちろん分かっている。分かっているのだがどうしても、歴史を扱った作品内に言語化できてしまうメッセージを組み込んでしまうと、そのメッセージを伝えたいがためにその歴史を都合よく切り取って利用したような構図に見えてしまうのは、避けられないことがほとんどなのも事実である(その歴史が「深刻」なものであればあるほど、そのメッセージが他の文脈で表現可能であればあるほど、そのように見えてしまう)。今回に関しては、明るくノリのいいタッチと相まって、その辺がかなり危ういな、と正直感じてしまった。

評価が難しい、と最初に書いたのはそういう理由からだ。観た直後にこう感じてしまい、当日パンフを開いたらティーン向けの教育劇ということが分かって、それなら、と評価を上方修正した、というのが実際のところだ。

 

重ねて言うが、公共劇場において安い値段でやる教育劇、という視点から見ると、とても良く出来た作品だと思う。ただ、芸術か、と言われると正直答えに詰まるのが本音。

歴史を扱った芸術を鑑賞するといつも考えることがある。たとえば引きこもりのおばさんの生活を描いたり道端の石ころを描写することよりも、革命や虐殺といった歴史的事実を作品で取り扱うことのほうが、何かしら重さのあること(重要なこと)として捉えられてはいないだろうか。もしそうなのだとすればその価値判断を強いているのは一体何なのだろうか。それは社会的規範ではないのだろうか。そして少なくとも近代以降の芸術は、そもそも、その社会的規範に何らかの形で穴をあけたり、宙ぶらりんにしたり、曖昧にさせたりするものではなかったのだろうか。

社会的規範が重要だとしているから重要なものとして歴史を扱う、という姿勢で作られた作品というのはなんとなく分かるものだ。今回だって(社会的規範的に)歴史を学ぶことは重要だから高校生とか向けに書いた、ということが明記されている。私はこういう作品を芸術と呼んでしまうことにどうしても抵抗を感じてしまう。それは芸術ではなく、教育の範囲に入るものではないのだろうか、と思ってしまうからだ。

 

まあ、いろいろぐちゃぐちゃ書いたけれど、長すぎたこと以外を除けば、知り合いの豹変っぷり(舞台ではかなり嫌な奴だったと思うが実際はマジの陽キャコミュ力お化けの好青年)も楽しかったし後悔はしていない。ただ若者組より大人組の方の演技が上滑りしてる感じがあって、普通逆じゃないのかな、となんとなく思った。

 

②『漁師グラフス』

@シアタートラム(7日、14時)

 

漁師グラフスが狩りの途中で崖から落ちて死んでしまう。しかし死の国へ向かう小舟が航路を誤り、1500年以上にも及ぶ旅をし続ける羽目になる…、というカフカの未完小説の舞台化。

一糸座の『少女仮面』が面白かったから、と先生に勧められて観に行ったのだが、正直期待外れだった。

 

前半、サイコロで遊ぶ人々、うめく女、漁師と鹿、街の営み、何かを運ぶ水夫、水夫に指示をする提督、赤ん坊を連れた女、鳩に餌をやる女、歩みのやたら遅い老人、老人をどこかの家の中に招く提督…みたいな謎のイメージが無言で展開される。

 

そしたら水夫が運んでいた荷物がほどかれて、その中身が老いたグラフスだったこと、歩みの遅い老人、はグラフスが長い旅路の末にたどり着いたリーヴァという街の市長であり、市長はグラフスがたどり着くというお告げを鳩から聞き出迎えたことなどが明かされる。

 

それ以降はグラフスが、前半のイメージの絵解きみたいな自分語りをバーッと進めていく。

最後グラフスは、結局リーヴァにも留まることなく、これからも漂い続けることを宣言して幕だった。

 

文脈が分からないままおもむろにアルバムを見せられ続けたと思ったら、一通り見終わった後でその文脈を説明されるというなんだかパッとしない構成で、前半のイメージの展開は割と興味深く観ていたんだけれど、それの絵解き(答え合わせ)になった瞬間正直めっちゃつまんないな、と思った。漂い続けるグラフスは可哀そうだとは思ったけれど、このつまんない構成で何がしたかったのかよく分からない。

あと何個か絵解きのされないイメージもあるのだけれど、その中に複数の不穏な女のイメージがあった。ぶっちゃけこれはキャスティング見る限り、俳優の出番づくりのために無理矢理入れ込んだイメージなのではないか?と邪推してしまった(めんどくさくて原作小説読んでないのでなんとも言えないけれど)。

 

糸操り人形はたしかにかわいかったしすごかったけれど、このくらいすごい人形さばきは、ジャンル違うけど文楽とかでいつでも観られるからなあ、という感じで、すごいけど、だから何?と思ってしまって特に楽しめなかった。勧めてきた先生を恨んだけれど、もう1本ぐらい一糸座の公演観てから、これからも観に行くか捨て置くか決めたいなと思った。

 

③『パフォーミングアーツ・セレクション2023 in Tokyo』

@東京芸術劇場 シアターイースト(22日、14時)

 

2本の小作品のつめあわせ的な公演。

 

『あいのて』

同じ2人(島地保武、環ROY)による前作『ありか』はラップとダンスによるラップバトル形式だったので、正直二番煎じになるんじゃないか、と、心配しながら観に行った。

結果、二番煎じといえば二番煎じだけど、私は割と面白く観た。ただダンス公演観に来たつもりの人ならキレるかもしれない、と感じた。

 

やっていることとしては、芸人のコント形式にかなり近い。語り(ラップ)と動き(ダンス)の掛け合いによって話題が連想ゲームのようにどんどんぽんぽん次に飛んでいく(基本的に環ROYが語りで島地が動きだが、両者どちらも担当している)。ただ扱っている内容が生と死とか意識と記憶とか割と哲学的な内容なので、以下の記事に書いてある通り「哲学的コント」と言うのが的確なような気がする。

niewmedia.com

 

そのコントのなかで語られている内容は、たしかに『ありか』よりはまとまりがあるのだけれど、じゃあ説明しろ、と言われて説明できるほど私の語彙力はない…というのが本音。ただ何か特定のメッセージがあるというよりは、語りと動きでコント(バトル)ができないか?という試みの途中経過みたいなものを感じた(ここが二番煎じっぽいと言えばぽい)。上手く言えないけれどワークインプログレス的なあれ…(語彙力)。公演ごとにセリフとか内容が大幅に変更されていたとしても別に大して驚きはしないな、と感じた。

 

ただなんか『ありか』でも感じたんだけれど、あんまりこの2人、マッチしている感じがしなくて、異質なもののぶつけ合いによる化学反応を毎度楽しんでいる感じがする。あとこの主に環ROYが担当する言語表現と、主に島地が担当する身体表現の、なんとも言えないマッチしてなさ、かみ合ってなさこそ、この作中で結構な尺をとって語られる意識(言語表現)と身体(身体表現)の関係性に対する1つの解釈なのかもしれない、と感じた。

でも、結構ぐるぐる頭でっかちに考えないと、上に書いたようなことにすら辿りつけないと思うので、普通のダンス作品を楽しむ心積もりでいた人がうっかり観てしまってキレたとしても私は驚かない。あとコントということで笑いを取るシーンが結構あったんだけれど、正直笑いのレベルは低かったと思う。まだ普通の芸人のコントの方が面白い。

 

それにしても環ROY岡田利規『掃除機』で観た時も思ったのだけれど、絶対に下手に刺激して怒らせたらヤバい人感がとにかくヤバい。なんであんなにヤバい雰囲気持ってるんだろうあの人。

あと単純にラップとダンスのソロパートは、それぞれの本領発揮という感じで観ていて楽しかった。

舞台美術に関しては、基本何にもない感じだったんだけど、真っ白なホリゾント幕に、照明のせいで3色に分裂した2人の影が映りこむ瞬間が多くて、その影の重なり合いはとても綺麗だった。

 

『Can’t-Sleeper』

女性ダンサー2人による「不眠症」をテーマにしたコンテンポラリーダンス作品。『あいのて』と比べるとかなりオーソドックスな印象があるが、眠れない夜の、心の中はぼんやりしているのに、意識だけ妙にはっきりしてしまった覚醒状態の質感が、非常に良く表現されている作品だと感じた。

特に、横で誰かが眠ってしまった時、1人ぽつねんと残される表現があったのだけれど、「うわ~誰かと暮したことある人なら絶対経験あるやつ~!!」と妙にテンションが上がってしまうくらい、その表現によって醸し出される夜の雰囲気が秀逸だった。

 

最後、休憩中に観客からアンケートを取った(「眠れない夜はどう過ごしますか?」という質問内容)回答を読み上げて、徐々にその声がフェードアウトしていく感じで終わりだった。アンケートを取った瞬間から、まあこういう使い方をするんだろうな、という予想通りの使い方だったけれど、「眠り」とか「不眠」の「共同性」を表現するのには結構良い感じに働いていて、別に尖った作品ではないけれど、優しくて繊細な作品だな、と感じた。

 

結論:セレクションだったにしても、なんでこんな系統が違う2作品をまとめてやろうと思ったのかが、マジで謎。マジでなんで???

 

太陽劇団『金夢島 L'ILE D'OR Kanemu-Jima』

東京芸術劇場 プレイハウス(25日、14時)

 

なんだか、とても朗らかで余裕のある上演だと感じた。夢の話なせいもあってかなり詩的に展開してくので正直引っかかる部分ありまくりなんだけれど、どんな人間がどんな人間を演じても良くて、文化とは誰か特定の人のものではなくて文字通りみんなのものである!という、ある意味ユートピア的な演劇観に支えられた上演だったと思う。この嫌味のない無邪気さ、朗らかさ、余裕さと比べてしまうと、なんだか色んな演劇作品の上演って、とっても窮屈そうだな、と感じた。

 

ただ、扱っている内容としては、コロナのこととか、イスラエルの戦争のこととか、特攻隊のこととか、本来あんまり軽く扱ってはいけないと社会的にはされていることを、ものすごくサラっと無邪気に扱っているように見えてしまう部分もあるにはあるので、この辺が無理で受け入れられない人は絶対にいるだろうな、というのも同時に感じた。

 

細かいところで言えば、裸の場面で、裸を模した全身タイツを着ているのが頭いいと感じた。全部モロ見えなんだけれど、全部隠れていて、もう裸の場面みんなこれでいいじゃないかと感じた。

あと能舞台らしきものが多様されるのは、夢の話だからか、世阿弥が流されたのが佐渡(金夢島)だからかは謎だった。ただ覚えている限りでは、屋島』『隅田川』『羽衣』の謡も、場面に合わせる形で使用されていたので、能を知っていると(少なくともこの3作品の内容を知っていると)たぶんちょっと作品の解像度が上がると思う。

 

全体的に舞台美術のサイズ感がプレイハウスにぴったりで、なおかつ海外招聘公演の中ではかなり字幕が読みやすく、まあ今後太陽劇団なんて観る機会があるかも分らんし、観られて良かったかな、とは思う。

 

一足先に2023年振り返り(今年はもう生観劇しないので)

今年の生観劇数は31本でした!休学中で、実家の青森にいる期間の方が長い割には、まあ観られた方なんじゃないかと思います。倉田翠と村川拓也の新作が観られないことだけが心残りですが、まあしょうがない、今は休もう!!(言い聞かせる)きっと来年またなんか面白いのやるさ!!

 

今年の個人的ワースト作品はぶっちぎりで4月『帰ってきたマイ・ブラザーでした。マジで右京さん(水谷豊)がこの世に存在したことを確認できた以上の収穫がない。あまりのつまらなさにあなたも椅子から立ち上がれず途中退場すらままならないこと請け負いです☆

 

個人的ベスト作品はぶっちぎりで5月『虹む街の果て』。理由はただ1つ。ぶっちぎりで変だったから(なのに妙な満足感があったから)。未だに思い出して反芻している。場面場面で何をしているのかは分かるけれど、全体で見ると未だに何が何やらさっぱりの作品です。素敵すぎる。こういうのがもっと観たい。

あとは次点に2月木ノ下歌舞伎『桜姫東文章と同じく9月木ノ下歌舞伎『勧進帳と3月岡田利規『掃除機』が横並びしている感じです。

 

あとは番外編として、妙に頭に残ったで賞!3月『ジキル&ハイド』!私の頭の中でクソデカ換気扇ミュージカルとして燦然と輝いています。何の話か分からない人はぜひ以下の該当部分を読んでみてください。

 

monsa-sm.hatenablog.com

 

 

そんなこんなで2023年でした(落ち着いたら今度NTLiveのちょっとした感想記事もあげる予定ですが、あれはあくまで番外編なので…)

来年は復学する予定なのでもっといっぱい観られたらいいな!と思います。来たれ修論に値する作品!!

あと今年も演劇界でクソみたいなニュースが続きまくってるけど、めげずに頑張ろうね!!観劇勢!!