感想日記

演劇とかの感想を感情的に書きなぐってます。あくまでも「感想」だし、備忘録としてネタバレしまくりなのでぜひ気を付けてください。でもあらすじとかはあんまり綺麗にはまとめてないです。

野田地図『フェイクスピア』、感想の後半、になるはずだったどっちつかずの中編。※ネタバレ&イラスト有

2021/07/03

東京芸術劇場 プレイハウス

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monsa-sm.hatenablog.com

 

上の記事から続いてます。

そういえば天保十二年のシェイクスピアの時も、補足の感想書いたな…。

ちなみに今この時のブログ読むと軽く羞恥で死ねる。

高橋一生さんが主演だと感想が分かれる呪いにでもかかっているんだろうか…。

 

小難しくて頭痛くなりそうなことは前半の記事に書いたんで、今回はもうちょっと楽に書いていこうかと思います。

 

あ、実際に前回の記事みたいなことは考えながらは観てないですよ!

前回の記事は、ひねくれたやつが考えた変な観方だと思ってください(笑)


今回の感想の方が、生の感想に近いです。

 

【追記】嘘ですごめんなさい。確かに生の感想には近いけどめちゃくちゃ小難しくなりました。しかも後半じゃなく中編になるという緊急事態発生。感想を三部作にしてどうするんだよほんとに。

(後編はレポート終わったら書く...)

 

【追記】書きました!下にリンク貼ってます!

 

ただ長さはたぶん超長くなります!1万字以内におさまったら奇跡!!

あと戯曲は高くて買ってないし、学校の図書館にも入ってなかったんで読んでません。

そして当たり前だけど1回しか観てないです。高いから。NODA・MAPくそう…

最近はオンライン授業の資料のコピー代でそろそろ死にそうになってます。

 

ということで(どういうことだ)、だらだらと、不謹慎にまとめるぞー٩(´・ω・`)و

 

 

舞台写真とか好きだった部分のまとめイラスト

 

舞台の写真が載ってるネットの記事

 

spice.eplus.jp

 

lp.p.pia.jp

 

enbu.co.jp

 

ネットで流れてきたのはこのぐらいかなあ…もっとあるかもしれないんですけど…。

 

探しても写真が見つからなくて描いたイラスト

 

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似てないのは許してください…でもシェイクスピアは割といい線いったような…。

あと鏡文字のR見ると、アインシュタインが出てくるのは私だけ…?

 

たぶん文章化できない時に、このイラスト使って「こんな感じ…!!(伝われ)」みたいなことすると思います。主に、右側に描いてある飛行機のシーンで。

もう舞台を文章化しようとしている段階で不毛でしかないけど、不毛なことって楽しいよね…。

高橋一生さんのファンの方には土下座レベルで似てないのはほんとに薄目で見てもらえると…:( ; ´꒳` ;):ガタガタ

男性がとくに似せて描けないんだよね…なんでだろう…。

 

とりあえず冒頭からいってみる

 

開演前(セットと音楽について)

 

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まあ、能好きな身としては、劇場入ってこのセット(上のは飾ってあった模型)見て

 

 

「あッ、これ能舞台じゃん…」

 

となります。なるよね?

 

正方形に近い形、メインとしての4本の柱卒塔婆かな)、2本あるけど、世田谷パブリックシアターでやるときは3本のことも珍しくない橋掛かり…。

 

はい能舞台完全能舞台――――!

 

どうせ高橋一生さんが主役(シテ)なんでしょ??

死んでんの??死んでるんだよね??

イタコ出してくる上に、現代劇に能を取り込む時って99%夢幻能の方だから幽霊的に出てくるのかな??最後になんかどーんと正体明かすのかな??

 

前にもどっかで書いたと思うんですけど、

 

①旅の僧(ワキ)が名所旧跡を訪れる。

②謎の人物A(シテ)が現れる。※実はこれは仮の姿。フェイクの姿!

ワキと色々おしゃべりとかする。

③シテの中入り(いったん舞台から退場する)

④ワキが待っているとシテが本来の姿で登場。生前1番心に残ったことを舞ったりする。

 

これが夢幻能の形式です。ざっくりだけど。

 

要は、舞台セット観ただけで軽くネタバレ状態態。

 

しかも開演前から、いろいろ良い感じの音楽がかかっていて(こういうちょっとロックな良い感じの音楽聞くと、野田秀樹っぽい…となる、野田秀樹っぽいってなんだ。)私でも分かったのが

 

夢で逢えたらと、(開演直前の)Sing,Sing,Sing

 

夢で逢えたらで確信。これ夢幻能だ。

Sing,Sing,Singスウィング・ジャズの名曲中の名曲で、まあざっくりな背景理解ですけど、世界恐慌で沈みまくってる中、この身体がウキウキするみたいな音楽に希望を見出そうよ、的なあれです。

音楽疎いくせに何でこんなこと知っているかというと、一応吹奏楽クラリネット担当だったので!ほんとだよ!?先生ありがとうこんなところで役立つなんて!!

 

…というか、それ考えると、「あたまあげて、生きよう」が一応普通に舞台観た時に受け取る印象なので(この印象にイラついて、違う観方してみようと頑張ったのが前半の記事、最後のカーテンコールの2回目ぐらいからとかにでもSing,Sing,Sing使えばよかったんじゃないかなあ…。

どうせコロナ禍の今に重ねているんだろうし、そっちの方が(私みたいにイラついた人も)テンションはあがって帰れる気がした…。

 

それはおいておくとして!(投げる)

さっきの夢幻能の形式にあえて当てはめるとこんな感じなのかな…。

 

①楽(タノ)が恐山を訪れる。

②謎の人物monoも恐山に訪れる。楽とおしゃべりしたりシェイクスピアで遊んだりなんか別のことやったり。

③monoの中入り。

→一旦退場するor事故現場のご遺体が並んだようなイメージで舞台上に並んでいるお布団の1つで寝ている様子が示される。

※②と③を何度も繰り返す。徐々にmonoがその過程で本来の意識に近づいていく。

④楽が待っていると、monoが本来の機長の姿で登場。事故の再現。

まあ実際にはこんなにきれいには図式化できないんだろうけど。考えるにあたって色々切り捨てて、みたいな。

 

※印が特徴的なのかな。ワキとシテの問答が繰り返され、何度も何度もフェイクの姿で寝ては覚めての覚醒を段階的に…重層的に繰り返す。

この重層性、というか執拗なまでの繰り返し、個人的には、そもそもの戯曲の言葉の過剰性とかと相まってめちゃくちゃ好きなんですが、TVドラマでよくある直線的な物語進行に慣れている方が観たら撃沈するポイントでもありそうなのが悩ましい…。

その返し縫いみたいな繰り返しの中で、徐々にmonoの意識が澄んでいくのがマジで能って感じで最高に良き。

 

能の取り入れ方としては、この前観た『未練の幽霊と怪物』より溶け込んでいる気がして、こういうののほうが現代劇に取り込むなら好きだなあ、と思いました。

 

厳密すぎないから、能舞台に身体がはじかれる心配もないし。

 

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冒頭(とかいいながら記憶が混乱してるのでラストまで混ざる)

 

冒頭、monoのmonologue(独白)から始まるんですが、

 

「ず、しーん!、とばかり、とてつもなく大きな音を立てて大木が倒れていく。けれども、誰もいない森では、その音を聞くものがいない。誰にも聞こえない音。それは音だろうか。」

 よくぞ暗闇の中でメモった、自分えらい。というかあのクソ汚い字を解読できた今の自分もすごい。

というわけで、句読点とか漢字とか、てにをはとかは間違ってると思います!

 

で、その後に、前半の記事でも書いたように

 

「誰にも聞こえない言葉は言葉だろうか」

「なんのために誰もいない森でわたしは言葉をつむいでいるのか」

 

「そう言い終わるとカミサマは誰もいないつもりで目をつむった」

 

と続くという。

結論から言うと、にも聞こえない音、言い換えると、誰にも聞かれない音は、「音」じゃないだろうな、とは思います。それは空気の振動でしかない。

 

誰にも聞こえない言葉誰にも聞かれない言葉に関しても、同じ!って言っちゃってもいいかな、とは思うんですが、劇中盤に、

 

「こころはね、コトバという葉っぱの上におかれた水(水滴?)。言の葉が消えればこころも消える」

※ちなみに、能の詞章(セリフ)にも「心の水もそこひなく…」とよく出てくる。心は清濁、浅い深いがあるから水に似ているとの発想らしい。ここにも来るか、能。

 

みたいな星の王子さま前田敦子さん)のセリフがあるので、そこまでくると何となくぼんやり分かる…かな。

まあ可能か可能じゃないかは哲学者に任せるとしよう。そこは分からなかった(笑)

 

※もし読んでくれている方いらしたら、ちょっとここから大分ほんわりしてくるので、詩でも読むような感覚で、イメージを積み上げながら読んでもらえたら、逆に分かるんじゃないかと思います(笑)

 

えっと、なんか、とにかくこの冒頭から始まり、白石加代子さんのマイクパフォーマンスからの、monoと楽のシェイクスピアごっこみたいなのに入るんですが(ここに関しては後で書く)、その後にまた同じような場面が繰り返されるんです。

 

アンサンブルって呼ばれる、役者さんたちが、冒頭と同じく後ろで木のように倒れていくんですが、そこでなんかmonoが

 

「昔、この世から樹木が枯れて、葉っぱがなくなっちゃたことがあった。葉っぱを探して森に迷いこんで、疲れて目をつむったら、ずしーんって大木が倒れてきて、最後の一枚の葉っぱが落ちてきた(テグス付きの緑の紙が上から上手いことmonoの手元に落ちてくる)カミサマは永遠に目をつむる前にその葉っぱを人間だけにあげることにした。それが言の葉だ。言葉だ」

 

みたいな、おとぎ話か?的なことをmonoが語る…という場面。

細かい部分突き詰めていくと辻褄合わなくなったりするのが野田秀樹の戯曲、って先生が言ってたことがあるので、先生でそれなら学生が太刀打ちできるわけないじゃないか、ということであえてイメージだけでフワッと箇条書きにすると、

 

 

 

樹木=monoの衣裳は茶色。葉っぱの紙を持つと木に見える

・樹木=上のことから素直なイメージを持つと、人間。

 

・樹木が枯れて=

①死んだ。「人の死が枯れたヒマワリになる」という表現が後半にある。遺書を残した人も居たらしいけど飛行機事故で死んだ多くの人が葉っぱ(言葉)を残せなかったし、録音されなかった。

星の王子さまのセリフと合わせると、枯れる、葉っぱがなくなる、こころが消える

→どう考えても荒みまくった現代社会への皮肉でしかない気がする。

例)楽が電車に飛び込んで自殺しようとしたとき(楽は元地下鉄職員?らしい)先に自殺した男がいた。

「その男の死は『ご迷惑』(という無味乾燥な言葉)になった。誰もその男の死を悲しまないんだ」

※実はこれ私も上京してきてびっくりしたことではある。みんな時間ばっかり気にしてイライラしてるの見て「都会怖い」と思った。

 

・「葉っぱを探して森に迷いこんで、疲れて目をつむったら、ずしーんって大木が倒れてきて」は

①の場合は、CVRを探しにくる捜索隊の事なんだけれど、「疲れて目をつむったら」あたりからは主に劇作家自身の感覚な気がする。②の、語彙力無くなって強い言葉も無くなってこころの機微が死んだ世の中にうんざりしてそう…(勝手なイメージ)

 

空から落ちてきた最後の1枚の葉っぱ=CVR

あるいは、これも、空から突然降ってきたように、その「コトバの一群」にふいに出会った劇作家自身の経験かな。

 

・カミサマ=これが一番の謎。でも前半の記事にも書いたように、これはあの1回きりの出来後、絶対に共通されえない&絶対的な「死」をたくさん含んだ、飛行機事故そのものの事かな、と思う。「カミサマ」も一応絶対の存在でしょ?絶対繋がりじゃないかなあ…。

下の画像で言うならノンフィクションのリアルの部分。

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・カミサマが永遠に目をつむる=事故という出来事がそこで停止するってことかな。それ以上進行もしないし、もう二度と経験することも出来ない。共通不可能性。

 

つまり、まあ、ここまで書くとぼんやり伝わるかなあ、と期待しているんですが(頑張れ読み直した時の未来の私)、本当に共通不可能になってしまう前に、手がかりを残した。それはCVRに残された「コトバの一群」=1枚の葉っぱでしかないけれど、その1枚の葉っぱから、(その1枚だけの葉っぱという「見かけ(文字)」からでは全然分からない)枝を、幹を、森を、山を、あの事故を、絶対的な何かの手触りみたいなものを、「その『コトバの一群』が『確かに、誰かに聞かれることによって』」何とか手繰り寄せてほしい、あるいは手繰り寄せることを要請する、みたいなことなんだろうなあ、と。

 

「誰にも聞こえない言葉は言葉だろうか」

というのは、絶対性(例えば、死)の前にたって初めて認識する、誰かに、ある文脈のもとで聞かれてないと成立できないという言葉の相対的でしかない無力さ、無意味さ、滑稽を自覚しつつあることを表していて、

※「ねえどこまでがホントなの?」「ウソはついてないよね?」「(その言葉で作り上げる)フィクションなんかに収めてどうしたいの?」みたいなセリフが散りばめられているのもそういう葛藤なのかなあ…。

 

「なんのために誰もいない森でわたしは言葉をつむいでいるのか」

というのは、それでも、私たちは、その、何を言っても相対化されて、意味がなくなってしまうような言葉に頼る方法でしか何かを表現することも伝えることも出来ない、ということを身に染みて感じながら「何かを言っても何にも言っていないことと同じなのはわかっている。それでも、私は、あなた(誰か)があなた(誰か)なりに一生懸命に、言葉ではどうしても表せないものを含めて、受けとろうとしてくれると信じて、言葉を贈る(しかない)」みたいなあきらめと希望の綯い交ぜ状態、かなあ…。

 

そしてこれが登場人物の誰かというより劇全体、しかも劇作家自身も含めての全体で言ってきる気がするから、焦点がはっきりしたかと思うとすぐにぼやける…。

 

ああでも、父(mono)が息子(楽)に向かって「この匣(CVR)を贈呈(偉い!よく頑張ったね!だからこれをあげるね、とやや上から目線の「送る」という意味)します!」は随分けったいな言い回しだなあとは思ったんですが、父(上の世代)から息子(下の世代)へと送る言葉を、一生懸命息子が受け取ってくれることを、切実に期待しているからこその先回りとしての「(やや空回りのきらいがある)よく頑張ったね!」だったのかな…考えすぎかな…。

 

monoの役割は、その言葉を届けるメッセンジャーですかね。死者でありながら死者(たち)の言葉を届ける使者でもある。

mono自身も、あの事故の時に亡くなってしまった機長そのものではない。良くて魂。悪くて残像。そういう意味で言葉と似ている存在。

…だと私は思ったので、上の図で、monoと匣は同等の位置に置いた…んですが…あれ…。

 

シテが前半と後半で変身するように、monoが前半と後半で変化するのは、何度も何度も覚醒してくシテ、monoとのやり取りを通して、受け取り手であるワキ(ちなみに能でのワキは、主に観客の代表者的な役割を果たします。分かりやすく言うとインタビュアーだと思ってもらえると…)である楽、および観客が、フィクションを通してあの事故の文脈を少しだけ共通して把握した(あるいは、全部は絶対に把握しきれないことを共通して把握した)からかな。

 

ある単語(あるいはひとまとまりの音=mono)を違う文脈に当てはめると全く違う意味になるみたいな。「はしに寄って」と「はしを取って」で「端」と「箸」に変わるみたいな。

 

…それにしても高橋一生さん、ある意味人格がはっきりしていないmonoみたいなのを演じる時の、あの意味と色のないきょとんとした感じいいな…。ほんとに平仮名かローマ字みたい…。

 

とにかくそういう感じだから、最初に、イタコの手違いか何かで、monoと楽のダブルブッキングが判明した時に、笑いを引き起こしたmonoの「あたま下げろ!(この文脈だと「謝罪しろ」の意味にしか見えない)」というセリフとかが、飛行機のシーンでは真面目で聞くのがしんどいぐらいのセリフに変わったりするのかな、と思います。

 

 

つまりまあ、多分ですけど(全力で強調)ものすごーく、ざーっくり言ってしまうと、この話って

 

1人の個別の死者の象徴としてのmonoのmonologue

死者に物語らせることが、死者だけでなく、生者にとっても鎮魂歌たりうるのは日本にある共通の感覚な気がする。詳しいことはレポートじゃなくて感想だから書かないけど、「絶対かつ永遠かつ普遍的である」死に対面することでしか「しかしそれにも関わらず今・ここで」を生きている実感というものはわかない。あれ?でもそう考えると西洋にもあるか。

 

 

使者として「カミサマ」(絶対的な出来事)から託された、あるいは半ば泥棒として盗んできた「コトバの一群」とか

 

を出来るだけ正しくそのままの文脈で(つまり本当の意味でのそういう受容が絶対に無理なこと、あくまでこちら側の恣意的な行為でしかないことをしっかりと把握して)受け止めて解釈して飲み込んであげる、みたいな事かなあ…。

 

その死者との交流の過程を通して、1人の死者としてのmonoも救われるし、楽は自身の生を実感するし、楽と同じくワキである観客も実感すべき…なんだろうけど…。

 

あいにくあんだけ言葉なんて信じらんねえ、みたいなことを執拗にやられると、個人的には「楽(たの)、しんで(死んで)、楽(たの)、生きていこう」とか「分かった。生きるよ」と、割とするっと出てきちゃうことに対して拍子抜けしちゃう感覚があって。なんか「生きる」だけではすくいきれない何かがあったはずなのに、突然その言葉で切り裂かれた感じがして。いや橋爪功さんは最高なんだけど、そもそものセリフとしてかな…。

 

だから白石加代子さんの「(何か言いたそうにしながら言わない、みたいな沈黙)…ありがとうございました。」の(沈黙)の方が好きだったのか…。

 

そして再びキャパオーバーからの撃沈。

 

それにしても、重い…このテーマ重い…個人的なことともっと共同体な原体験みたいな事が重なりまくってて考えるのしんどくなってきた…。

 

あれえ…おかしいな…7000字超えた上に…なんか小難しいぞ…あれれ…???monoの衣裳かわいいしんどい、野田さんシェイクスピアトリックスター感まじさいこう、あっちゃんかわいい声がいい、生者の登場人物に橋爪さんと白石さんキャスティングしたのまじで的確すぎてヤバい、とか書きたかったのに

 

…うーん…分けるか…次こそふざけた感想書きたい…いや書く…

 

そしてけりをつけて早く楽になりたい…!!

 

【追記】楽になれました!!たぶん!!

 

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野田地図『フェイクスピア』、感想の前半。(マジでネタバレしかしてないので気を付けてください。)

2021/07/03

東京芸術劇場 プレイハウス

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※書いていたら膨大になりすぎたので、前半後半に分けます…。なんかもう煩雑すぎて…。

とりあえずこっちの前半はどっちかと言うと内容に関してぐるぐる考えた比較的真面目な感想です…。もう全部間違っている気しかしないけど…とりあえず今の段階ではこれが限界…戯曲も買ってないし1回しか観てない割には頑張った…つもり…。

後半は通常テンションで発狂してるいつも通りな細かいことについての備忘録的な感じになると思います…。

未来の自分のために鋭意作成中…。

 

【追記】

戯曲読んでないからか、どうも漢字が間違ってたみたいです。以下、「箱」じゃなくて「匣」ですね。すみません…。

指摘してくださった方ありがとうございます…。いつか戯曲読みます…いつか…。


あと前半とか書いてるけど前後半だけじゃ足りなくて、前中後編になりそうです...。あああどうしてこうなった...。

(今後編書いてる途中)

(多分中編の方がまともな事書いてると思う。1番下から飛べます)

(前半改めて前編はちょっとひねくれた内容です)

【追記の追記】

後編書き終わりました!もうこれで終わる!

たぶん後編が1番素直な感想な気もする!

1番下の中編の記事の、更に1番下のリンクから飛べます。

 

レポートのせいでどんどん感想まとめるのが遅くなってますが、もうこれはしょうがないです。7月と1月の恒例行事!

 

というわけで観に行ってきました『フェイクスピア』

何気に野田地図NODA・MAPを観に行くの初めてかもしれないです。

…チケット代が…お高くて…A席(2階席)でも観やすいのがプレイハウスの良いところだけど…。

 

ちなみに観終わってすぐの率直な感想はこれです。

 

 

なんか知らんがめちゃくちゃキレてるwwwwww

 

どうした私、って感じなんですけど、こんだけ「ア゙ア゙ン?(💢'ω')」ってなるってだけでもう最高な舞台観たってことに気が付くのは1日後だったりするので、今回ばかりはレポートに追われていたのは良かったのかもしれないです。

 

というわけで、すでにややネタバレしている感じがしなくもないけれど、ここから下はほんとにネタバレしかしてないです。しかもこの劇、絶対ネタバレしたらいけないタイプの作品なので、マジで気をつけてください!

 

私はしっかり注意書きしました!(保身に走る)

 

あ、あといつもだと記事にオレンジグリーンを使っているんですが、今回はせっかくなのでピンクブルーで行きます。作品のイメージ的に。

 

 

公式のあれやこれ

 

www.nodamap.com

 

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上記サイトにあるのと同じやつ…のはず


あらすじに関しては、他のネタバレ記事でも探してみるか、手に入るなら戯曲でも手に入れて読んでください。

戯曲は高くて買ってないけど、ネットとかTwitterで探すと、綺麗にあらすじ説明してくれいているやつサクッと見つかるかと思います。

 

めちゃくちゃ簡単に言うと、どうも定年退職した&軽度の認知症のようにみえる(たの、橋爪功さん)が、飛行機事故の時のパイロットでもう死んじゃったお父さんのmono(もの、高橋一生さん)に会ってみたくて、50年間イタコ見習いをしている皆来アタイ(みならいあたい、白石加代子さん)のとこに行って会う、って話です。

 

で、ボイスレコーダー、というか正確にはCVR(コックピットボイスレコーダー)に録音されていたお父さんの死の間際の言葉(調べたらどうもほんとに引用だった)「マコトノ葉」を聞いたタノは、自殺を思いとどまって「あたま上げろ」の言葉通り「あたま上げて生きていこう」的な結論に至る…。

 

みたいな。(雑過ぎる)

 

…実際はこんな直線的ではないですけど(だって野田秀樹の戯曲だし。ね!?)

なんかまあこんな話を切り刻んでモンタージュしたり、脇道に逸れたり、飛行機の不時着関連で星の王子さま出てきたり、神様から火を盗んだプロメテウスとか、一つ目巨人の目を潰したオデュッセウスオデュッセイアは、テキトーに言うとオデュッセウスが故郷イタケに頑張って帰る話だけど、父を探している息子と再会する話でもあるからそれで突っ込んだのかな。舞台上空にでっかい目のセットが出てきた。あれ待ってイタケ…イタコ…そんなまさか…ないよな…さすがに…??)とかなんかその辺の神話関連とごった煮にした感じのやつです。(言い方)

 

毎度毎度、よくこんな話思いつくなほんとに。

真夏の夜の夢の時も思ったけど。頭の中が気になる…。のぞいて…みたいような…みたくないような…

そういえばこの前観た真夏の夜の夢の方も『フェイクスピア』とテーマ的に似ててびっくり。というか最近野田秀樹の戯曲、全部言葉に関してじゃん、とか思い始めてきてしまった。個人的にシェイクスピアの取り込み方としては、真夏の夜の夢の方が、いわゆる「綺麗に消化した形」だったとは思う。あとは好みの問題かな…。私はどっちも好きだけど…大学の先生とかなら真夏の夜の夢の方を評価したりするんだろうか…。

 

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何から始めていいか分かんないけど

 

演劇をテーマとかで語ることぐらいクソつまんないことはない、とは思うんですが!

とりあえずもうどっからやっていいのか分からなすぎで辛いので、とっかかりとしてやります。

あっているかは分からないけど。野田秀樹の舞台は楽しいけどこんがらがる…

 

ちょっといきなり話が飛ぶんですが、今度『森 フォレ』を観に行く予定で、『岸 リトラル』『炎 アンサンディ』にもどうにかこうにか目を通しました。

関係ないけど『岸 リトラル』が個人的には1番好きでした。『空』は読んでない。内容は知ってるけど。

 

で、これもろに戦争が背景にある作品群なので、なかなかしんどいセリフが多かったんですが、『炎 アンサンディ』の中にこんなセリフがあってですね…。

 

サウダ:

本とアルファベットのなかに閉じこもって、わーすてき、わーきれい、わーすばらしい、わーおもしろい、って思ってればいいわけ!「すてき、きれい、おもしろい、すばらしい」なんて言葉は、被害者の顔に唾を吐くのと同じ。ただの言葉!

 

あとはなんか、こんな感じのことを言っている人もいて。

ちょっと長いけど、下に雑な言葉で(合っているかは怪しいけど)まとめてあるから、是非すっとばしてください。

 

ジョゼット・フェラル「演劇的なものとパフォーマンス的なもの、その間で」『演劇と演劇性』

 

演劇性は、それが生じることが可能になるためには、美学的な作業、見せられたものを認識し、したがって、見せる行為と見せられたものとの間に隔たりを導入するような、距離を内包した姿勢を要求する。(中略)「することを見せること」とリチャード・シェクナーは述べていた。パフォーマンスのこの側面は演劇性に属するものであり、まさしく演劇性の土台である。ところが、私たちがここで取り上げている、しばしば暴力的で観客の情動的な備給を引き起こすような出来事においては、こうした隔たりを導入することは、舞台の内容に鑑みて、舞台が情動と暴力を伴って伝達していることに鑑みて、一定の不遜さをもって行為することにあたるのである。

それは、アウシュヴィッツと広島の後のドラマの不可能性について、アドルノによって展開された問題系のことであり、さらにいえば『イメージ、それでもなお』においてイメージの必要性を扱ったディディ=ユベルマンの問題系のことでもある。

 …今引用してて気がついた。私、まだ『イメージ、それでもなお』読んでないじゃん…うわあ…つんだ…

 

読むのめんどいし、ここだけだとあとで読み返した私が、こいつ何言ってんだ?ってわけわかんなくなるので(!)ザクっとまとめると、

 

「演劇では特に、ってことなんだけど、真剣な主題を真剣にやればやるほど、それが作り物でしかないことが強調されちゃう」

ホロコーストとかを巧みに演じた俳優に送る歓声とか拍手に感じる違和感

 

ってことだと思ってます。

 

最近ので似たようなこと言ってるのだと岡田利規さんのやつとかになるのかな。

book.asahi.com

 

 

…キリ無くなるのでこの辺にします。

 

そんなこんなを読んでたので、なんか、実際の事故、しかもまだ半世紀も経っていないような事故を、思いっきり取り扱っていることに、あとそれをよりによって演劇で、絶対別人だろ、当時生きてなかっただろ、みたいな人が「演じている」のを観て大号泣している周りの雰囲気に、まずは盛大に、それこそアレルギー反応を引き起こしてしまいました。

 

それと同時に、この日本航空123便墜落事故が起きた時って、私まだ生まれていないし、だから知らないし、そもそも劇場の外ではコロナで人がバンバン死んでる状態がずっと続いてて、しかもちょうど観終わって家に帰ってTV見たら熱海で土石流…!?

 

 

いや、なんであの事故のことをわざわざ今舞台でやる…?

 

 

って、思わず思ってしまって…。

いやもうほんとこれはしょうがなかった反応だと思う。許して。

 

あと、野田秀樹さんの戯曲とか舞台、めっちゃ観たわけじゃないけれど、なんというか、この人全然、言葉とか虚構/現実の境界線とか信じてねえな、みたいな印象を勝手に持っていたので、突然「コトノ葉」「マコトノ葉」を対立構造的に持ち出してきて喋りだしたので

 

 

いやあなたがそれ言う!?言っちゃうの!?

どうした悪いものでも食ったのか!?!?

 

 

みたいな。めっちゃ失礼にもほどがある(笑)

 

それでずっとモヤッとしながら帰ってぐるぐるしながらこの画像↓↓のこと思い出して、

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「あッ、私、『不謹慎なもの』を観に行って『不謹慎だなあ…( ゚Д゚)』ってなってたんじゃん馬鹿だ(笑)」

 

となったので、もう飛行機事故をああいう風に扱ったことに関しては、特になんもありません。

 

もしかしたら、あの事故が、こういう風にフィクションとして還元されたこと、その過程で切り捨てられたものがあること、だから、そのフィクションの奥にある切り捨てられた部分までを見つめようとする(忘れないようにする)姿勢をこのフィクションをとっかかりにして持ってほしい、ということなんかをやりたかったのか…な…あれ…(書いてて若干混乱してきた)

 

でもそういう風に考えると、「モノの殺害」なんて物騒にラカンが言いふらしてる「言葉」に関して絡んでくるのも納得と言えば納得…。言葉を使うこと自体が既に虚構化(セリフに合わせるとフィクション化、か)の手続きを取ってるんだもんね…あっちの机とこっちの机は大きさも形も違ってもどっちも机だもんね…え、まって超混乱してきた…。ヒイ…。どうしよう…。

でもその意味で、言葉って、確かにインチキなんだよね…。色々具体的なことを切り捨てちゃうし、文脈で言葉の意味変わったりするし…イントネーションでも意味内容変わるし…。

てことは、つまり言葉こそ現実=モノ、っぽく作られたフェイク…??

そういえば高橋一生さん演じる、もう死んじゃってるお父さん/機長の名前もmono(1?物?者?)だったな…うわあ…。

 

何かについて、どんなに語りつくそうとしても、それは、

 

・語りである以上、そのことそのままではない(現実との共通不可能性、つまり虚構)

・たとえ当事者が喋っていたにしても言葉なんて表現できることは限られてるから「こんなもんじゃない」感があると思う(起きたことと語られることの共通不可能性

・聞く方・観る方は当事者と共通の感覚なんて持てるはずもない(これは当然)

 

絶対に共通しようがない部分がめちゃくちゃに膨大にある…から、「共通でない」この感覚…「分からない」でもいいかなとは思うんですけど…

 

「これ(劇)だけじゃ絶対に分からない」

「分かるわけがないじゃないか!」

「なんなんだこの劇作家はもっと他にもたくさん何かがあるはずだ!」(言い方)

(例えば、1番単純な例で、この劇で取り扱ってない、つまり声が録音されていない・記録されていない犠牲者の1人1人について、とか)

 

まで持っていきたかったのかな、と(笑)

 

 

私がキレたのは見事にもしかしたら見事に作者の意図にハマったためなのか…??

 

 

語られる言葉は全てフェイクでしかない、あるモノについてのことは、この言葉には全然こもっていない。でもそのモノについて少しでも知って考えてもらうためには「あるモノ」「ではない」「フェイクでしかない」という前提だけを共通に言葉によって語られるしかない…、そういう前提を共通して持っていれば、少なくともそうでない場合より誠実である、みたいなことなのか??

 

 

そうやって考えると、ガチの冒頭でmonoが発する

 

「そう言い終わるとカミサマは誰もいないつもりで目をつむった」

 

みたいなセリフで終わるあの一連の…何だっけ…なんかうろ覚えなんですけど

 

「誰にも聞かれない言葉は可能か」

誰にも、の範囲に「自我(意識としての自分)」が入るならかなり不可能な気もする。それこそカミサマじゃなきゃ無理そう

 

みたいな問いとか、あとは、冒頭でも最後でも、白石加代子さんが

 

白石加代子です」

「今、私は皆来アタイではないです(だからこれから、これまでやってきたことはフィクションです)」だけなのか、それに加えて「白石加代子」という別の役を演じてもいます、が付け加えるべきなのかは不明だけど、少なくとも前者は確実だと思っていい??

 

っていうのも、なんかこういうところからなのかな…と思いました。(ぼんやりしてる)

 

人間の言葉ってフェイクで、フェイク(まやかし)を仕掛ける相手=誰かに聞かれる、っていう意味でも、あと構造的にも相対的なものだし、何かを物語る段階でそこには「語り手」と「聞き手」(これがどっちも自分の場合もあるからややこしい)がいるから虚構でしかない(お芝居でしかない)的なこと??

 

 

…いやもう全部誤解かもしれない…分からないしんどい…(´;ω;`)

 

 

…なんでこんなに大混乱しているかというと、上にあげたみたいな意味で「ノンフィクションの言葉」なんてないはずなのに、突然の「コトノ葉」(こっちを担うのが野田さん演じるシェイクスピア改めフェイクスピアなのかな)「マコトノ葉」(CVRのやつ)対立構造で出してきたからなんだよね…。

野田さんあなた絶対対立してるって考えてないでしょ…良くてグラデーションか下手すると同じものとして考えてるだろ絶対…

 

でも演出見てると結局やっぱり全然いつも通りに言葉を信用していない感じしかしない…なんなんだほんと混乱する…。 

 

「声」は「録音」される

 

あのなんか、一応CVRのやつが「マコトノ葉」ってことに劇の最後ではなっていたんですけど、これって録音じゃないですか。

 

で、ちょっと冒頭に戻すと、白石加代子さんがマイク持って出てきて

 

白石加代子ですー女優やってますー。

でも女優やる前は恐山でイタコの修行してたんですよー

 

みたいな(かわいい)、一応本当のことから始まって、流れるようにありそうな嘘ピンク入った衣裳と三つ編みがすごいお似合いですかわいい)行くんですけど、この時私の見間違いじゃなかったら!途中から音声が流れるように録音に切り替わる(なんかもうぴょこぴょこ動いてるのとかみたことないから余計かわいい。存在感すごすぎだけどそれなのにかわいいとか何事)…というか最初っから録音だったのかな(あと、お元気そうでほんとに良かったです…)、なんかそんなことが起きてたように見えたんですけどあってる??あれ??

でもマイク使ってたのは確かなので、まあそれだけでもいっか。

 

えっと、自分の声ってマイク通すと骨伝導?とかがなくなっちゃうので違う形で聞こえて、変に聞こえるじゃないですか。ここですでに、なんというか音のズレが発生したなと思って。

録音だったとしたらより分かりやすいです。あれは「今」「ここ」っていう時間も空間も切り捨てちゃうので。

 

これだけだと別にフーンって感じなんですけど

ちょっとThe Encounterみたいだなとは思った。↓↓

 

monsa-sm.hatenablog.com

 

 

CVRな…手ごわすぎる…。

冒頭、ほぼ記憶喪失状態のmonoが抱えている箱がCVRで、色々すっ飛ばして、とにかくカミサマ的な人からすると、その箱は「永遠と36年」「永遠プラス36年」間に渡ってmonoが盗んだってことになってます。

だからそれを取り戻したいカミサマsideの人と、なんかまだよく分かんないけど大事な箱なのは何となく分かるmonoのドタバタ、みたいなのが劇の前半ちょいすぎぐらいまで通してあるんですけど…。

 

で、このCVR改めに入っているのは「マコトノ葉」っていうノンフィクションとして、ラストのほうで超大事なことになるんだけど、ここで冒頭のアレなんですよ…。

 

機械を通したor録音された「声」と「言葉」って本当にノンフィクション??

 

その前の部分でも、イタコの論理として「(目が見えないから)声=存在なんだ。それで死者とも話が出来るんだ」みたいなことを言っていて、それはそうなのかもしれないな、とも思わなくはないんですけれど、でもそれは、声、あるいはその声で語られる言葉、以外の部分を切り捨てちゃったものでしかないよね、みたいな。

 

実際、劇の結構前半で、間違って箱を開けちゃったとき、「あたまあげろー」「がんばれー」みたいな意味不明な叫びしか出てこなくて、「こんなのがマコトノ葉?ウケるww」みたいな感じになっていたので…。

 

「大切なことは目に見えないんだよ」っていう星の王子さまの引用から「書かれた言葉」よりも「目に見えない言葉」である「声」の方が大事!みたいなテンションで

 

「声は目に見えない言葉です!」

 

みたいな感じで叫んでいた瞬間もあった気がするんだけど、

 

「君の耳にそう聞こえるだけだ」

 

みたいな応答も確かあって。

 

細かいとこの整合性とかまではちょっと考えてられてないんですが、とにかく、そもそもさっきまで大混乱しながら書いてたみたいに言葉そのものがフェイクでしかないし、機械によって記録されたこの声は、この一連の言葉は、ノンフィクションとしてのあの飛行機事故のごく一部分、というか局部でしかなくて、ノンフィクション(記録)というよりは、ノンフィクションの表面?あるいはノンフィクションとフィクションの境界にあるもの、みたいな?感じ。

文脈によっては笑いさえ引き起こすし、泣かせにもかかる。受け取り手によって解釈が分かれるところがそもそもややフィクションっぽい。あと、個人的なことだけど、私なんか事故当時生まれてないので、もう全くフィクションって感じ。それも全然リアリティがないフィクション。

 

言葉自体がフェイク(いんちき、まやかし)でしかないことに関しては、まあ…これは野田秀樹の戯曲どれをとっても溢れている気もするけど…。

 

今回好きだったのはあれかなあ、初めてシェイクスピアがちゃらちゃらしながらド派手に登場した時にmonoがシェイクスピアはよんでません!!」って叫んだ時に、「え、それって僕を呼んでないってこと?それとも僕の作品1つも読んでないってこと?」とかいう部分かなあ…。

 

この時、monoが、カラス改めコロス集団が袖に引っ込んでいく時に、1人(匹?)とっ捕まえて盾にしてたの笑ったなあ…。「ちゃんと前に立ってて!」みたいな。ビビりすぎだろmono(笑)

あと野田さん改めシェイクスピアがそれ見てややウケしてるのが地味にツボでした。

 

…話脱線した…えっと…、要は何を考えたかっていうと、あの箱は確かにノンフィクションの出来事の一部ではあるんだけれど、全部ではない点、機械を通してしまっている、それも録音機という機械と、言葉というフェイクの機械を2重に通している点でもう全くノンフィクションではない。あくまでノンフィクションの表面だけって感じ。

フィクション/ノンフィクションで分けるのも正確な把握ではないと思うのですが、セリフの中で使われているのでしょうがないです。

あえて、厳密にするなら、ノンフィクションのリアル(実際の事故のあの1回きりの出来事)、ノンフィクションのリアリティ(あの事故の実感を伴った把握、当事者、生存者の記憶とかもたぶんここになる)、フィクションのリアリティ、みたいなことにはなると思う。ちなみにノンフィクションのリアリティとフィクションのリアリティの境界線は、リアリティ(現実そのものじゃなく現実っぽさ)という点で似ているから、境界線は曖昧すぎる。そして図にしてはみたけど更なる混乱を招くだけだった…。

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じゃあ、この事故のことをもう1度話題にあげる、というか、たぶん劇作家自身がその一連の言葉を読んだ時に感じた「震え」(ノンフィクションのリアリティ)みたいな力強さを、もう一度ちゃんとこの事故の「共通不可能な全体」(ノンフィクションのリアル)に紐づけてあげるには、「あるモノ」「ではない」「フェイクでしかない」という前提をもつ言葉、要は、その背後に絶対何かもっとあるよね、みたいな言葉(フェイク)を駆使して、一つのフィクションのなかにその一連の言葉を取り込んで、で、そのフィクションを、構成とか、今ここにいる俳優さんの身体とか、そういうのを計算して組み立てて、フィクションとしてのリアリティをまず回復させる。みたいな…??あれ…??

毎度おなじみ書けば書くほどわかんなくなってくる現象

 

とにかく、観ている方としては、『フェイクスピア』で展開される物語は、最初に白石加代子さんが「白石加代子ですー。私女優なんですけど(今からお芝居始めますよ)」のくだりでつないでくれるし、役者さんたちみんなすごいし、舞台もかっこいいし、観てて何より楽しいから、いつのまにかすごく信じてる。

でも同時に、これはこんな劇(フィクション)なんかじゃなくて、本当にノンフィクション(のリアル)としてあったことなんだ…、みたいな感じになって、私みたいにキレだす、という…。

 

まあ、最後はやや冗談ですけど、だから、「あたま上げろ」っていう箱に録音されたmonoの声を聞いて、楽が「分かった。生きるよ。」って言うのって、あくまでフィクションとしてのリアリティのためで、要は、自分のお父さんがこういう風に死んでいったことを知ったら、息子としては自殺を思いとどまる展開は普通に考えられるよね、って程度の展開で、別に、あの飛行機事故の犠牲を養分として「みんな、だから生きようね」って主張をしている訳じゃなかったっぽい。

 

どっちかというと、最後の最後にある

 

白石加代子です。…(何か言葉を言いたそうにしながら飲み込む)ありがとうございました。」

若干うろ覚えだけど言葉を飲み込んだように見えたのは確かだったはず。

 

の方が大事だったんだね!?最後にはフェイクであること(でしかないこと)を誠実に明かしてたから、やたらこっちのセリフの方が印象に残っていたのか!!あああああ!それにしても白石加代子さん最高すぎる!!!知ってたけど!!!私、2~3本目観た演劇(映像記録も含めて)が身毒丸なんだよ!!!?ある意味人生狂わされたに等しいよね!!?!?!(違う)

 

とにかく私勘違いしてキレてましたああああすみませんん…(猛省)

というかキレるってことは、ノンフィクションとしてのリアリティをちょっとだけフィクションで回復させた箱の録音を聞いて・観て、絶対に届かないあの事故のノンフィクションとしてのリアルについて考えてしんどい、ってなってるからたぶんキレてる訳で、結局キレるの込で作・演出家のてのひらの上って感じで謎に悔しくなってきた←

 

ここまでくるとCVRもとい箱が「永遠プラス36年」盗まれていた、もなんかぼんやり腑に落ちるような…。

いや分かんないかな…なんだ永遠って…永遠と一日観た時とかも思ったけど…。

 

ううううんんん??えっと…今までも大分語彙力崩壊しているんですが…ええっと…。

 

あの声や言葉は、録音されているしネット上に記録もあがっているわけだから、永遠に残ると言えば残る。よね。たぶんだけど。

でも、monoがほぼ前半通して「なんか大事なのは覚えているんだけど」のこと以外忘れていたように忘れちゃうと、たぶんリアリティみたいなものを失っちゃうと、もうないも同然。…あ、盗まれてるってもしかしてこのことか??

 

しかもリアリティみたいなものとか、そのこと自体忘れちゃっていると、もう上にだらだら書いてきたみたいな回復とかも無理…。

でも逆にちょっとでも残っていると、回復させるみたいな手立ては、やるかどうかは別にして、記録としては半永久なんだから、それこそ永遠にありつづける…、ってことなのかな。だから「永遠プラス36年」なのか??

 

 

 

 

…あー…うん、なんかもう私の脳ミソが限界ですね。ご臨終しちゃう。うん。今の私の思考力だとこれが限界。

 

「録音」と、あと「録画」を演劇で使われると混乱すんだよなあ…。

「今・ここ」性がブレッブレになりまくるので。でもぶっちゃけるとそういう大混乱してキレだしそうになる演劇が面白かったりもするから余計しんどい…。

 

限界がきました。思考力と語彙力の。あと主に眼精疲労。PCによる。

 

もうすでに1万字超えてるんですね。どうしてこうなった。

既に大分読みにくいとは思うんですが、これ以上この記事につなげるのもなんかあれなので、細かい部分に関して(の発狂した感想)は後半にしたいと思います。

後半書き終わったら下にリンク貼ろうかなって思います。

予定だけど、比較的小難しいことはたぶん全部こっちに書いたんで、後半はいつもみたいに

 

「超笑った最高に面白い」

「かっこいいしんどい」

「美しくてかわいいとか何事キレる」

 

みたいに語彙力をさらに低めて行きたいと思います(謎宣言)

 

 

monsa-sm.hatenablog.com

 

【追記】

察してください。まさかの中編。

ただ、解像度的には上がった気はする?でも気のせいかもしれない!

第12回 早稲田 狂言の夕べ 『魚説法』『靭猿』

2021/06/30

大隈記念講堂

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感想書くの遅くなりました。

発表準備&レポート課題で忙しい忙しい忙しい眠い忙しい…(以下エンドレス)

でもひと段落したから、今日は夜に『フェイクスピア』を観に行ってくるよ…!

 

ということでその前にサクッと観に行ったよ、の記録でブログ書きます。

 

…………白状するとね…………

 

すまん『魚説法』は前に観たことあったからか寝てしまった。

 

いやあ前の日の火曜日が6限まであって、水曜日は1限からあるから下手すると睡眠時間が3時間きっちゃうんですよね。辛すぎる。

 

でも『靭猿』はちゃんと起きてたよ!この曲、初めて観ました。

お猿さん、かわいかったけどどことなく漂うベテラン感がツボでした。大物な予感がする…。

 

あと大名が野球拳ばりに脱ぎまくるので爆笑。テンション上がりすぎだろ。

 

最初の方はやり取りがかなり緊迫してたので、後半の面白さが半端なかったです。

あと足で舞台をふむ音が結構いい効果音になってて余計ドタバタ感があって楽しかった。

 

これタダで観ていいとかラッキーすぎるね、ありがとうございました。

 

あと大隈講堂、謎な音の響き方すると思うの私だけなのかな…。

両脇の壁を伝って音が上まであがってくるみたいな、妙な感覚なんだよね…謎…。