2021/07/03
東京芸術劇場 プレイハウス
上の記事から続いてます。
そういえば『天保十二年のシェイクスピア』の時も、補足の感想書いたな…。
ちなみに今この時のブログ読むと軽く羞恥で死ねる。
高橋一生さんが主演だと感想が分かれる呪いにでもかかっているんだろうか…。
小難しくて頭痛くなりそうなことは前半の記事に書いたんで、今回はもうちょっと楽に書いていこうかと思います。
あ、実際に前回の記事みたいなことは考えながらは観てないですよ!
前回の記事は、ひねくれたやつが考えた変な観方だと思ってください(笑)
今回の感想の方が、生の感想に近いです。
【追記】嘘ですごめんなさい。確かに生の感想には近いけどめちゃくちゃ小難しくなりました。しかも後半じゃなく中編になるという緊急事態発生。感想を三部作にしてどうするんだよほんとに。
(後編はレポート終わったら書く...)
【追記】書きました!下にリンク貼ってます!
ただ長さはたぶん超長くなります!1万字以内におさまったら奇跡!!
あと戯曲は高くて買ってないし、学校の図書館にも入ってなかったんで読んでません。
そして当たり前だけど1回しか観てないです。高いから。NODA・MAP。くそう…
最近はオンライン授業の資料のコピー代でそろそろ死にそうになってます。
ということで(どういうことだ)、だらだらと、不謹慎にまとめるぞー٩(´・ω・`)و
舞台写真とか好きだった部分のまとめイラスト
舞台の写真が載ってるネットの記事
ネットで流れてきたのはこのぐらいかなあ…もっとあるかもしれないんですけど…。
探しても写真が見つからなくて描いたイラスト
たぶん文章化できない時に、このイラスト使って「こんな感じ…!!(伝われ)」みたいなことすると思います。主に、右側に描いてある飛行機のシーンで。
もう舞台を文章化しようとしている段階で不毛でしかないけど、不毛なことって楽しいよね…。
高橋一生さんのファンの方には土下座レベルで似てないのはほんとに薄目で見てもらえると…:( ; ´꒳` ;):ガタガタ
男性がとくに似せて描けないんだよね…なんでだろう…。
とりあえず冒頭からいってみる
開演前(セットと音楽について)
まあ、能好きな身としては、劇場入ってこのセット(上のは飾ってあった模型)見て
「あッ、これ能舞台じゃん…」
となります。なるよね?
正方形に近い形、メインとしての4本の柱(卒塔婆かな)、2本あるけど、世田谷パブリックシアターでやるときは3本のことも珍しくない橋掛かり…。
どうせ高橋一生さんが主役(シテ)なんでしょ??
死んでんの??死んでるんだよね??
イタコ出してくる上に、現代劇に能を取り込む時って99%夢幻能の方だから幽霊的に出てくるのかな??最後になんかどーんと正体明かすのかな??
前にもどっかで書いたと思うんですけど、
①旅の僧(ワキ)が名所旧跡を訪れる。
②謎の人物A(シテ)が現れる。※実はこれは仮の姿。フェイクの姿!
ワキと色々おしゃべりとかする。
③シテの中入り(いったん舞台から退場する)
④ワキが待っているとシテが本来の姿で登場。生前1番心に残ったことを舞ったりする。
これが夢幻能の形式です。ざっくりだけど。
要は、舞台セット観ただけで軽くネタバレ状態態。
しかも開演前から、いろいろ良い感じの音楽がかかっていて(こういうちょっとロックな良い感じの音楽聞くと、野田秀樹っぽい…となる、野田秀樹っぽいってなんだ。)私でも分かったのが
『夢で逢えたら』と、(開演直前の)Sing,Sing,Sing。
『夢で逢えたら』で確信。これ夢幻能だ。
Sing,Sing,Singはスウィング・ジャズの名曲中の名曲で、まあざっくりな背景理解ですけど、世界恐慌で沈みまくってる中、この身体がウキウキするみたいな音楽に希望を見出そうよ、的なあれです。
音楽疎いくせに何でこんなこと知っているかというと、一応元吹奏楽部クラリネット担当だったので!ほんとだよ!?先生ありがとうこんなところで役立つなんて!!
…というか、それ考えると、「あたまあげて、生きよう」が一応普通に舞台観た時に受け取る印象なので(この印象にイラついて、違う観方してみようと頑張ったのが前半の記事)、最後のカーテンコールの2回目ぐらいからとかにでもSing,Sing,Sing使えばよかったんじゃないかなあ…。
どうせコロナ禍の今に重ねているんだろうし、そっちの方が(私みたいにイラついた人も)テンションはあがって帰れる気がした…。
それはおいておくとして!(投げる)
さっきの夢幻能の形式にあえて当てはめるとこんな感じなのかな…。
①楽(タノ)が恐山を訪れる。
②謎の人物monoも恐山に訪れる。楽とおしゃべりしたりシェイクスピアで遊んだりなんか別のことやったり。
③monoの中入り。
→一旦退場するor事故現場のご遺体が並んだようなイメージで舞台上に並んでいるお布団の1つで寝ている様子が示される。
※②と③を何度も繰り返す。徐々にmonoがその過程で本来の意識に近づいていく。
④楽が待っていると、monoが本来の機長の姿で登場。事故の再現。
まあ実際にはこんなにきれいには図式化できないんだろうけど。考えるにあたって色々切り捨てて、みたいな。
※印が特徴的なのかな。ワキとシテの問答が繰り返され、何度も何度もフェイクの姿で寝ては覚めての覚醒を段階的に…重層的に繰り返す。
この重層性、というか執拗なまでの繰り返し、個人的には、そもそもの戯曲の言葉の過剰性とかと相まってめちゃくちゃ好きなんですが、TVドラマでよくある直線的な物語進行に慣れている方が観たら撃沈するポイントでもありそうなのが悩ましい…。
その返し縫いみたいな繰り返しの中で、徐々にmonoの意識が澄んでいくのがマジで能って感じで最高に良き。
能の取り入れ方としては、この前観た『未練の幽霊と怪物』より溶け込んでいる気がして、こういうののほうが現代劇に取り込むなら好きだなあ、と思いました。
厳密すぎないから、能舞台に身体がはじかれる心配もないし。
冒頭(とかいいながら記憶が混乱してるのでラストまで混ざる)
冒頭、monoのmonologue(独白)から始まるんですが、
「ず、しーん!、とばかり、とてつもなく大きな音を立てて大木が倒れていく。けれども、誰もいない森では、その音を聞くものがいない。誰にも聞こえない音。それは音だろうか。」
よくぞ暗闇の中でメモった、自分えらい。というかあのクソ汚い字を解読できた今の自分もすごい。
というわけで、句読点とか漢字とか、てにをはとかは間違ってると思います!
で、その後に、前半の記事でも書いたように
「誰にも聞こえない言葉は言葉だろうか」
「なんのために誰もいない森でわたしは言葉をつむいでいるのか」
「そう言い終わるとカミサマは誰もいないつもりで目をつむった」
と続くという。
結論から言うと、誰にも聞こえない音、言い換えると、誰にも聞かれない音は、「音」じゃないだろうな、とは思います。それは空気の振動でしかない。
誰にも聞こえない言葉、誰にも聞かれない言葉に関しても、同じ!って言っちゃってもいいかな、とは思うんですが、劇中盤に、
「こころはね、コトバという葉っぱの上におかれた水(水滴?)。言の葉が消えればこころも消える」
※ちなみに、能の詞章(セリフ)にも「心の水もそこひなく…」とよく出てくる。心は清濁、浅い深いがあるから水に似ているとの発想らしい。ここにも来るか、能。
みたいな星の王子さま(前田敦子さん)のセリフがあるので、そこまでくると何となくぼんやり分かる…かな。
まあ可能か可能じゃないかは哲学者に任せるとしよう。そこは分からなかった(笑)
※もし読んでくれている方いらしたら、ちょっとここから大分ほんわりしてくるので、詩でも読むような感覚で、イメージを積み上げながら読んでもらえたら、逆に分かるんじゃないかと思います(笑)
えっと、なんか、とにかくこの冒頭から始まり、白石加代子さんのマイクパフォーマンスからの、monoと楽のシェイクスピアごっこみたいなのに入るんですが(ここに関しては後で書く)、その後にまた同じような場面が繰り返されるんです。
アンサンブルって呼ばれる、役者さんたちが、冒頭と同じく後ろで木のように倒れていくんですが、そこでなんかmonoが
「昔、この世から樹木が枯れて、葉っぱがなくなっちゃたことがあった。葉っぱを探して森に迷いこんで、疲れて目をつむったら、ずしーんって大木が倒れてきて、最後の一枚の葉っぱが落ちてきた(テグス付きの緑の紙が上から上手いことmonoの手元に落ちてくる)カミサマは永遠に目をつむる前にその葉っぱを人間だけにあげることにした。それが言の葉だ。言葉だ」
みたいな、おとぎ話か?的なことをmonoが語る…という場面。
細かい部分突き詰めていくと辻褄合わなくなったりするのが野田秀樹の戯曲、って先生が言ってたことがあるので、先生でそれなら学生が太刀打ちできるわけないじゃないか、ということであえてイメージだけでフワッと箇条書きにすると、
・樹木=monoの衣裳は茶色。葉っぱの紙を持つと木に見える。
・樹木=上のことから素直なイメージを持つと、人間。
・樹木が枯れて=
①死んだ。「人の死が枯れたヒマワリになる」という表現が後半にある。遺書を残した人も居たらしいけど飛行機事故で死んだ多くの人が葉っぱ(言葉)を残せなかったし、録音されなかった。
②星の王子さまのセリフと合わせると、枯れる、葉っぱがなくなる、こころが消える
→どう考えても荒みまくった現代社会への皮肉でしかない気がする。
例)楽が電車に飛び込んで自殺しようとしたとき(楽は元地下鉄職員?らしい)先に自殺した男がいた。
「その男の死は『ご迷惑』(という無味乾燥な言葉)になった。誰もその男の死を悲しまないんだ」
※実はこれ私も上京してきてびっくりしたことではある。みんな時間ばっかり気にしてイライラしてるの見て「都会怖い」と思った。
・「葉っぱを探して森に迷いこんで、疲れて目をつむったら、ずしーんって大木が倒れてきて」は
①の場合は、CVRを探しにくる捜索隊の事なんだけれど、「疲れて目をつむったら」あたりからは主に劇作家自身の感覚な気がする。②の、語彙力無くなって強い言葉も無くなってこころの機微が死んだ世の中にうんざりしてそう…(勝手なイメージ)
・空から落ちてきた最後の1枚の葉っぱ=CVR
あるいは、これも、空から突然降ってきたように、その「コトバの一群」にふいに出会った劇作家自身の経験かな。
・カミサマ=これが一番の謎。でも前半の記事にも書いたように、これはあの1回きりの出来後、絶対に共通されえない&絶対的な「死」をたくさん含んだ、飛行機事故そのものの事かな、と思う。「カミサマ」も一応絶対の存在でしょ?絶対繋がりじゃないかなあ…。
下の画像で言うならノンフィクションのリアルの部分。
・カミサマが永遠に目をつむる=事故という出来事がそこで停止するってことかな。それ以上進行もしないし、もう二度と経験することも出来ない。共通不可能性。
つまり、まあ、ここまで書くとぼんやり伝わるかなあ、と期待しているんですが(頑張れ読み直した時の未来の私)、本当に共通不可能になってしまう前に、手がかりを残した。それはCVRに残された「コトバの一群」=1枚の葉っぱでしかないけれど、その1枚の葉っぱから、(その1枚だけの葉っぱという「見かけ(文字)」からでは全然分からない)枝を、幹を、森を、山を、あの事故を、絶対的な何かの手触りみたいなものを、「その『コトバの一群』が『確かに、誰かに聞かれることによって』」何とか手繰り寄せてほしい、あるいは手繰り寄せることを要請する、みたいなことなんだろうなあ、と。
「誰にも聞こえない言葉は言葉だろうか」
というのは、絶対性(例えば、死)の前にたって初めて認識する、誰かに、ある文脈のもとで聞かれてないと成立できないという言葉の相対的でしかない無力さ、無意味さ、滑稽を自覚しつつあることを表していて、
※「ねえどこまでがホントなの?」「ウソはついてないよね?」「(その言葉で作り上げる)フィクションなんかに収めてどうしたいの?」みたいなセリフが散りばめられているのもそういう葛藤なのかなあ…。
「なんのために誰もいない森でわたしは言葉をつむいでいるのか」
というのは、それでも、私たちは、その、何を言っても相対化されて、意味がなくなってしまうような言葉に頼る方法でしか何かを表現することも伝えることも出来ない、ということを身に染みて感じながら「何かを言っても何にも言っていないことと同じなのはわかっている。それでも、私は、あなた(誰か)があなた(誰か)なりに一生懸命に、言葉ではどうしても表せないものを含めて、受けとろうとしてくれると信じて、言葉を贈る(しかない)」みたいなあきらめと希望の綯い交ぜ状態、かなあ…。
そしてこれが登場人物の誰かというより劇全体、しかも劇作家自身も含めての全体で言ってきる気がするから、焦点がはっきりしたかと思うとすぐにぼやける…。
ああでも、父(mono)が息子(楽)に向かって「この匣(CVR)を贈呈(偉い!よく頑張ったね!だからこれをあげるね、とやや上から目線の「送る」という意味)します!」は随分けったいな言い回しだなあとは思ったんですが、父(上の世代)から息子(下の世代)へと送る言葉を、一生懸命息子が受け取ってくれることを、切実に期待しているからこその先回りとしての「(やや空回りのきらいがある)よく頑張ったね!」だったのかな…考えすぎかな…。
monoの役割は、その言葉を届けるメッセンジャーですかね。死者でありながら死者(たち)の言葉を届ける使者でもある。
mono自身も、あの事故の時に亡くなってしまった機長そのものではない。良くて魂。悪くて残像。そういう意味で言葉と似ている存在。
…だと私は思ったので、上の図で、monoと匣は同等の位置に置いた…んですが…あれ…。
シテが前半と後半で変身するように、monoが前半と後半で変化するのは、何度も何度も覚醒してくシテ、monoとのやり取りを通して、受け取り手であるワキ(ちなみに能でのワキは、主に観客の代表者的な役割を果たします。分かりやすく言うとインタビュアーだと思ってもらえると…)である楽、および観客が、フィクションを通してあの事故の文脈を少しだけ共通して把握した(あるいは、全部は絶対に把握しきれないことを共通して把握した)からかな。
ある単語(あるいはひとまとまりの音=mono)を違う文脈に当てはめると全く違う意味になるみたいな。「はしに寄って」と「はしを取って」で「端」と「箸」に変わるみたいな。
…それにしても高橋一生さん、ある意味人格がはっきりしていないmonoみたいなのを演じる時の、あの意味と色のないきょとんとした感じいいな…。ほんとに平仮名かローマ字みたい…。
とにかくそういう感じだから、最初に、イタコの手違いか何かで、monoと楽のダブルブッキングが判明した時に、笑いを引き起こしたmonoの「あたま下げろ!(この文脈だと「謝罪しろ」の意味にしか見えない)」というセリフとかが、飛行機のシーンでは真面目で聞くのがしんどいぐらいのセリフに変わったりするのかな、と思います。
つまりまあ、多分ですけど(全力で強調)ものすごーく、ざーっくり言ってしまうと、この話って
1人の個別の死者の象徴としてのmonoのmonologue
死者に物語らせることが、死者だけでなく、生者にとっても鎮魂歌たりうるのは日本にある共通の感覚な気がする。詳しいことはレポートじゃなくて感想だから書かないけど、「絶対かつ永遠かつ普遍的である」死に対面することでしか「しかしそれにも関わらず今・ここで」を生きている実感というものはわかない。あれ?でもそう考えると西洋にもあるか。
と
使者として「カミサマ」(絶対的な出来事)から託された、あるいは半ば泥棒として盗んできた「コトバの一群」とか
を出来るだけ正しくそのままの文脈で(つまり本当の意味でのそういう受容が絶対に無理なこと、あくまでこちら側の恣意的な行為でしかないことをしっかりと把握して)受け止めて解釈して飲み込んであげる、みたいな事かなあ…。
その死者との交流の過程を通して、1人の死者としてのmonoも救われるし、楽は自身の生を実感するし、楽と同じくワキである観客も実感すべき…なんだろうけど…。
あいにくあんだけ言葉なんて信じらんねえ、みたいなことを執拗にやられると、個人的には「楽(たの)、しんで(死んで)、楽(たの)、生きていこう」とか「分かった。生きるよ」と、割とするっと出てきちゃうことに対して拍子抜けしちゃう感覚があって。なんか「生きる」だけではすくいきれない何かがあったはずなのに、突然その言葉で切り裂かれた感じがして。いや橋爪功さんは最高なんだけど、そもそものセリフとしてかな…。
だから白石加代子さんの「(何か言いたそうにしながら言わない、みたいな沈黙)…ありがとうございました。」の(沈黙)の方が好きだったのか…。
そして再びキャパオーバーからの撃沈。
それにしても、重い…このテーマ重い…個人的なことともっと共同体な原体験みたいな事が重なりまくってて考えるのしんどくなってきた…。
あれえ…おかしいな…7000字超えた上に…なんか小難しいぞ…あれれ…???monoの衣裳かわいいしんどい、野田さんシェイクスピアのトリックスター感まじさいこう、あっちゃんかわいい声がいい、生者の登場人物に橋爪さんと白石さんキャスティングしたのまじで的確すぎてヤバい、とか書きたかったのに
…うーん…分けるか…次こそふざけた感想書きたい…いや書く…
そしてけりをつけて早く楽になりたい…!!
【追記】楽になれました!!たぶん!!