感想日記

演劇とかの感想を書きなぐってます。ネタバレはしまくってるのでぜひ気をつけてください。

今年度中に感想書きりたい!第1弾:『彼女を笑う人がいても』

2021/12/05

世田谷パブリックシアター   13:00

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去年観た演劇の感想を年度末までにまとめよう企画、あらため、

 

今年度観たやつは今年度中に感想書ききろう!

 

企画第1弾です。予定では第8弾までのはずです。

第3弾まで☟

monsa-sm.hatenablog.com

 

あと、観てから軽く1~2ヶ月経ってるやつがほとんどです。

だから、なんとなくでしか覚えていないんですけど、一応書いてしまわないと個人的にモヤモヤしっぱなしなので、ちまちま書いていきます。

 

 

公式

youtu.be

 

setagaya-pt.jp

 

そういえば今度テレビ放送されるそうです。

 

あと戯曲は2022年1月号の悲劇喜劇に載ってますが、この間の岸田國士戯曲賞の際に、期間限定で無料公開されていたので、きっとこんなブログを読むような方なら全部読まれたことでしょう!!(よりによって山本卓卓『バナナの花は食べられる』を読み逃す大失態を犯した私とは違って……)

 

ポジティブ寄りの感想

照明、舞台美術

トレーラーの映像からも分かると思うんですけど、相変わらず照明が綺麗でした。栗山さん演出だと毎回「照明綺麗だなあ」と思っているので、たぶん照明の使い方が私のツボなんだと思います。

 

かなりどシリアスな話で、セリフがメインな劇だったんですけど、照明が控えめかつ効果的に支えている感じがして素敵でした。

 

舞台美術自体も、部分的な映像の使用とラストに大移動(海岸に出るため、それまで使っていたセットがほとんど舞台上からなくなる。舞台奥に向かって綺麗に上昇する形が崩れて不規則に凸凹するので、海岸感がすごかった!)する以外はかなりシンプルで、言葉だけで立ち上げていくぜ!感がすごかったです。

開演前から妙な緊張感があった……。

 

あと、映像と字幕の使用が、全体的に質感がザラザラして当時の報道!って感じで雰囲気が好きだったんですけど、それよりも「彼女」の死因として扼死の可能性を挙げる時に、舞台後方のスクリーンに赤い線が1本スッっと横に入るのはめちゃくちゃドキッとしました。

舞台全体が茶系とか濃い緑、黒、薄い青系とかの寒色メインで統一されてたから、ギャップで余計に……。

 

1人2役

キャストがだいたい1人2役でした。

 

特に1960年/2021年の切り替えの軸になるのが吾郎/伊知哉なので、主演の瀬戸康史さんが冗談抜きに出ずっぱりでびっくりしました。ヤバくない……?

 

ちょっと似ているようで似ていない祖父と孫の演じ分け・切り替えがすごかったです。衣裳を変えている訳でもない(そんな暇はない)のに普通に別人に見えました。

照明が時代ごとに結構パチッと切り替わるのも大きかったとは思うんですけど、にしてもすごい。

 

同じ俳優さんが同じ衣裳で演じるので、祖父と孫の細かな印象の違いが、それぞれの背後にある時代の空気感としても伝わってきて、「これはとてもよい1人2役……!」と興奮してました。

年齢自体もどっちも30代前半ぐらいで、吾郎も伊知哉も変わらないんですが、吾郎の方がタフそうで気概があるというか、熱い感じの人だったのが、月並みなんですけど「時代かなあ…」という印象。

 

でも主演の1人2役が、色々な方面からあまりにも意味がハッキリしすぎていたので、そのほかの1人2役に対しても何かしらの意味を勘繰ってしまう部分がありました。

少なくとも私は意味を見つけることができなかったので、単に人数の問題かな、と思考放棄しました。

全員レベル高かったけど!木下晴香さん、台詞劇は初めてってほんとですかマジでやべえ……!!

 

でも渡邊圭祐さんが演じていた、松木(1960)と矢船(2021)は、姿勢という点では共通点があったような気も…。

「どうせがんばったって無駄なのになんでそんな頑張るんすか?」みたいな空気感というか。そんな感じ。わかりみしかないね…!まじそれな…!?

 

あと、年老いた松木が「そういえばあの事件の後しばらくして、吾郎さんに会った時に、吾郎さん、喧嘩してる人たちを見て『喧嘩できるだけいいなあ』って言ってたなあ」というようなことを喋っていたのが結構しんどかったです。

というか、大学に行くことも、友達と集まることもできない現役大学生からすると、1960年代の学生運動の熱はちょっといいな、とぶっちゃけ思います。

 

真剣になってもしょうがないのは分かっているんだけど、でも真剣になれることとか見つけて取り組んでいる人や時代は羨ましい、みたいなその感じめちゃくちゃ分かる…。

年老いた松木を演じていたのは吉見一豊さんで、そこに伊知哉(吾郎と1人2役)と矢船(渡邊さん。1960年の松木を演じてた)が会いに行くという状況になっていた!と記憶しているので、謎の空気がありました。正直この場面、観てて1番混乱した気がする。

でも若い時の松木を演じた人と、今年老いた松木が観客の目の前に出てくるのはかなり効果はあったような気もします。単純に、若い時の松木を演じた人が老いた松木が語るのをじっと聞いている構図になるので、時代の流れや老いることによって松木の内面がどういう風に影響を受けたのか、とかについて、観ていた時に結構ぐるぐる思いを巡らせた気がします。

あと劇中で「俺たちは知っちゃてるじゃないですか、負けちゃうって」って矢船のセリフがあったけど、ほんとそれなという感じ。

渡邊さん、初めて舞台で観たんですけど、醒めてて容量よさそうな感じが最高にハマってました。

 

ネガティブ寄りの感想

2021年ならマスクをつけよう(せめて外では!!)

コロナ、とか、オリンピック、とかいう単語が頻出する割には、登場人物がマスクをしている描写がなかったので、「まさかパラレルワールドの2021年日本なんだろうか……?」と最初の方で、謎に思ってしまいました。そんなことはなかった。

 

なんかちょっとナイーブすぎない……?

なんとなくの印象ではあるんですけど……。

吾郎と新聞記者主筆(上司だと思う)の辰巳大介(大鷹明良さん。迫力がやばい)が、共同宣言について口論するシーンが、割とこの戯曲のハイライトになっていて、えげつない迫力で展開していくんですが、まあどっかで聞いたようなことをお互いに言い合っているな……と思ってしまったというか……。

 

「マスコミは権力を監視する立場にあるべき」で、もしそうでないなら「この国の言論は死にます」、そしてやがては言葉が「暴力の道具になる」って吾郎は言うし、対する辰巳は「銀座の街から昨日、人は消えてたか」って、国会周辺に集まった学生たちだけが声を持っている訳じゃないことを指摘したり、そもそも「言葉」にはそこまでの力はないから「暴力」や武力行使で世界中の革命は成功してきた、けれど今の学生には革命を起こす「気概」もない、というようなことを言ったり、とにかく相いれない双方の主張を(特に吾郎の方が)どストレートに戦わせていて……。

 

正直どっちも一理あるとは思うんですけど、それよりも、どっちも本質的に言葉=暴力とは思っていないようだったのが、個人的な感覚としてズレてしまっていて、「一体この人たちは何について言い争っているんだろう…?というかお互いが現在進行形で相手に対して言葉で暴力ふるっていることに気が付いていないのか……???」ときょとんとしてしまったというのが正確な感じかもしれないです。

何かを書くとか何かを言うとか、とにかく言葉で何かを表現することは、同時にそれ以外のものを全部切り捨てる行為、取捨選択する行為なのでそもそもめちゃくちゃ暴力というか……。震災復興関係でそういう指摘(復興が進んでいるところもある、という「事実の一部」しか報道は伝えていない、的な)、劇中にもあったとは思う……。

あとこの場面にある「銀座の街から昨日、人は消えていたか」っていう辰巳のセリフはそういう(吾郎がその時取材対象とせず、切り捨てた人々にだって考えや生活や主張がある)ことだとは思うんだけど……。でも劇全体としては「当事者の声を伝える」ことがテーマにあがっている訳で、当事者以外を持ち出す点で辰巳の主張はどう考えたら……??というかどこからどこまでが当事者なんだ……??混乱……。

 

てか「言葉には力がないから~」的なことを喋っていた辰巳がGOサインを出したらしい「暴力を排し、議会主義を守れ」という「共同宣言」という言葉によって、学生側に事件の全責任を押し付けることに成功しちゃっているので、「いやめっちゃ力じゃん??」と突っ込んでしまったり…。

 

そういうことに気付かせるためのシーンだったんだろうか………。だとしたら大成功だけど、さすがに報道に関わる大人だったらその程度のことは自覚はしているのが普通なんじゃないか……?

 

とりあえずタイトルにある「彼女を笑う人」の代表格としての上司でした。あの迫力に立ち向かった吾郎、やばい。

 

「彼女」の扱い方が個人的にこわいと思った(上手い表現が見つからない)

「彼女」は舞台上には登場しません。あと一貫して「彼女」で、樺美智子という名前も(たしか)出てきません。

 

なんか、舞台でそういう風に抽象的に扱われると、大体の場合、存在感が反比例的に増大していくので、「彼女」が1つ大きな要素になっている劇としては、この表現、最高じゃん!と思いました。

 

でも現実にあるモノとしての実体を伴わない言葉(「スイバク、ハンタイ」のシュプレヒコールが「ただの音」になっていく、と誠子が劇中で喋ってたけど、まさにそんな感じの話)の力の話をしている面から見ると、劇中で使用される「彼女」という抽象的な言葉が強烈な存在感を増していくにつれて、舞台外のどこかにはいたはずの生身の「彼女(樺美智子)」からはどんどん乖離してしまっていってるのではないか、とめちゃくちゃに怖かったです。

別役実もどっか(たぶんベケットといじめ』)で、「これはリンゴではないかもしれない」ってリンゴをもった役者が舞台上で言うと、めちゃくちゃリンゴの存在感(言葉だけでは表現しきれない謎の存在感)が増す、的な事を言ってたような……。

たぶんそういう関連の舞台上の表現のあれこれだと思うんだけど……。

 

最後、モヤる

舞台美術と相まって、綺麗だったんですけど、舞台奥上方中央で「濡れてみたいんです」って言うセリフが、余りにも楽観的に軽くて、モヤモヤしてしまいました。そもそもあれを綺麗と思うのこそ、それこそ違う気がする……。

未来への自分へ。ちょっと現時点では上手く言えないので、図書館行って戯曲読んでください。2022年1月号の悲劇喜劇です。たぶんバックナンバーになって雑誌コーナーの奥にあると思うよ。1時間もあれば読み終わるからよろしくね。

 

衛星劇場観られる方は観てぜひ(一緒に)モヤってください

そしてなんか素敵な感想書いてください。

そしてできれば私のモヤモヤを取り払ってください……!!(他力本願)

 

というわけで1つ消化。12月初めに観た劇の感想を今書くって不思議な気持ちです……。自業自得だけど……。