2021/04/18
KAAT 神奈川芸術劇場 中スタジオ
(ポスターがかっけえ…)
しばらく新年度でバタバタしてました。
今年度1発目の生の舞台は『ポルノグラフィ』!KAATです!!
(KAATの表が、なんかかっこよく変わってました…!)
前日は天気悪くてどうなるかと思ってたんですが、この日は普通に晴れてたので良かったです。風は超強かったけどね…。
他に書きたいこともっといっぱいあったような気がするけど、思い出せないので感想書こうと思います。題材が題材なので、いつもよりは真面目かつローテンションでいこうと思います。
あらすじとか
ざっと調べたら上記サイトに色々詳しく載ってました。以下上記サイトからの一部引用です。
【物語】
家庭と仕事の両立をこなす女性、先生につきまとう男子生徒、近親相姦にふける兄妹、教え子を誘惑する大学教授、夫を失った孤独な老婦人、さらに爆破事件の実行犯。 登場人物の多くは事件に直接関わりは無いが、誰もがそれぞれに不満を抱き、鬱屈とした日々を過ごしている。各々が一歩を踏み出すことにより歪む世界…。そんな彼らの生活を通して見えてくるロンドン同時爆破事件とは…。黄色い線の内側とはどこなのか…。
【ロンドン同時爆破事件】
ロンドンオリンピック・パラリンピック開催決定の翌日の2005年7月7日、午前8時50分ごろに地下鉄の3カ所が爆破。また、同9時47分ごろにブルームズベリーに位置するタビストック・スクエアを走るダブル・デッカー・バスが爆発した。死者は計52人(そのほか、実行犯4人も死亡)。全員がイギリス在住者で、うち32人が英国籍保持者。それ以外に20近い国籍の人たちが犠牲となった。
公演の様子はこんな感じです。KAATの公式Twitterから。
ほんとにリーディングって感じで、譜面台を使ってました。懐かしい…(元吹奏楽部)
あ、あと引用部では、
家庭と仕事の両立をこなす女性、先生につきまとう男子生徒、近親相姦にふける兄妹、教え子を誘惑する大学教授、夫を失った孤独な老婦人、さらに爆破事件の実行犯。
になってるけど、順番としては、
①家庭と仕事の両立をこなす女性
②先生につきまとう男子生徒
③近親相姦にふける兄妹
④教え子を誘惑する大学教授
⑤互爆破事件の実行犯
⑥犠牲者52人(実行犯4人は抜かれてた?)についてのごく簡単な一言レポート
(後ろのスクリーンに投影。パンフレットにテキスト挟んであった)
⑦夫を失った孤独な老婦人
※打つのめんどくさいので以下上記の番号使います。
で、それぞれ自分のある期間(爆破事件前後)のことについて事細かに語る、って感じでした。⑥だけちょっと異質といえば異質かな。
戯曲の指示として、それぞれのエピソードがどの順番でもいいし、俳優さん何人でやってもいいよ、って指示なので、元の戯曲の順番とは違うのかもしれないです…。元の戯曲読んでないけど…( ゚Д゚)
パンフレットとかにも書いてあるけど、コロナによる隔離生活、オリンピックの話題などなど、なんか重なるところが多い感じの印象を勝手に持ちました。
感想
観終わってすぐ
さっきも書いたし、毎度のことなんですが戯曲読んでないです。(開き直り)
でも冒頭の原文だけは授業で見たことあって知っているという謎現象。
What you need to do is stand well clear of the yellow line.
Images of hell.
They are silent.
なんかこんな感じになってました。
「黄色い線の内側に下がっていなければ。」
「地獄のようなイメージ。彼らは黙っている。」
公演のセリフではこうなってた…気がする…。
正直、英語があんまり出来るほうじゃないので、翻訳の良し悪しとか厳密にはよく分からないんですが、小田島創志さんの訳はなんか素人目でもすごく素敵なのだけは分かります。『タージマハルの衛兵』とかも、日本の戯曲だっけこれ?と思うくらいすごかったので(購入した)、そこからもう無条件で素敵だと思っています(笑)。めっちゃすんなりくる日本語だと思ってます。
で、観終わった率直な感想としては
(感想ですよ。あくまで1回観ただけの!!昨年度、先生に「間違った『解釈』や『感想』もある」って言われて戦々恐々としている今日この頃です。)
「あ~最初のこの部分が1番強い部分なんだな~」
って感じでした。どういうことだ。
自分の脳内の整理もかねて、順番に考えてみたいなー、と思ってます。
まあぶっちゃけると、さっき引用した【物語】の部分に、全部書いてあるような気もしなくはないけど…。うん…。
とりあえずうろ覚えの記憶で頑張る。誰か応援して。
黄色い線①ー「黄色い線」って?ー
セリフの中にも何回か出てきます。
演出でも、写真見れば分かると思うんですが、めっちゃ使われてます。
最初、開幕してすぐに
「黄色い線の内側に下がっていなければ。」
ってセリフが読まれたときは、客席と舞台の間に引かれた黄色い線がぼわって発光して、「かっこいい!」と思ったんですが、やっぱり明らかに黄色い線はなんか重要みたいです。
あと、エピソードごとに、毎回ではなかったような気がするんですけれど、だいだい、例えば①の話が終わると暗転しつつ強烈な光(記者会見のカメラのフラッシュみたいな光)が光ってほぼ真っ暗になって、②のために徐々に明転していく、って感じになっていたんですが、その明転した後には、さっきまでなかったはずなのに、まるで俳優さん同士を分断するみたいに、黄色いテープが舞台空間に現れる(増えていく)…てな感じでした。
(俳優さん俳優さん連呼してるのはリーディング公演だからです。登場人物じゃないし。たぶんだけど。)
「じゃあなんだよこの黄色い線!?」ってなりますよね。私はなりました。でもよく見たら答え書いてた。やだもううっかりさん★(対面授業始まったとはいえ友達出来なくて私も孤独感でいっぱいなんですですバカやってないとやってらんない)
登場人物の多くは事件に直接関わりは無いが、誰もがそれぞれに不満を抱き、鬱屈とした日々を過ごしている。
各々が一歩を踏み出すことにより歪む世界…。(中略)
黄色い線の内側とはどこなのか…。
「下がっていなければ」いけない「黄色い線」を「一歩踏み出す」と「世界」が「歪む」ので、まあすごい単純にとらえると、「黄色い線の内側」って「別になんてことない安全な日常」って感じの捉え方でいいんじゃないかな、と思いました。
「変化に乏しい毎日」「死にたくなるぐらい退屈な日々」とかまあネガティブに書けばそんな感じですか。三島由紀夫あたりは地獄とか言い出しそうなアレです(笑)。
じゃあ「黄色い線」そのものはなんなんだよ、って感じですよね。
これもやっぱりパンフレットの解説(ライターの村上祥子さん)みたいなとこに書いてて
「ポルノグラフィ」に登場する人々の多くは、(中略)異様とも言える部分を内に秘めつつも淡々と暮らしている。
どういうことかっていうと
①会社の機密情報を漏らしたい衝動のようなものを持つ、共働きでかわいい子持ちの女性。
②先生のストーカーで、その思いを拒絶されるとほぼ殺意さえ見えるような暴言を吐きまくる、でもなんとなく学校では冴えない感じの、少年漫画とか厨二病とかなんとなく思い出させるような少年。そんなに裕福ではなさそう。移民に対するヘイトがすごい。
③古代よりずっと人間としてタブーな、近親相姦に至る兄妹。
④元教え子に肉体関係を迫る大学教授。パワハラでもセクハラでも訴えたらたぶん勝てるやつ。
⑤無差別爆破の実行犯の1人。妻も子供もいる。(これはガチの事実)
⑥は特殊なのでとばして
⑦夫に先立たれてはいるけれど、キチンんと生活している83歳の女性。爆破事件後、交通マヒしたから歩いて帰る途中、おいしそうなチキンの匂いがするからって、何故か分けてもらおうと、全然知らない人の家の門を叩く。
まあこんな感じでした。ややうろ覚えなんですけど…。
なんとなく色分けして示したけれど、要は「黄色い線」ってその色分けの境界ですよね。たぶん。
すっごく乱暴に書くと
普通に、常識的に、社会的に、法律的にやっていいこと、つまり安全なこと
異様で、非常識的、反社会的、法律違反的で駄目なこと、つまり危険をはらむこと
の境界線というか…。うーん、こうなると上手く言えない…。
危険の度合いもそれぞれ違うのでムズイです。でもなんとなくこんな印象。
まあ一気に、ぐるぐる考えた末の1つのまとめに飛ぶと、その「普通」「常識」「社会」「安全」とかが、ロンドンではものすごく不健康な形になっていて、そのことへの反応がもっとも極端に出現した形として、あの爆破テロ事件を捉えたって感じですかね…。
(②の少年なんかはオリンピックで一見街中が浮かれているような中で、「ロンドンは死んだやつの匂いがする」とはっきり言ってたりもします。)
だからこの劇では、あのテロ事件に関しては、他の異様さと同じレベルで扱われていました。軽く話題にのぼる程度で、⑤の実行犯と思しき人に至っても、テロ実行場所への移動を描きだして、それで終わりなんです。
別に実行の瞬間とかについては描いていない。むしろこの劇だけ観ると、誰かが実行したことは確かなんだけど、⑤の男が本当に実行したのか、と聞かれると「たぶん?状況的に見てそうだよね??」としか答えられないレベルです。そのぐらい爆破事件の具体的なことは描かれていない。
実際によく分かっていないことも多いというのもあるかもしれないんですが…。
(このあたりのことはWikipedia見ただけでも錯綜してるのがよく分かります。)
とりあえずここまで考えて、残りの考えるとっかかりというかポイントとしては2個ぐらいかな…。たぶん。
何でそんなに不健康になってんのか、ということと、
その状況がどうして人々に「黄色い線」を超えさせるのか
(あるいは少なくとも、踏ませるか、ちょっと超えさせてまた内側に戻ってくるってことをさせるに至ってんのか)
ってとこですよね…。
黄色い線②ー「不健康」の理由の1つー
これは私、別にロンドンの社会状況とか詳しくないので、あくまで作品や演出から受けた印象でしか言えないんですけど、孤独ってことはデカいと思います。
実際に、セリフとかあげると、
①「私は1人きり、オフィスで1人きりだ。」
②台詞は覚えていないけれど、学校でも家でもあまり気にかけてもらっている様子がない。散々現状に対する不満とか暴言を独白的に吐き散らしたあと、観客に向かって、「冗談を言っているように聞こえるか。これが冗談だって。」と吐き捨てる。自分のいうことは本気にされない傾向がある、という自覚がない限り、こんなセリフはでてこないんじゃないかな、と思った。話をしっかり聞いてもらえない、だから人の話もしっかり聞けない。だから孤独。
③これはちょっと上手く指摘できないせい、台詞も覚えていないけれど、近親相姦的な感情って、タブーだってこと当人たちが誰よりも強く思っているだろうから、それだけで社会から浮いてしまっている感覚があるんじゃないかなあ。
④「私は1人きりだった。」
⑤「(駅員とかは)私を見ようともしない。私から目をそらしている。」
⑥はちょっと特殊。でもそれまでの俳優さんのそれぞれのエピソードごとの人物像の立ちあげ方が凄すぎたので、ここに出で来る52人が(本当かどうかはおいておくとしても)「ほんとにこういう1人の人たちが生きて、死んでいった」ことを「全く知らなかった」ことに対するショックはでかい。
⑦「私には分からない。全く理解できない。でも私には関係ない。」
「誰も、そのこと(爆破のせいで地下鉄が止まってること)を私に知らせてくれなかった。」
ざっと、こんなかな。相も変わらずうろ覚えですが。
面白いのが、こういう直接関りがない人々…演出でも、分断するように俳優さんたちを区切っていくので、関りがないのは明らかなんですが、でもニアミスはしてる感じなんですよね。
①の人が③の人に会ったり(③の兄が道端で腕立て伏せをしていた)、①と②の人がほぼ同じセリフ(「笑っている?それとも泣いてる?」)を言ったりとか、⑦の人が④らしき人を見かけたのかもしれない、とか、いろんなとこで同じTV番組について言及されるし、出てくるコーヒーはどの人喋っていてもブルーマウンテンだし…。なによりみんなオリンピックについて、多かれ少なかれ関心持ってるし。
少なくとも、なにかしら、同じ「場」を共有する人々ではあるんだろうな、というか。
(それぞれのエピソードの中で、毎回1つの動作だけ、その時リーディングしていない俳優さん含め、全員微妙に違うけど、同種の動きで表現するのもそういう、何かしらの共有ってことを示唆してんのかな、と考えたり)
そしてなによりも、やっぱり、オリンピック(=お祭り)で、まあなんとなく、その「場」に属するのなら、浮かれていてもいいはずなのに、10にも満たない超個別的な具体例とはいえ、様々の年齢の様々の階級の人が、みんな通奏低音のように、何かしら孤独を抱えている、って、相当ヤバいと思います。
だって、そうってことは、その「場」…まあ社会でいっか。社会全体的にそうってことでしょ??ヤバくね??オリンピック頑張る前にもっと解決すべきことあるんじゃねえか英国のお偉いさn(完全にブーメラン)
… 通奏低音とか、普段使わないようなカッコいい言葉使ったのは衒学とかじゃないからね!?あえてです!!
というのも、ずっと電子音…あの、家電とかアンプとかそういうのが、かすかに、でもずっとたてる低い音あるじゃないですか…なんかあの手の音がずっとなっていたんですよね。公演中に。たぶん意図的だと思うんですけど。
要は、孤独・それに伴う不安、閉塞感が、一見、都会で、開発も進んでて、オリンピックも決まってて、なんか良さげに見えちゃう街全体・社会全体にある、ってことかな、と。
こういうのって、これだけでも結構不健康だと思うんですよね。
しかもたぶんロンドンに限った話じゃねえのが怖い。
黄色い線③ー「超えてしまう」ことー
ところでここまで根気強く読んでいただいている暇な貴方。(そもそもいるのか?)
「いつものテンションどうした?」ってなってますよね??
私もなってます。なんでこんなに真面目になった。
そしてここから、さらに真面目になるよ…。
…一応ね…真面目に考えようと思えばできるんだよ…大学生だからね…伊達にレポートA+もらってねえぜ…(やや死にかけてる)
あっ嘘ですすんません調子乗りました大学生ごときのレポート、見た目と形式さえ整ってりゃ少なくとも、Aぐらいはきますよね…(落ち込んできた)
気を取り直して、じゃあ、「孤独」がどうして「黄色い線」を超える・踏むに至るのかってことか。次は。
ここで登場!!ハンナ・アレントの『人間の条件』(ちくま学芸文庫、87-88p)!!
「私的」という語が、「奪われている」(deprived)というそのもともとの意味合いにおいて重要になるのは、公共的領域の多元的な意義についてである。完全に私的な生活を生きるということは、何よりもまず、真に人間的な生を生きるうえで本質的な事柄が奪われていることを意味する。つまり、他者によって見られ、聞かれるという経験……から生まれるリアリティを奪われていることを意味する。私的な生から奪われているのは、他者の存在である。他者の視点からすれば、私的な生を生きる人は現われず、それゆえあたかも存在しないかのようである。
…くっっそ、ムズイでしょ??!?私もまだ全部は理解できた気がしません。
でもなんとなく
「他者との関りや外部からの刺激がないと、存在していないようなもんだぜ」
って言っているのかな、と捉えています。構造主義とかにもあったような気がしなくもないけどこんな考え方…あれ??
まあそれは置いといて、コロナ化を通じて、感覚的にだけど何となく分かるような気もします。部屋に1人でいると、身体が部屋に溶けていきそうになるよね…。
話戻すと、この劇に出てくる人は、大体家族とか友人とか孫とか、そういう人はいるっぽいので、完全に「存在しない」レベルの絶望感ではないとは思うんです。
でも、なんかどっか孤独。
通奏低音的なので、理由は言葉に表せるほどには、はっきりとは特定されていないし、私も知識無くて分からないんですけれど、少なくとも「生きていると自信を持って言い切れる確かな実感に乏しい」「ちょっと死んでる」状態をどっかしら感じているんじゃないかな、と。
印象的なセリフが⑦にあるんです。
「私は、私が死なないだろう、と思っている。私は生きて、生き続ける。」
これちょっと妙なセリフですよね。公演観た時も、83歳の女性が言うには妙なセリフだなあ、と思ったんです。
でもまあ、他者との関りの中で存在している・生きてる実感がないのなら、死ぬこともないから(だって死ぬためには生きて存在していないといけないから)、感覚としてそういう台詞が出てきても不思議じゃないなあ、とも思ったりもしました。
「私は生きて、生き続ける」っていうのは、決して前向きなニュアンスでは無かった気がします。読んでいるの聞いている感じだと。
たぶん「死んでいる」の反対は、言葉としてつかめる範囲だと「生きている・存在する」しかないから、こういう表現になったんだと思います。
生きていないから死ねない⇒死ねないなら生き続ける(存在する)しかない。
これはマジでしんどいと思います。自分が生きてることを否定する意識のまま「そこにいる」わけですから。
(そうやって考えると、全員ほとんど椅子から1歩も動かなかったのも意味深に観えてきます…リーディング公演だから当たり前と言えば当たり前だけど…)
じゃあ、そっから回復しようとするとすると、なんかもう起爆剤みたいなのが必要なのは感覚として分かるなあ、と思いました。それも自分に着ける起爆剤。
比較的安定して安全な自分の「普通」の日常の中で、抜き差しならないレベルまで孤独のレベルが、つまり「生きている」ことに対しての否定の意識のレベルがあがってきちゃっているので、そこから抜け出すには、なにか「普通の自分じゃやらないこと」をしなくちゃいけない。
言い換えると、「普通の自分」にストレスをかけて、「普通」から見たら「危険」なことをしなくちゃいけない。一線を越えなくちゃいけない。あるいは超えることを想像して、その輪郭を実感して、自分の存在を実感する、というか。
(おっきな声では書けないけど、自傷行為とかもそれに近い場合もあるのかもしれない)
ぐだぐだ書いてみたけど、要は日常で孤独を感じて辛いなら日常を否定してみなきゃいけない、ってことです。日常を変える、という段階を挟まないのはちょっと不思議な気もするけれど、変えると否定って意識の差なだけな気が個人的にします。
実は無差別大量殺人の動機が自己否定にあるんじゃないか、っていうのは結構色んなとこで言われているみたいですが、こういうことなのかな、と思いました。
だからと言って、実際にこういう行為は断固駄目だと思いますが…。
そんなこんななことを考えたあとで、⑤の実行犯と思しき男が、駅のホームを眺めて
「ホームに描かれた黄色い線が台無しにしてしまっている」
って言うこのセリフを見ると、人々の関りとか、普通とか異常とか、線を引いて簡単に分けちゃいけないことを、「ここから先は駄目です」っていきなりズバッと分けちゃったことに対して、またそこから生み出された都市の病みたいな孤独感を象徴するものとして見つめた時の、軽蔑の言葉なのかな、とも考えたりしました。
黄色い線④ー越えた人は?ー
①の人は、結局、情報漏洩したのかよく分からない。
②も、言葉では暴言吐きまくるけど、それだけ。
③は、いったんは近親相姦関係になるけど、その後別れる。
④は、断られて終わる。
⑤は、おそらく実行してしまった。
⑦も、食べ物をもらってしまった。
じゃあ、一線を越えたのかどうか、ってことなんですけど、超えた後に戻った人もいるのでちょっと判断が難しいです。
明らかなのは⑤と⑦。
かなり恐ろしいことなんですが、⑤の最後らへんのセリフに
「いままで感じたことのないぐらいすがすがしい気持ちだ(的な内容)」
って喋るんです。
別に犯罪を肯定するつもりとか全くないんですけど、結果的に、この人はこの瞬間明らかに生き生きしていたと思います。
それと全く逆のベクトルが83歳の女性の話。
この人、夫の死後、めっちゃ孤独に生活していたらしいんですが、テロ事件その日、地下鉄ストップして長距離を歩いて帰らなきゃいけなくなったんです。
で、途中でBBQ的にいい匂いがしてきた。どうやらチキンらしい。
その匂いにつれられて、全く知らない人の玄関に突撃して、なんかめっちゃ気まずい空気が女性と住人との間には流れるんですけれど、まあお肉分けてくれるんですよ。いいやつだな住人。
これもある意味、女性は非日常的な危険をおかしたわけです。だから一線を越えたことになる。
それで、女性は、住人と別れて、1人になったあと泣きながら「おいしい」って食べるんですよね。まるで生まれて初めておいしいものを食べたみたいに。
めっちゃいい話…。超感動です。だって、他人と関わって、ぬくもりに触れて、生きてるって実感したってことでしょ??
しかも、「チキンの匂いがする」って女性が言った時、劇場内にほんとにチキンの匂いが立ち込めるんです。
これはほんとにすごかったです。
今まで5人それぞれのかなり具体的かつ叙事的な語りを、普通だったら聞くことができない細かい部分まで、薄暗い空間でじっと耳を傾けて聞いてきて、それぞれの登場人物たちの内側へ、また同時に、語られることをもとに情景をイメージする観客自身の内側へ、と、どんどん意識が集中されていって、最終的に感覚器官の1つを共有するわけですから!!
一瞬、遂に私は共感覚を手に入れたのか、想像力で匂いまでわかるようになったのか??と焦ったので、これは本当に最高な演出だと思いました。
もう女性に共感しまくりです。せざるを得ないでしょこんなの。
一線を越えるのにも、こんなポジティブな方向になることもあるんだ…。
どん詰まりかと思ったら、希望あるやん…。
絶対に越えてはいけない「黄色い線」はあるけど、こういう「黄色い線」を徐々に超えていって、なんか、少しでもあったかく生きられたらめっちゃええやん…。
とか思ってましたよ。ええ。
これは希望があるのかないのか
いや、最後にね、女性が立ったまま、もくもくと、でも泣きながら、チキンを食べてるんですが、突然上手側の窓を覆っているカーテンがあがるんですよ。シャッターみたいに。
で、良く晴れた日だったので、日光が入りこんできました。
ちょっと脱線するんですが、こういう、最後に劇場の壁を取っ払うっていう演出、大体は、劇空間を現実世界まで侵食させる試みのことがほとんどだと思ってます。
『真情あふるる軽薄さ』とか唐十郎のテント芝居とかで、片手程度しか観たことはないんですが…。
でも最低条件として、舞台・劇場内と、劇場外の現実世界が地続きっていうのが基本だと思います。感覚的にですが。
でもKAATの中ホールって3階ぐらいにあるので、そもそも地面が見えず、その劇空間が現実世界にまで滲みだして溶けていって、その境界があいまいになった感じがあんまりしない。もしそうしたいのなら観客席と舞台の間に1本ある黄色いテープを取っ払ったほうがまだ効果的な気がします。
で、じゃあどんな感じに思ったかというと、
「ああそっかこれお芝居だったわ」
こう思いました。
でも、その一瞬前まで、めっちゃ女性に共感してたんです。
「ああ、こういう風に、生きてる・関わっているって感じられるっていいなあ」なんて、柄にもなく素敵なこと考えてたんです。
でもそういうことが「全部お芝居だった」。
ちょっと表現するのが難しいんですが、
- 私は劇場に来なければこの人たちの声を、話を聞くことがなかった
- ブラックボックスのように真っ暗で緊密な状況を作ってもらわなかったら、たぶんここまで共感も感動もしていなかった
っていうのがあって、つまりこれは特殊な状況下、非日常下で起こる感動であった、ってことが凄く意識されたんです。
で、そういえば考えてみればこのチキンを食べてる女性は
- 前代未聞のテロ事件が起きたから、歩いて帰って、それでチキンを食べてる。
- つまり、特殊な状況下、いってみればテロ事件が起きた付近はある種非日常化、劇場化していたのかも??その中で女性は泣くほどの実感をもって気持ちが動いた??
てなってきちゃって…。
実際に、日光で照らされながら(「普通」の現実の視点を取り戻して見ると)突っ立ったままチキンを食べてるの、結構シュールでした。
そして、下側から、俳優さんたちの足元から光が帯みたいに入り込むので、それがまた余計に、黄色いテープではないけど、分断している様に見えて…。
あの感動は一時的な特殊なものだったのかもしれない、あの女性の泣くほどの強い情動も、またこういう風に「普通」の日常の中で薄れていくのかもしれなくない…??って考えてたら、最後にダメ押しで
「地獄のようなイメージ。彼らは黙っている。」
で終わったんです。確か。
これ…劇場とか、テロ事件後とか、そういう特殊な状況では、観客は声を聞くことができるし、他の人とのか関わり合いのなかから生きていることも実感するけど、一端それが終わると、また地獄のみたいな、生きながら死んでるみたいな、しんどすぎる各々の「普通」の日常が再開されて、その中では「存在しているけれど、自分たちの声を聞いて貰える程までは生きていない」から「黙っている」の???とか、考えて大分絶望しました。
え…救い、どこいったん…??
夜公演だとまた違った雰囲気だったかもしれないです。外も暗いので。その中にともる街頭とかが、日常に埋もれている「生きている実感」の象徴とかに見えて、女性の感覚とも重なって、希望があったかもしれない…。
少なくとも昼公演はマジ絶望の塊でした…ごめん三島由紀夫大先生馬鹿にして…この世は地獄だったよ…。
ただひたすらにしんどかったです。でもこういうの嫌いじゃない(ドM)
そういえばリーディング公演って初めて観ました
どれがセリフで、どれがト書きかわかんない戯曲っぽいのもあってか、なんかすごくハマってる感じがしました。
あと肉体的な俳優さん同士の触れ合いもないしで、より「孤独」が強く出てた気がします…。
英語原文の冒頭だけ持っているんですけど、読んでも正直チンプンカンプンなので、こんなに登場人物像を立ち上がらせるって俳優さんすごすぎでしょ!!?とかびっくりしてました。あと演出もスタイリッシュでかっけえ。
今年度初めての生舞台、いいのからスタートできた気がします。
こっちに戯曲の言葉を考える余裕もくれるリーディング公演、ハマりそうです(笑)。
そしてクソ真面目に考えながら書いてたらえぐい字数になりました(1万字超)
レポートより長え…。
正直かなり疲れました。もはや何のために書いているのか…(1年後ぐらいに思い出すためです。いいの観たなあって悦に入るためです←)
かなり繊細な内容扱っている劇だと思ったから一応テンションは頑張って抑えました。抑えられてない気がするけど。
(なにか不快な内容書いてあったりしたらすみません。頭おかしい奴が書いた感想だと思って流してください。)
タイトルの意味は最後まで分かりませんでした。発展して豊かそうな都市の服1枚脱がしてみれば、こんな血のにじむような痛ましい肉体=現状があるってことなんでしょうか…。「痛みとは肉体」なんですよね教科書でやったぞ…(頭はたらいていない)。
今週末には『パンドラの鐘』観に行くのでもういいや。誤字脱字もそんなにないことを願ってアップします。ここまで読んでいただいた方、もしいれば、なんかもうお疲れ様でした…(o*。_。)oペコッ