感想日記

演劇とかの感想を書きなぐってます。ネタバレはしまくってるのでぜひ気をつけてください。

2023年4月から10月までのNTLiveのちょっとした感想

タイトルまんまです。『るつぼ』ライフ・オブ・パイ『ベスト・オブ・エネミーズ』『善き人』『オセロー』(配信)の短い感想をまとめました。

 

 

 

『るつぼ』

シネ・リーブル池袋(4月15日、13時25分)

 

演出とかは結構オーソドックスで優等生的な感じ。加えて舞台美術は視覚的に美しかったのだけれど(ただなんで上から水が滝みたいに落ちてくるのかは結構謎)、戯曲がどうも嫌いな感じがする。アーサー・ミラーとどうしても仲良くなれない。もちろん赤狩り批判の芝居として大事な作品だと言うのは分かるのだが、なぜか全体を通して「若い女ってやっぱ怖え…」みたいなとこに話が縮んでいく感覚があって、「若い女」としては大変に不快。

 

そもそもアビゲイルという少女にプロクターという既婚者が手を出さなければ良かった話なのに、最終的にアビゲイルがなんかちょっと悪者ちっくに追放されて、プロクターは妙な聖性を帯びてかっこよく死んでいくのが解せない。アビゲイル自身、抑圧的なピューリタン社会の被害者なのに、そのアビゲイル、およびアビゲイルに同調する少女たちにのしかかるその抑圧を、批判的に眺めるような視点が戯曲に一切ないのも掘り下げが甘いと思う。あとプロクターの妻も、ものすごく薄っぺらい「良き妻」像として描かれるので、この辺はもうちょっと演出で補強してあげたほうがいいと感じた。今回、そこまでの積極的な補強は感じられなくて、なんだかとてもミソジニーな芝居だな、と率直に感じてしまい、ぜんぜん楽しめなかった。

 

なにより、アビゲイルを筆頭とする若い女性たちの実名顔出し告発をこういう風に扱ってしまっている芝居を、Me too運動とかが注目されている今やる意味が正直全然分からない。というかぶっちゃけ不愉快。なんでこの芝居今やろうと思ったんだろう…。

 

ライフ・オブ・パイ

@TOHOシネマズ日本橋(5月27日、11時40分)

 

パペットの技術は確かにすごいけど、原作(『パイの物語』で邦訳あり。弘前の図書館にもあるよ!)と全く違う話になっていた。もちろん話は同じなんだけれど、そこから立ち上がる主題が全く別になっているというか…。

NTLiveに関しては、演技とかを含めた技術面ですごいのは当たり前だと思っているので、パペットの操縦技術のすごさは特にプラス評価にはならなかった。

 

舞台の方は、とんでもない現実を経験したとき、そのトラウマを乗り越えるためには虚構の物語が人間にとって必要であり、創作の力というのはそういうところにある(だから演劇という創作も人類にとって有益である)、というありがちなところに縮んでいってしまっていたような印象がある。

 

それと比べて原作の方は(邦訳があるしハリー・ポッターシリーズ1冊分より全然短いからぜひ皆に読んで欲しいのだけれど)、なんていうか、ありきたりな言い方なんだけれど、もっと哲学的なところを主題として扱っていて、宗教とはなにか、「信じる」ということはどういうことなのか、この世界に対してどういう風に接していくべきなのか、というとこまで突っ込んだ内容になっている。

これを踏まえて舞台版を観ると(私は先に舞台版を観たのだけれど)、確かにスペクタクルではあるが、どうにも陳腐で普通なエンタメだな、という印象がぬぐえない。

 

そういえば、原作と舞台版で、主人公のパイの人物造形が全く異なるのも気になった。原作のパイは、父が動物園を経営していることから派生していった自身の特殊な経験を糧に、自分自身の力と知性でベンガルトラとの漂流生活を成し遂げていくように描かれている。要は、かなり賢く理知的な人物として描かれている。しかし舞台版では、いたずら心でトラの檻に侵入するような、良く言えば無邪気、悪く言えば馬鹿としか言いようのない感じで、トラとの漂流生活も、大切な人たちの幻想に頼ることでなんとかギリギリ命をつないでいくような、相当に危なっかしい印象があった。確かに特殊な経験と知識を持った聡い少年が、それを活用することでたくましく漂流生活を行うよりは、無邪気で幼い少年が、大切な人たちの幻に助けられながら漂流生活を行う方が、なんというかディズニー映画っぽいエモーショナルさで、たぶん大衆にウケるとは思う。ただそのために主人公の造形を大幅に変えてしまうのは、原作ファンに対する裏切りなんじゃないかと感じた。物語の主人公は確かに未熟で何にも出来ないところから成長していくのが、鑑賞者の自己投影を誘いやすい点で王道ではあるけれど、そういうのは大衆映画とかに任せておいても良かったのではないかと思う。

 

というわけで、舞台版を観られなかった人は舞台写真とかティーザーとかでパペットのすごさを実感したら、あとはくよくよせずに原作小説を読んだ方がいいと個人的には思う。少なくとも、私は舞台版を観た時にはエンタメだなとしか思えなかったけれど、原作小説を読んだ後は「神を信仰するのって日本だと悪いイメージがあるけれど、もしかしたらそんなことないのかもしれない」と少しだけ自分の考えが動かされるのを感じた(そしてこの物語全体は「神を信じたくなる話」として語られるので、作者の目論見は大成功ということになる)。実は鬱で活字が相当に読みづらい時期に読んだのだが、それでも頑張って読んで良かったと思える1冊だった。自信を持ってお勧めしたい。

 

『ベスト・オブ・エネミーズ』

シネ・リーブル池袋(9月9日、12時5分)

 

舞台は1968年アメリカ。大統領選挙前の共和党民主党大会に合わせて、視聴率最下位のABCは新しい政治討論番組を企画する。『ナショナル・レビュー』編集者であるウィリアム・F・バックリー(デイヴィッド・ヘアウッド)、民主党支持者でバイセクシャルのゴア・ウィダル(ザカリー・クリント)に白羽の矢が立ち、2人は毎晩カメラの前で舌戦を繰り広げていく…、という実際にあったことを基にした作品。

主演の2人へのインタビュー映像が幕間に流れたんだけど、話し方?アクセント?が全然違ってビビった。英語苦手民でも分かるくらい全然違った。たぶん2人そろって本人に話し方をめちゃくちゃに寄せたんだと思う。すごい。

 

アメリカのテレビ討論番組が今みたいなデマまみれのめちゃくちゃなものになったきっかけが、たぶんこの討論番組であった、ということをスリリングに描いていて面白い作品だとは思った(そしておそらく、こういう討論におけるヘイトのぶつけ合いみたいなエンタメ政治の終着点がトランプだったんだろうな、と感じた)。そしてその討論番組が残した、バックリーとウィダル2人へのどうしようもないダメージの大きさも結構意外だった。直接的な政治の話というよりは、この2点に重点がある作品だったと思う。

あとスーツのインテリエリートおじさんたちが、理性的に話し合いをするつもりが、何故かその知性を互いを罵倒し合うことに使い始めて、言葉によるガチの乱闘騒ぎになってしまった…みたいなのが好きな人なんかは、すごく刺さる作品なんじゃないかと思う。加えて時々ジェイムズ・ボールドウィン(サイラス・ロウ)が、こういう討論番組で1人の人間が1つの立場を代表することの弊害とか、その特権意識とかについて、鋭いコメントをさしはさみ、批評的視点というか、そういうエッジを効かせていたのも良かったと思う。

実は主演2人よりも、このボールドウィンが一番美味しい役なんじゃないかと思った。

 

なによりテレビのスタジオを意識したスタイリッシュな舞台美術と巧みかつスピーディーな舞台転換、またテレビカメラを意識したようなカメラワークが秀逸で、「収録」された演劇として観る面白さを高めていたように感じる。

 

ただ後半、もしテレビカメラがなかったらバックリーとウィダルの2人はどんな話をしていただろう、というif軸の話に入ってからは、愛だの恋だの信念だのの話に入っていき謎にエモくなるので、そこはちょっと好みではなかった。急にやおいの二次創作が始まった、という感じで、私はその切り替えにあまりついていけなかった。

でも、あとあとから考えてみると、政治的に対立していたハズの2人の間に、最後に(二次創作ではあるもの)ある種のエモーショナルなやり取りとそれによる和解が生じることは、「そういうことが起こり得ないであろう現在」に対する一種の願いなんだろうな、となんとなく感じた。そういう、思想面では対立してはいるものの、感情面では1人の人間として当たり前に尊重して話し合える、みたいなことが現実ではあんまり起こり得ないからこそ、トランプとその支持者によるあんなことが起きてしまったんだろうな、とぼんやり思った。

 

ただ、やっぱりこの最後のエモさ、好みではない。

 

『善き人』

シネ・リーブル池袋(10月20日、13時35分)

 

天下のデイヴィッド・テナント主演の舞台作品が2500円(3000円)で、しかも日本で観られるなんて…!とテンションアゲアゲで行ったら、席の異様な埋まり方とパンフレットの異様な速さでの売り切れ方にビビった。テナントさん人気を舐めてた…。

 

内容としては1933年から1941年くらいまでのドイツが舞台で、主人公は大学の研究者のジョン・ハルダー(デイヴィッド・テナント)。このハルダーのメモリー・プレイとして進むので時系列が直線的というよりはあっちゃこっちゃに飛ぶ印象があって、観ている観客としても、ぼんやりした記憶を断片的に思い出すような感覚にさせられる。加えて、ハルダー以外の登場人物は、ほぼエリオット・リーヴィーとシャロン・スモールが衣裳替えとかもせずとっかえひっかえ演じるので、余計に「あれ、いま誰が何の話をしてたんだっけかな…」と霧のかかった記憶を思い出しているような感覚にさせられる。この辺は観客への効果を考えるとかなり上手い演出だと思う。

あとリーヴィーが、ハルダーの友人でユダヤ人の医者であるモーリスを演じていたと思ったら、次の瞬間にはおそらくナチスの高官を演じているシーンが結構あった。抑圧する側とされる側の関係性になにか納得できるようなあれこれがあったわけではなく、舞台上でこんなふうにオセロみたいに切り替えれるようなそんな関係性しかなかったんだ、と感じてしまい(たぶん実際問題そうなので)、この役振りも上手いな、と感じた(元の戯曲は俳優十数名で演じる作品だったらしい)。

 

肝心の物語自体はそこまで複雑ではない。ハルダーにはたぶん認知症かなにかの母がいて、妻子もいたのに、指導学生と恋に落ちてしまい、おまけに同時期に著作がナチスに気に入られてしまう。そのままハルダーはどんどんナチスの仕事を任されるようになり、ユダヤ人虐殺へと深く関わっていく…というのが全体の内容。でも水晶の夜以前で舞台上で唯一写実的に描かれるナチスの蛮行が焚書だけなので、「ハルダーにとっては水晶の夜以前にナチスがやらかした一番のインパクトがあることが、焚書だけだったんだなあ(ハルダーは大学教授なので)」ということが明確に表されていたりなんかして、とにかく演出が上手い。

 

あとハルダーのメモリー・プレイとして進むのでとにかく刻むようにハルダーの独白やら傍白やらが入るのが特徴としてある。その中ですごく感動してしまった独白があって、「自分は基本的に恵まれている人間だから、その恵まれた状態を楽しんだり維持したりするのに忙しくて、ユダヤ人問題が真摯に取り組むべき問題だということは分かっていても、どうしても優先順位が低くなってしまう」とかなんとかいう独白。マジョリティ側の人間が陥りがちな「自分が幸せに暮らしていけることこそが、社会を善き社会にすることよりも重要なことなんだ」という間違った論理が前面に出ているセリフで(なんなら自分の幸せこそが、善き社会に繋がっている、と考えている節さえある)、「ああ~この考え方、間違ってはいるのだけれど同じマジョリティとして痛いほど分かる!」と共感してしまった。

私は強い人間ではないので、もし自分があの時代のドイツにいたら、ユダヤ人虐殺に積極的に関わるほどの地位にはいないと思うけれど(いま現在若い女性なので)、たぶん黙認はしていただろうな、という自信は正直ある。

こういうことを悪びれもせずに言い切ってしまえる人間は、そりゃああの時代にいたらユダヤ人虐殺へと関わっていくのが必然なわけで、少なくとも私はそう思っているから、ハルダーが幕切れ付近でナチスの制服を、まるで普通の制服のように着たことに特にショックを受けなかった(それまで舞台上にナチスの制服は一切出てこないので、たぶん演出意図としては観客にここである種のショックを与えたかったんだと思う)。

あと特にテナントさんのファンという訳でもないし…。

 

ところで、ハルダーには妙な病気みたいなのがある。人生のちょっとした局面みたいなところではいつもバンドの音楽が聞こえる、というものだ。たぶんこれは、ある種の現実逃避が精神病的に現れたものなんだと思う。これは作品通して何曲も現れてくるのだが、正直、最後の場面になるまで意味が分からない。

で、その最後、ハルダーがナチスの制服を着てアウシュビッツに着いた時にも、もちろん爆音で音楽がかかっているのだけれど、この時、舞台後方の壁が上がって、後ろから収容所の囚人服を着たバンド隊が演奏しているのが見えてくる。それを見たハルダーが「バンドは現実のものだったんだ…」と2回繰り返して幕、という形だった。この演出も上手いな…と思った(戯曲読んでないのでどこまでが演出なのかは知らないけれど)。

つまり、人生の局面で、気が付かないうちに押し込めたり、見ないようにしてきた不安とか抑圧みたいなものが、自分にだけ聞こえる音楽という精神病的なものとして現れていたのだけれど、そういう確かにあったはずなの見ないふりをしていた不安とか抑圧とかに対して、普通の善良な市民である主人公は、アウシュビッツの職に着くことになって(かなり引き返せないところまできて)、ようやく「現実」に存在するものだったんだ、ということに気が付いた、ということだと私は受け取った。

こういう、なんとなく気が付いていたくせに、引き返せないところまできて初めて「あれ?」と思うのも、「普通」の人、という感じで(まあ大学の先生ならもうちょっと頑張れよ、という気がしないでもないのだが)、「分かる!」とテンションが上がってしまった。

 

全体的に、別に今の価値観で判断すると超前衛的な戯曲というわけでもないと思うのだけれど(ちょっと時系列がごちゃごちゃしている程度。発表当時はもしかしたら珍しかったかもしれない)、その戯曲を彩る演出の手さばきが上手すぎて、観ている最中に「うまーい!!」とテンションが変な方向にあがってしまう作品だった。別にテンションがあがる内容ではないのだけれど…。

 

あとTwitterの方で教えていただいたポッドキャストを聞いて、演出家頭良すぎじゃね?????となったので興味ある方は是非どうぞ。自動翻訳がギリギリ仕事をしてるので英語できない私でもなんとなくは分かった。なので安心して聞こう。

youtu.be

 

本当に観ている間も観終わったあとも「演出上手い!!頭良すぎ!!いいね!!」がとまらない作品だった。あとテナント沼に落ちたらどうしよう…!とわくわくしながら観に行ったのだけれど、別に沼には落ちなかった。残念。

ただ、たぶん半年後に覚えているのはテナントさん演じるハルダーの執拗なカメラ目線だけだと思う、というくらいにはカメラ目線が多かったので、もうちょっと引きの絵で観たい場面あったな、頼むよNTLiveカメラ班、と思うには思った。でもまあテナントさんファンへの配慮かもしれないな、とも思ったからなんとも言えない。

 

『オセロー』

@家(YouTubeの無料配信、英語字幕)

 

英語字幕だったので以前に観た日本語での上演と読んだことある戯曲の記憶を頼りに雰囲気で乗り切って観た。のでたぶん解像度は低め。

 

演出自体は洗練されていてかっこよかったし、上手い演出だと思った。

特にあんまり観たことない演出としては、デズデモーナとエミリアシスターフッドみある演出。正直戯曲全体としては女性差別しまくりな作品なので、それに対抗する手段として頭いいなと感じた。

あとは白人のモブがチャーミングな扇動者であるイアーゴー(もちろん白人俳優)をはやし立てるような、現代でもよく見る政治的な構図を思い起こさせる演出とか、オセロー(黒人俳優)が転落していくさまをその白人のモブが楽しむように冷たく眺めている演出とかもあって、現代の排他的な政治状況と、人種差別と、あと先に挙げた女性差別の3点に演出意図をクリアに絞っている感じがして、よく戯曲をこんなにきれいにさばいたな、と上から目線で感心してしまった。

ただクリアに絞りすぎたせいか、オセローとイアーゴーの同性愛的なあれこれがごっそり抜け落ちてしまっていて、ここは好みが分かれるだろうな、と感じた。

あとこれも好みの問題になるんだとは思うんだけれど、イアーゴーを演じていた俳優(ポール・ヒルトン、たぶん51歳)が、たぶん私が観たことあるイアーゴーの中で最高齢で、イアーゴーってたしか27、8歳の設定(たしか戯曲にそう書いてたような…うろ覚えだけど)だったと思うので、オセローより年上に見えるだけで雰囲気変わるもんだなあとなんとなく感じた。なんというか、イアーゴーがオセローより年下かな、という風に見えると、イアーゴーがオセローを貶すのも憧れ混じりなのかな、という風に見えるのだけど、年上に見えると、純粋に年下の上司であるオセローをめたくそに貶しているだけに見えてしまって(もしかしたらそういう演出と演技だったのかもしれないけど)、ちょっとびっくりした。

 

しかしまあ、こんなに頭良く上手く演出されても、私の目にはやっぱり女性蔑視のものすごい昼ドラ感満載のくだらない話にしか見えず(たぶん戯曲自体が嫌い)、イアーゴーをめちゃくちゃ好きな俳優がやる、とかでない限り、しばらく『オセロー』はいいかな、と結構本気で思った。

 

今年もお世話になりました。来年もたまに更新するのでよろしくお願いします。

『オセロー』が公開された6月は東京にいなかったので「詰んだ…」と思ったんですが、あとから配信してくれて助かりました。これで今年のNTLiveは

 

monsa-sm.hatenablog.com

 

『レオポルトシュタット』『かもめ』☝も観ているのでコンプリートです!!

マジで休学中で半年以上実家のほうにいるのに、よく頑張ったと思います。偉いぞ自分。

 

正直NTLiveでやるような作品って私の好みからは外れているんじゃないかな…とここ最近思うことが多いんですけど、それでも色々観ると面白いのはあるし、なにより海外の舞台観られる貴重な機会を逃してたまるかという執念で観ています。

 

そんなわけで来年も(何やるか分かんないけど)NTLiveコンプリ目指して頑張ろうかと思います。

 

あと前の記事にも書いたけれど、生観劇を再開するのが来年2月なので、ブログの更新はそれ以降になります。とは言ってもこのブログ読んでる物好きな方は年内まだまだ観劇されると思うので、みなさんよいお年とよい観劇を~!!

2023年9月から10月に生で観た舞台のちょっとした感想

来年の2月まで実家にいる予定(休学中)なのでしばらく観劇しません。ちょっと演劇のことで最近頭でっかちにぐるぐるしすぎちゃうので、いい機会だと思って生の観劇から少し離れてみようかと思います。9月から10月の2カ月間映画を観てなくて、この間久しぶりに映画を観たら面白かったので、なんかそういう効果を期待してます。

 

てなわけで9本(実質10本?)感想書いていきます。うちミュージカル2本、ダンスは1本だけです。

 

 

2023年9月

①『スクールオブロック

@東京建物Brillia HALL(17日、12時45分)


柿澤勇人が太っていないのが駄目だった。というかデューイ役に太った俳優をキャスティングしていないのが駄目だった。

 

なんで駄目かと言うと、元の映画(2003)にあったボディポジティブ的なメッセージが皆無になってしまうからだ。映画ではデューイをジャック・ブラックが演じているのだけれど(調べればわかるが結構太めの俳優)、そのデューイが結構かっこよく、自分に自信満々で、最高にロックなのがこの話の1つのポイントだ。映画には、同じく太っているトミカという女の子が、デューイのそんな態度に勇気をもらう場面まである(この場面でデューイがトミカに対して「君は全然太ってない」と言うのではなく「太ってて何が悪いんだ?」という態度を貫くのがかっこいい)。

つまり、ロックスターは痩せててかっこよくなきゃなれない、という思い込みを盛大にぶち壊しつつ(とてもロックである)、太った人が太った自身を否定せずに「太っているやつが最高にロックで最高にかっこよくて何がいけないんだ!」とハチャメチャに人生を楽しんでいるところが、この映画の個人的に好きな面だったし評価されるべき面だと思う。

 

だからデューイ役がいわゆるイケメン俳優では駄目なのだ。トミカも同様にほっそりした子(三上さくら)が演じていたので、もちろん映画にあったようなデューイとトミカのやり取りはカットされている(その代わりなのかなんなのか、映画には出てこないトミカの親はゲイカップルになっていた)。映画と舞台版でもともとどの程度の違いがあって、かつ今回の日本版に合わせてどのぐらい舞台版が改変されたのかは知らないが、たとえトミカとデューイのやり取りがなくても、デューイ役が太った俳優なだけで十分にもとの映画にあったようなボディポジティブなメッセージは伝わる。だからやっぱりこれはミスキャストと言わざるを得ない気がする。

なんなら柿澤勇人演じるデューイが「ダイエット中なんだ」と言ってしまう悪影響の方が引っかかるレベルだった。それ以上痩せてどうすんのよ…。

 

それと、キャストがキャストなので歌唱力は全体的に子役も含めて高かったが、それ以前にアンドリュー・ロイド・ウェバーが書き下ろしたであろう曲が、映画のオリジナルかつ舞台版でも使われる“School of rock”という曲に全く合っていなくてずっこけた。もっとこういう曲調が得意な人に作曲させた方が良かったのではないか?と思う。正直「何か印象に残っている曲はありますか?」と聞かれたら「校長が歌っていた『夜の女王のアリア』です」と自信満々に答えるしかない。私もなんでロックなミュージカル作品に突然『夜の女王のアリア』をぶっこもうと思ったのかは知らない。ほんとになんでだ?

 

あとロックっぽい曲調とかロックっぽい楽器の音色とかは、ブリリアと相性最悪だった。マジで歌詞が聞き取れない。そうでない曲(『夜の女王のアリア』とか)は比較的聞き取りやすかったので、ロックなミュージカルなはずなのに、曲がロックになればなるほど聞き取りづらい謎状態になっていた。

 

もちろん好きだったところもあって、例えば梶裕貴が演じていたデューイの友人のネッドなんかは、映画版よりだいぶコミカルな感じでキャラが立っててとても良かったと思う。でもそれを上回る「日本のメインストリームってこんなもんだよなあ」という脱力感が半端ない。私はいつか、太ってたりイケてない見た目だったりするおっさんとかおばさんとかが、ブリリアみたいなでっかいハコで堂々とミュージカルの主演を務めているのが観てみたいと思う。もちろん日本で。

 

でも、たまたま相互フォローの方とお会いできたので、行って良かったな、とは思っている。

 

②『橋からの眺め』

東京芸術劇場 プレイハウス(21日、13時)

 

演出がジョー・ヒル=ギビンズじゃなかったら観に行かなかった、というぐらい戯曲が嫌い。叔父さん(伯父さん?)が姪に対して異常なまでの愛情を抱いてしまい、それをぽっと出の不法入国兄弟の弟にとられそうになって、腹いせに不法入国のことを密告したら、兄の方に殺された、というとんでもなく自業自得な話だからだ。「で?だから何?」と大声で言いたい(なんなら「キッショ!!」も付け加えたい)。ただNTLiveのイヴォ・ヴァン・ホーヴェの演出では結構視覚的にスタイリッシュかつショッキングな感じになっていて、観ていて「まあ面白くなくはないな?」と上から目線で思ったので、今回も行ってみた…というのが経緯。

 

そんなこんなで元の戯曲が嫌いすぎてハードルがだだ下がっていたので、意外と普通に観られたな、というのが第一印象。第二印象はエディ役の伊藤英明が棒読みすぎる、ということ。

ただその棒読みが上演全体に特に良くも悪くも作用していなかったので、まあこれはこれで…みたいな不思議な気持ちになった。妙な味わいがある…というか。

 

舞台美術全体としては天井が上下する流行りのタイプのあれで、どういう基準で上下しているのかは最後まで謎だった。キャサリンの目の覚めるような蛍光イエローのワンピースはポップで可愛かったと思う。あと室内の場面が多いのだけれど、登場人物たちがどういう基準で靴を脱ぎ履きしているのかは、日本的な感覚からすると結構謎だった。

 

全体的に特に心に引っかかるような場面がなく、面白味のない優等生的な上演だな、と感じた。

 

③『アナトミー・オブ・ア・スーサイド -死と生をめぐる重奏曲-』

文学座アトリエ(22日、13時)

 

知ってる先生が翻訳してるんだけど(結構おしゃべりしたことある先生で、なんか翻訳の口調がものすごく「ああ~あの先生っぽい!」という感じだったので、それは面白かった)、どうも上演で観るよりは翻訳原稿片手に原文で読んだほうがまだ面白いのでは?という感覚をぬぐえなかった、というのがぶっちゃけた本音。

 

一応説明すると、形式が結構とんがっている形の作品で、Aパート、Bパート、Cパートに分かれた3つの物語を舞台上に同時展開していく(原文戯曲は本を縦にめくる形で3列になっている)、というのが特徴。

 

〈Aパートのあらすじ〉

希死念慮持ちのキャロルが自殺未遂をして、病院で治療を受けたところから始まる。キャロルは妊娠ののち、「遺す」ためにプラムの木がある家を購入する。アナを出産し、娘のために「出来るだけ長くとどまる」ことを決意するが、電気痙攣療法を受けるものの改善はせず、誕生日の朝に自殺。なおキャロルと友人女性がキスをする描写がある。

 

〈Bパートのあらすじ〉

大学卒業後、薬物依存の治療のために入退院を繰り返していたアナ(キャロルの娘)は、ジェイミーという男性と出会い、結婚し、プラムの木がある家に戻る。その後ボニーを出産するが、そのことに大きなショックを受けてしまう。キャロルと同じように電気痙攣療法を受けるが、やはり回復せず、自殺。

 

〈Cパートのあらすじ〉

アナの娘ボニーは成長して病院の医師として勤務している。プラムの木がある家を売り払おうとしたが、次第にその家で多くの時間を過ごすようになっていく。一度、ジョーという女性と交際関係になりかけたが、うまく親密になりきれず破綻。プラムの木がある家で過ごすうちに、祖母と母とのつながりを感じるようになったボニーは、この繰り返しをここで終わらせようと避妊手術を決意する。

 

全体的にフーガ的な構成になっていてるのだけれど「三世代同時にセリフ発声されるとすごくうるさいな」と思ってしまって(戯曲自体は空白がかなり多くて静かな印象だったので余計にそう思った)、同時進行でやる意味が正直よく分からなかった。まあ三世代の話なので、連綿と受け継がれていく命の有り様を視覚的に表現しようとすると、同時進行という形になるのかもしれないけれど、3つの物語を順番に上演しても大して違いはないのではないかと思う。同じセリフを三世代同時に喋ったり、Aパートの人物の問いかけにCパートの人物が答えているように聞こえたりするような場面もあるのだけれど、それが何かとんでもなく面白い効果を生んでいるようには到底思えなかった。たしかに英語で上演すれば音楽的には面白いのかもしれないけど、英語の言語リズムで書かれたであろう音楽的な作品を、日本語のリズムに直さざるを得ない段階で、その音楽的な面白さの部分は半減(以上)しているのではないだろうか、と上演を観てなんとなく感じた。

 

あと、物語の女性たちが苦しんでいるのは、おそらく「女性とはこうあるべき」とか出産とかにまつわる社会的抑圧のせいなんだろうな、という予想は立つのだけれど(作中に明確には描かれないが)、それを血のつながりをベースでやられてしまうと、どうしても遺伝子決定論的な雰囲気(親が自殺したんだから子供も自殺したんだろ、とか、親が病んでるから子供も病むんだろ、とか果てはボニーが同性愛者なのは、もしかして祖母のキャロルが実は同性愛者だったからではないだろうか、的な考え方)を醸し出してしまっていて、観ていて大変に居心地が悪かった(遺伝子決定論、個人的に大嫌いなので)。こういう場合、もっと演出で「社会的な抑圧の方が原因ですよ~」ということを際立たせた方が良いのではないかな、と思ってしまったけれど、これは上に書いたように好みの問題かもしれないので何とも言えない。

でもそもそも、女性がメンタル病んで気が狂ってしまったり、自殺してしまう芝居って今のニーズに合っていないのではないかな、とも感じた。2017年の作品だから、その時と2023年ではまた状況が違うのだろうけれど、なんらかの精神的な苦痛を抱く3世代の女性を、ガラスケースに入れたみたいに並列させて比較することで、その苦痛の原因探しを観客にさせるような上演の構図に、ぶっちゃけ吐き気を覚えたことも一応書いておく。そんな簡単に希死念慮とか自殺に至った原因が分かってたまるかよ、と希死念慮持ちとしては感じた。

 

あと上演においては、基本的に下手からABCの順番で並んでいたのだけれど、たまにBACとかCBAみたいな並び方にシャッフルする演出が加わっていた。ただでさえ十分に混乱しやすい作品なのに、観客の頭をさらに疲れさせるこの演出に一体何の意味があるのだろう、ととても疑問だった。

それと、最後の場面、プラムの家を買いに来た母娘に、ボニーがプラムの果実を勧める場面で終わるんだけれど、そのとき、何にもなかった舞台上の背景に緑色が鮮やかに輝く庭が現れる演出がある。これはたぶん避妊手術をしようがしまいが、ボニーが連綿と受け継がれてきた生命の一個体であることは変わらず、これからの彼女の生を祝福する意味合いがあったのだろうけれど、ここをこうも美しく演出してしまって良いのだろうか、という疑問が尽きなかった。ボニーが避妊手術を志したのは、作中には明確に描かれてはいないけれど明らかに社会的な女性への抑圧が原因であって、それがなかったらボニーはこの選択をせずにすんだのかもしれないのだ。被害者がなんとか適応しようともがいた末に至った結末(本当はそんな必要などなく、変わるべきは加害者である社会のはずなのに)を、こうも美しく描いてしまうことの危うさの方を強く感じてしまった。

 

色々好き勝手書いたけど、ぶっちゃけ形式の面白さ以上の面白さが終始私にはよく分からなかったんだと思う。たぶん命をつなぐ、という行為自体を心の底では結構気持ち悪いと思っているので、そもそもの物語が全然好みに合ってないのが問題なんだろうな、となんとなく感じた。ごめん先生。

 

④木ノ下歌舞伎『勧進帳

東京芸術劇場 シアターイースト(23日、13時)

 

古典の現代化の好例だと感じた。衣裳は黒一色でまとめていて、ラップやダンスも入り乱れつつ、照明や音響の雰囲気なんかもクラブみたいなスタイリッシュさがあって、普通にかっこいい演出だと思った。ダンスの中に、ときどき歌舞伎や能から取ってきたのかな、という型の動きが入るのも面白い。セリフもそんな感じで古典から取ってきたものが混ざったりするので、古典の原作知らなくても楽しいけど、知っていたらいたで楽しい、みたいな絶妙なバランスだったと思う。

 

あと古典でもそうなのだけれど、よりいっそう富樫(坂口涼太郎)に比重を傾けたのが良かったと思う。最初は仲間からの差し入れのレッドブルすら飲まないぐらい権力とか規則側にがちがちに縛られている感じなんだけれど、弁慶(リー5世)が義経(高山のえみ)を打ち据えるのを見てかなりうろたえたり、弁慶たちの堅い団結や友情を見て心動かされたりする様子なんかが、歌舞伎よりもずっとはっきりと描かれていた。それを通して「自分はずっとがちがちに縛られたままの人生で良いのだろうか…?」みたいな考え方に富樫自身なっていくのがよく伝わってきた。最後に、富樫が、見逃した義経一行たちとピクニック&バカ騒ぎをするのは、そういう富樫の心境の変化によるものだと思う。幕切れのラジオ放送からも、この「見逃し」によって富樫が罰を与えられることは暗示されているのだけれど、そうだと分かっていても(馬鹿なことだと分かっていても)、一時の楽しみに身を投じてしまうのもまた人生の醍醐味だよね、という感じで、きっと富樫は、見逃した一行とバカ騒ぎをして楽しんだことを生涯後悔したりはしないだろうな、となんとなく思った。

 

あとキャスティングがとても良かったと感じた。みんなハマり役。

 

⑤『ラグタイム

日生劇場(27日、12時45分)

 

第二次世界大戦直前くらいの黒人差別とか移民問題とかを描いたミュージカル作品。キャストが派手で衣装もセットも豪華で、ザ・大型ミュージカル作品!ではあった。ただ私が馬鹿だからかもしれないけれど、この作品を「今」「日本で」やる意味がこれっぽっちも分からなかった。こんなの海外から持ってきてやるぐらいなら、同じキャスト使って、日本の差別の歴史とか移民問題の歴史とかに正面から向き合った(かつ簡単なお涙頂戴に流れない)オリジナルミュージカルをぶち上げて欲しい、と心の底から思った(と同時に、そんなの日本では無理か、とも即座に思ってしまったのが悲しい)。

 

あと、白い衣裳が白人、黒い衣裳が移民系、カラフルな衣裳が黒人を表していたの、たしかに「日本で」やるなら賢いやり方だとは思ったし別に駄目ってわけじゃないけど、「日本の演劇界ってほんとメインストリームには人種の多様性がないんだな」と改めて認識してしまいちょっと悲しくなった。

 

サラ役の遥海の歌声が、海外のミュージカルスターみたいでかっこよかったのが唯一の救いだったのだけれど、なんか物語内容とは全然別のところで、終始悲しくなってしまう作品だった。

 

2023年10月

①『ヒトラーを画家にする話』

東京芸術劇場 シアターイースト(1日、11時)

 

うっすらとした知り合いが出演しているし、前に全公演中止になってチケット払い戻した過去があるので、楽しみに観に行った。

ただ11時開演は早すぎんだろ、とちょっとキレた。でもこの日を選んだのは自分です。ザ・自業自得。

結果、今回観た9本の中で1、2を争う感じで評価が難しい感じの作品だった(もう1本は太陽劇団)。

 

物語はタイトルまんまで、美大生3人がひょんなことからタイムスリップしてしまい、画家を目指していた若きアドルフ・ヒトラーと出会ったので、「ここでアドルフを画家にできればホロコーストなくせるんじゃね?」というナイスな思い付きから奮闘していく…、という、ラノベとかなろう系とかのティーン向け小説で読んだことある雰囲気の歴史改変SFファンタジー、といった趣。

ちなみにこの美大生3人、あまりにも世界史の知識がふわふわしすぎていて「お前ら中学は出てんだよな?」と思ってしまった。それとも美大生ってみんな興味ない分野とかに対してはこんなもんなんだろうか…。あと絵画批評のセリフもふわふわしてたよね…。大丈夫か美大生…???

結構ドタバタコメディタッチなんだけれど、ユダヤ人同化の話とか、当時の女性参政権の話とかをさらっと拾っていて、素直に「上手いな」と思ってしまった(ただ、そのことで出てくる、画家を目指してるユダヤ人学生が、あまりにものっぺりとした模範的「善人」なので、そこは表面的だなと思った)。

最後、無理に歴史を大幅に改変するともとの時間軸に戻れなくなってしまうことを知った美大生たちは、大幅な改変を諦めてもとの時間軸に帰るのだけれど、そのもとの時間軸で、タイムスリップ前には発見されていなかったユダヤ人画家(もちろん上記の画家を目指していたユダヤ人学生)の作品が発見されていること、また、美大生がもとの世界に帰ったあとのアドルフ・ヒトラーの時間軸では、アドルフが親友に連れられる形で政治的活動の仲間から離れていく描写で幕切れになっていることからも、このタイムスリップが全くの無駄ではなかったことが示されて終わる。後味の良い作品だったと思う。

ただこのテンションで上演時間3時間弱だったので長すぎる、と思った。90分ぐらいがちょうどよいライトさ。もうちょっとコンパクトにした方がいいと思う。

 

3年ほど前、現役の高校教師から「今の高校生は”アウシュビッツ”と聞いてもピンとこないかも?」という話を聞きました。ヒトラーホロコーストのことは知っていても、それと「アウシュビッツ絶滅収容所」が結びつかないだろうと。私、とても驚いてしまって。若い人たちが歴史を知るきっかけになるような作品を作らないと!と思って作ったのがこの作品です(当日パンフより)

 

劇作家自身がこう書いてあるように、笑いあり涙ありのエンタメで、かつ考えさせるティーン向けの教育劇、という目線で見れば大変に良く出来た作品であると判断せざるを得ないと思う。実際に観ていてかなり楽しかったし。

 

ただこの物語の主題は、美大生3人(そのうちの特に1人)の自己実現なのだ。そもそもアドルフを画家にしようとしたのだってその1人の卒業制作のためだったし、物語の山場では、社会がどんよりしていて、好きなものを胸張って好きって言いづらくても、胸張って好きって言うのって結構大事だし、そうやって好きなものを選び取ることが、ささいなことかもしれないけれど自分、ひいては社会のためすらなるんだ、というメッセージが前面に出てくる。物語の最後で、画商の父から画商になることを強く勧められていて悩んでいた1人が、自分は絵を描くことが好きなのでやっぱり画家になる!と大宣言をぶちかまして終わるので、メッセージとしてはやっぱりこの辺に重点があるのだろう。

 

このメッセージ自体は何の問題もない。素敵なメッセージだと思うし、進路選択に迷う高校生なんかは勇気づけられるかもしれないな、とも感じる。

 

問題なのは、なんだか、ぶっちゃけちょっとノーテンキで薄っぺらいこの自己実現とかこのメッセージを伝えたいがために、ユダヤ人迫害の歴史を「利用」している感じがどうにもぬぐえないということだ。そんなことに「利用」していいものではないことはよほどの馬鹿じゃない限り分かっていると思うので、上演側にそんなつもりはないというのはもちろん分かっている。分かっているのだがどうしても、歴史を扱った作品内に言語化できてしまうメッセージを組み込んでしまうと、そのメッセージを伝えたいがためにその歴史を都合よく切り取って利用したような構図に見えてしまうのは、避けられないことがほとんどなのも事実である(その歴史が「深刻」なものであればあるほど、そのメッセージが他の文脈で表現可能であればあるほど、そのように見えてしまう)。今回に関しては、明るくノリのいいタッチと相まって、その辺がかなり危ういな、と正直感じてしまった。

評価が難しい、と最初に書いたのはそういう理由からだ。観た直後にこう感じてしまい、当日パンフを開いたらティーン向けの教育劇ということが分かって、それなら、と評価を上方修正した、というのが実際のところだ。

 

重ねて言うが、公共劇場において安い値段でやる教育劇、という視点から見ると、とても良く出来た作品だと思う。ただ、芸術か、と言われると正直答えに詰まるのが本音。

歴史を扱った芸術を鑑賞するといつも考えることがある。たとえば引きこもりのおばさんの生活を描いたり道端の石ころを描写することよりも、革命や虐殺といった歴史的事実を作品で取り扱うことのほうが、何かしら重さのあること(重要なこと)として捉えられてはいないだろうか。もしそうなのだとすればその価値判断を強いているのは一体何なのだろうか。それは社会的規範ではないのだろうか。そして少なくとも近代以降の芸術は、そもそも、その社会的規範に何らかの形で穴をあけたり、宙ぶらりんにしたり、曖昧にさせたりするものではなかったのだろうか。

社会的規範が重要だとしているから重要なものとして歴史を扱う、という姿勢で作られた作品というのはなんとなく分かるものだ。今回だって(社会的規範的に)歴史を学ぶことは重要だから高校生とか向けに書いた、ということが明記されている。私はこういう作品を芸術と呼んでしまうことにどうしても抵抗を感じてしまう。それは芸術ではなく、教育の範囲に入るものではないのだろうか、と思ってしまうからだ。

 

まあ、いろいろぐちゃぐちゃ書いたけれど、長すぎたこと以外を除けば、知り合いの豹変っぷり(舞台ではかなり嫌な奴だったと思うが実際はマジの陽キャコミュ力お化けの好青年)も楽しかったし後悔はしていない。ただ若者組より大人組の方の演技が上滑りしてる感じがあって、普通逆じゃないのかな、となんとなく思った。

 

②『漁師グラフス』

@シアタートラム(7日、14時)

 

漁師グラフスが狩りの途中で崖から落ちて死んでしまう。しかし死の国へ向かう小舟が航路を誤り、1500年以上にも及ぶ旅をし続ける羽目になる…、というカフカの未完小説の舞台化。

一糸座の『少女仮面』が面白かったから、と先生に勧められて観に行ったのだが、正直期待外れだった。

 

前半、サイコロで遊ぶ人々、うめく女、漁師と鹿、街の営み、何かを運ぶ水夫、水夫に指示をする提督、赤ん坊を連れた女、鳩に餌をやる女、歩みのやたら遅い老人、老人をどこかの家の中に招く提督…みたいな謎のイメージが無言で展開される。

 

そしたら水夫が運んでいた荷物がほどかれて、その中身が老いたグラフスだったこと、歩みの遅い老人、はグラフスが長い旅路の末にたどり着いたリーヴァという街の市長であり、市長はグラフスがたどり着くというお告げを鳩から聞き出迎えたことなどが明かされる。

 

それ以降はグラフスが、前半のイメージの絵解きみたいな自分語りをバーッと進めていく。

最後グラフスは、結局リーヴァにも留まることなく、これからも漂い続けることを宣言して幕だった。

 

文脈が分からないままおもむろにアルバムを見せられ続けたと思ったら、一通り見終わった後でその文脈を説明されるというなんだかパッとしない構成で、前半のイメージの展開は割と興味深く観ていたんだけれど、それの絵解き(答え合わせ)になった瞬間正直めっちゃつまんないな、と思った。漂い続けるグラフスは可哀そうだとは思ったけれど、このつまんない構成で何がしたかったのかよく分からない。

あと何個か絵解きのされないイメージもあるのだけれど、その中に複数の不穏な女のイメージがあった。ぶっちゃけこれはキャスティング見る限り、俳優の出番づくりのために無理矢理入れ込んだイメージなのではないか?と邪推してしまった(めんどくさくて原作小説読んでないのでなんとも言えないけれど)。

 

糸操り人形はたしかにかわいかったしすごかったけれど、このくらいすごい人形さばきは、ジャンル違うけど文楽とかでいつでも観られるからなあ、という感じで、すごいけど、だから何?と思ってしまって特に楽しめなかった。勧めてきた先生を恨んだけれど、もう1本ぐらい一糸座の公演観てから、これからも観に行くか捨て置くか決めたいなと思った。

 

③『パフォーミングアーツ・セレクション2023 in Tokyo』

@東京芸術劇場 シアターイースト(22日、14時)

 

2本の小作品のつめあわせ的な公演。

 

『あいのて』

同じ2人(島地保武、環ROY)による前作『ありか』はラップとダンスによるラップバトル形式だったので、正直二番煎じになるんじゃないか、と、心配しながら観に行った。

結果、二番煎じといえば二番煎じだけど、私は割と面白く観た。ただダンス公演観に来たつもりの人ならキレるかもしれない、と感じた。

 

やっていることとしては、芸人のコント形式にかなり近い。語り(ラップ)と動き(ダンス)の掛け合いによって話題が連想ゲームのようにどんどんぽんぽん次に飛んでいく(基本的に環ROYが語りで島地が動きだが、両者どちらも担当している)。ただ扱っている内容が生と死とか意識と記憶とか割と哲学的な内容なので、以下の記事に書いてある通り「哲学的コント」と言うのが的確なような気がする。

niewmedia.com

 

そのコントのなかで語られている内容は、たしかに『ありか』よりはまとまりがあるのだけれど、じゃあ説明しろ、と言われて説明できるほど私の語彙力はない…というのが本音。ただ何か特定のメッセージがあるというよりは、語りと動きでコント(バトル)ができないか?という試みの途中経過みたいなものを感じた(ここが二番煎じっぽいと言えばぽい)。上手く言えないけれどワークインプログレス的なあれ…(語彙力)。公演ごとにセリフとか内容が大幅に変更されていたとしても別に大して驚きはしないな、と感じた。

 

ただなんか『ありか』でも感じたんだけれど、あんまりこの2人、マッチしている感じがしなくて、異質なもののぶつけ合いによる化学反応を毎度楽しんでいる感じがする。あとこの主に環ROYが担当する言語表現と、主に島地が担当する身体表現の、なんとも言えないマッチしてなさ、かみ合ってなさこそ、この作中で結構な尺をとって語られる意識(言語表現)と身体(身体表現)の関係性に対する1つの解釈なのかもしれない、と感じた。

でも、結構ぐるぐる頭でっかちに考えないと、上に書いたようなことにすら辿りつけないと思うので、普通のダンス作品を楽しむ心積もりでいた人がうっかり観てしまってキレたとしても私は驚かない。あとコントということで笑いを取るシーンが結構あったんだけれど、正直笑いのレベルは低かったと思う。まだ普通の芸人のコントの方が面白い。

 

それにしても環ROY岡田利規『掃除機』で観た時も思ったのだけれど、絶対に下手に刺激して怒らせたらヤバい人感がとにかくヤバい。なんであんなにヤバい雰囲気持ってるんだろうあの人。

あと単純にラップとダンスのソロパートは、それぞれの本領発揮という感じで観ていて楽しかった。

舞台美術に関しては、基本何にもない感じだったんだけど、真っ白なホリゾント幕に、照明のせいで3色に分裂した2人の影が映りこむ瞬間が多くて、その影の重なり合いはとても綺麗だった。

 

『Can’t-Sleeper』

女性ダンサー2人による「不眠症」をテーマにしたコンテンポラリーダンス作品。『あいのて』と比べるとかなりオーソドックスな印象があるが、眠れない夜の、心の中はぼんやりしているのに、意識だけ妙にはっきりしてしまった覚醒状態の質感が、非常に良く表現されている作品だと感じた。

特に、横で誰かが眠ってしまった時、1人ぽつねんと残される表現があったのだけれど、「うわ~誰かと暮したことある人なら絶対経験あるやつ~!!」と妙にテンションが上がってしまうくらい、その表現によって醸し出される夜の雰囲気が秀逸だった。

 

最後、休憩中に観客からアンケートを取った(「眠れない夜はどう過ごしますか?」という質問内容)回答を読み上げて、徐々にその声がフェードアウトしていく感じで終わりだった。アンケートを取った瞬間から、まあこういう使い方をするんだろうな、という予想通りの使い方だったけれど、「眠り」とか「不眠」の「共同性」を表現するのには結構良い感じに働いていて、別に尖った作品ではないけれど、優しくて繊細な作品だな、と感じた。

 

結論:セレクションだったにしても、なんでこんな系統が違う2作品をまとめてやろうと思ったのかが、マジで謎。マジでなんで???

 

太陽劇団『金夢島 L'ILE D'OR Kanemu-Jima』

東京芸術劇場 プレイハウス(25日、14時)

 

なんだか、とても朗らかで余裕のある上演だと感じた。夢の話なせいもあってかなり詩的に展開してくので正直引っかかる部分ありまくりなんだけれど、どんな人間がどんな人間を演じても良くて、文化とは誰か特定の人のものではなくて文字通りみんなのものである!という、ある意味ユートピア的な演劇観に支えられた上演だったと思う。この嫌味のない無邪気さ、朗らかさ、余裕さと比べてしまうと、なんだか色んな演劇作品の上演って、とっても窮屈そうだな、と感じた。

 

ただ、扱っている内容としては、コロナのこととか、イスラエルの戦争のこととか、特攻隊のこととか、本来あんまり軽く扱ってはいけないと社会的にはされていることを、ものすごくサラっと無邪気に扱っているように見えてしまう部分もあるにはあるので、この辺が無理で受け入れられない人は絶対にいるだろうな、というのも同時に感じた。

 

細かいところで言えば、裸の場面で、裸を模した全身タイツを着ているのが頭いいと感じた。全部モロ見えなんだけれど、全部隠れていて、もう裸の場面みんなこれでいいじゃないかと感じた。

あと能舞台らしきものが多様されるのは、夢の話だからか、世阿弥が流されたのが佐渡(金夢島)だからかは謎だった。ただ覚えている限りでは、屋島』『隅田川』『羽衣』の謡も、場面に合わせる形で使用されていたので、能を知っていると(少なくともこの3作品の内容を知っていると)たぶんちょっと作品の解像度が上がると思う。

 

全体的に舞台美術のサイズ感がプレイハウスにぴったりで、なおかつ海外招聘公演の中ではかなり字幕が読みやすく、まあ今後太陽劇団なんて観る機会があるかも分らんし、観られて良かったかな、とは思う。

 

一足先に2023年振り返り(今年はもう生観劇しないので)

今年の生観劇数は31本でした!休学中で、実家の青森にいる期間の方が長い割には、まあ観られた方なんじゃないかと思います。倉田翠と村川拓也の新作が観られないことだけが心残りですが、まあしょうがない、今は休もう!!(言い聞かせる)きっと来年またなんか面白いのやるさ!!

 

今年の個人的ワースト作品はぶっちぎりで4月『帰ってきたマイ・ブラザーでした。マジで右京さん(水谷豊)がこの世に存在したことを確認できた以上の収穫がない。あまりのつまらなさにあなたも椅子から立ち上がれず途中退場すらままならないこと請け負いです☆

 

個人的ベスト作品はぶっちぎりで5月『虹む街の果て』。理由はただ1つ。ぶっちぎりで変だったから(なのに妙な満足感があったから)。未だに思い出して反芻している。場面場面で何をしているのかは分かるけれど、全体で見ると未だに何が何やらさっぱりの作品です。素敵すぎる。こういうのがもっと観たい。

あとは次点に2月木ノ下歌舞伎『桜姫東文章と同じく9月木ノ下歌舞伎『勧進帳と3月岡田利規『掃除機』が横並びしている感じです。

 

あとは番外編として、妙に頭に残ったで賞!3月『ジキル&ハイド』!私の頭の中でクソデカ換気扇ミュージカルとして燦然と輝いています。何の話か分からない人はぜひ以下の該当部分を読んでみてください。

 

monsa-sm.hatenablog.com

 

 

そんなこんなで2023年でした(落ち着いたら今度NTLiveのちょっとした感想記事もあげる予定ですが、あれはあくまで番外編なので…)

来年は復学する予定なのでもっといっぱい観られたらいいな!と思います。来たれ修論に値する作品!!

あと今年も演劇界でクソみたいなニュースが続きまくってるけど、めげずに頑張ろうね!!観劇勢!!

8月に観た『桜の園』と『エブリ・ブリリアント・シング ~ありとあらゆるステキなこと~』のちょっとした感想

タイトルまんまです。最近は、先生にせかされた卒論の要約(なんか知らんけどあとあと履歴書に書けるらしい)が一発OKが出て良かったな、ぐらいで特に変わりはありません。あと『呪術廻戦』にどっぷりハマっているくらい。推しはパンダと東堂と高田ちゃん。真希さんも好き。

 

というわけで以下感想です。8月東京に行ったのは部屋を整えるのがメインの目的だったので、2つしか観られませんでした。

 

 

①『桜の園

PARCO劇場(10日、13時)

 

戯曲を読んだ時から「何この戯曲、登場人物にイライラする」と思ったのだけど、上演を観ても途中で帰りたくなるぐらいイライラするだけで、あんまり面白さが分からなかった。

 

登場人物にイライラするのは一旦脇に置いておくとして、いたずらに過去に縋りつく人物としてのラネーフスカヤとガーエフ、現在を象徴する(現在しか有効でない解決策を示すため*1)人物としてのロパーヒン、新しい未来への希望としてのアーニャとトロフィーモフ、という構造は分かる。

そして会話のキャッチボールを試みているのが現在を担うロパーヒンだけで、あとは登場人物全員ピッチングマシンみたいな喋り方*2しかしていないのも、見ようによっては面白いのは分かる。過去と未来を担う人物たちが一方的にふわふわとした主張を繰り広げるだけで、現在の問題(ロパーヒンの提案や問いかけ)にはまるで目を向けない様子なんかは、例えば現在の日本の政治状況なんかと照らし合わせて演出したりなんかしたら、それこそ抱腹絶倒ものだと思う。

 

ただなぜかこのプロダクションで強調されていたのはラネーフスカヤの子供の死だった。これはサイモン・スティーブンスによる翻案からそうなっているらしい。

www.theguardian.com

 

演出も翻案に従って、子供の死の話題が出る時は不穏な音楽を流したり…ということをやたらにしていて妙にセンチメンタルになっていた。たしかに子供の死は戯曲全体にわたってちょいちょい言及されるし、主にラネーフスカヤに大きな傷を残してはいるとは思うのだけれど、1つの上演を通してそのことばかりを強調し続ける意味が分からず、ただただセンチメンタルな感じになっていて、そこが本当に気に食わなかった。さっきも書いたように桜の園はもっと「政治的」に面白くできる作品のはずなのだ。それがあんまり意識されていないように見えたのが本当に好みじゃなくて、私の中での低評価の大きな原因になっているような気がする。

あとその子供を象徴するものとして、子供用?の三輪車があったのだけれど、クマの被り物をしたままその三輪車漕いでた俳優がすごかった。なんであんなに三輪車漕ぐの上手いわけ?

 

それと現代風に演出しているのはいいとは思うんだけれど、それならまず翻訳の口調を現代風にしろよ、と思ってしまった。翻訳翻訳している口調(特に女性の登場人物が)だったし、俳優たちもそれに合わせて新劇みたいにハキハキ叫ぶしで、なんだかなあ、とゲンナリしてしまった。あとガーエフの演説の時とかにマイクを使う演出はなんの意味があったのかさっぱり分からない。

 

上下する箱みたいな舞台美術に関しては、古く美しい思い出をそのまま箱の中に密封するってことかな(安易な考えだな)、と思ったのと、こういう天井が上下するタイプの舞台美術最近本当に海外モノでよく見るな、と思った以外特に感想はない。ただラストのフィールスの場面で、米津玄師のLemonの着信音鳴らしたやつは、村井國夫に誠心誠意土下座して謝罪すればいいと思う。

 

まあ、天野はなが演じていたメイドのドゥニャーシャのキャピキャピっぷりと、川上友里演じる家庭教師の不気味さは半端なく良かったと思うので、そこは観られて良かったかな、とうっすら思う。あとアーニャ(川島海荷)の顔がとにかくかわいい。あれはトロフィーモフ一目ぼれするわ。

 

②『エブリ・ブリリアント・シング ~ありとあらゆるステキなこと~』

@シアターイースト(12日、13時)

 

初演を観てあまりに感動してしまって美化しすぎている感があったので、頭を冷やしに行ってきた(言い方)。

舞台美術は初演の時の方がもっとごちゃごちゃしていた。今回はカーペットと小さいテーブルのみになっていた。ちなみに初演の感想もブログにあるけど読まないでください。黒歴史なんで。フリじゃないです。

 

結論:初演のときにもうっすら思ったけどこれ演出うんぬんというより佐藤隆太がすごいだけじゃね?てかこれに佐藤隆太をキャスティングしようと考えた人が神。ありがとう。

 

まず、これは観客参加型の作品なので、俳優はある程度毎回観客の位置を覚えておかなきゃいけない。SNSとか見た感じ、それに大きく失敗している回ってないんじゃないだろうか。すごい記憶力と臨機応変力。

あと、「観客参加」にビビっている観客(つまり私みたいな観客)すら「これならちょっと参加してみても良かったかも」と思わせる佐藤隆太の雰囲気がすごい。よく少年漫画とかで見る「裏表がなくてただただめちゃくちゃに人柄の良いネアカ」みたいな雰囲気にプラスして「近所のお兄ちゃん」感を出してくるからすごい。だって「近所の気のいい兄ちゃん」のお手伝いなら自分でも出来そうって思えちゃうじゃん。とにかく、もしかしたら佐藤隆太ってもとからそういう人なのかもしれない…と錯覚させる能力がすごい。裏表のない人間なんている訳ないだろと思ってる偏見人間(=私)ですらそう思わせるのマジでやばい。

あと自殺と鬱という割とセンシティブな内容を扱う作品なんだけれど、その1つ1つのセリフを確かな実感と説得力を持って観客に語り掛けられる佐藤隆太がすごい。もうなんか人間としてすごい。「自殺を考えている人へアドバイスがあります。自殺しないでください」みたいな、割と読むだけだとペラっとした印象のセリフがあるんだけれど、そのセリフを「自殺を考えている人へアドバイスがあります。(こんなことを自殺したいあなたに向かって言ってもなんの救いにもならないことは百も承知なんだけれど、それでも僕はあなたに今心の底から死んでほしくなくて、だからこう言うしかない)自殺しないでください」みたいな感じで言うのですごい。一言への含みがやばい。しかもそれを「演技」ではなくて「本心」から言っているのではないか?と錯覚させる演技力がやばい。とにかく佐藤隆太がすごくてやばい。毎回泣きそうになる。

 

心の底から佐藤隆太をキャスティングした人に拍手を送りたい(何回目)。

しいて言うならすべてが「佐藤隆太がすごい」に収束していくことこそが問題なんじゃないかと思う。もうちょっと演出頑張れよ(暴論)。

 

もちろん戯曲自体も「観客参加」という点で面白く出来ているなと思う。

最初は突然べらべらと自分のこれまでの人生を語りだす「僕」の手伝いを、割と「積極的」な観客がしていく(自ら志願する形でカードを読み上げたり、ある登場人物を「僕」の言うとおりに演じたりする)形になっている。まだこの段階では、上記のような「積極的」に参加する観客と、シャイだったり声を出せなかったりなどの色々な理由で参加に「消極的」な観客が一見存在するように見える。

でも最後の方で、この場が実はグループカウンセリングの場であり、だから「僕」は観客に自分のこれまでのことを話していたのだ、という事実が開示される。要はこの場(劇場)に来て、「僕」の話にじっと耳を傾けているだけで、十二分にグループカウンセリングの「参加者」として作品に深く「参加」していたことが開示される。つまり観客の全員が最初から「積極的」な「参加者」であることが明らかになる、という面白い構造を持っている。

ただしこの作品が「イマーシブ」なのかについては結構慎重な議論が必要だとは思う。

 

ただ唯一この公演で失敗しているな、と思うのは「自殺」に関して扱っていますよ、というトリガーワーニングを一切していないこと。公式サイトですらしていないのだからこれは批判されても文句は言えないと思う。だってこんなタイトルであんなポップなポスターならひたすら楽しい子ども向けの芝居かと思うじゃん?絶対よく分かんないまま来てる親子連れとか結構いたよ?

ちなみに私が観に行ったときは、(開演前に佐藤隆太が志願者にカードを配るんだけど)カードをもらえなくて泣き出しちゃって劇場から一人で出て行っちゃった女の子の機嫌を必死に追いかけながらとっている佐藤隆太、という面白ほほえましい場面が観られた。それと同時にそんなちっちゃい子が観て大丈夫か!と内容知ってる私はヒヤヒヤしてた。

 

総論:たぶん佐藤隆太さえ確保できれば私でも演出できる(大暴論)

懸念点:佐藤隆太以外のこのレベルでできそうなちょうどいい俳優がパッと思いつかない。

 

9月10月はいっぱい観るよ!

なぜなら東京にいるからね!芸術祭とかあるから!!あとNTLive!!!頑張る!!!!

*1:ロパーヒンが提示する、桜の園を切り売りして別荘にすればいい、というのは確かに短期的に見ると金を稼げるが、長期的に見ると文化遺産なんかを壊して土地自体の価値を下げてしまう手段でもある。

*2:ほんとかどうかは分からないけれど、前にロシア演劇専門の先生が「たとえばチェーホフ劇の登場人物って思い思いに各々の主張を話していて会話が成立してない状態になってたりするでしょ…ロシア人ってマジでああいう喋り方する時あるのよ…」と話してたことがある。マジかよ。