大したことないとは思うんだけど精神面のアレがナニ状態になって、個人的にいつもよりやべえ感があるのでしばらく更新しないかも(でもテンション上がってするかも)です。
とりあえず私が観ることの出来ないBSで再放送された『タージマハルの衛兵』を思い地団駄踏めるぐらいには元気です。
だからたぶんほんとに大したことはないと思います。
大したことないとは思うんだけど精神面のアレがナニ状態になって、個人的にいつもよりやべえ感があるのでしばらく更新しないかも(でもテンション上がってするかも)です。
とりあえず私が観ることの出来ないBSで再放送された『タージマハルの衛兵』を思い地団駄踏めるぐらいには元気です。
だからたぶんほんとに大したことはないと思います。
2021/12/19
シアター風姿花伝 14:00
第2弾は『ダウト~疑いについての寓話』!
映画にもなってるし、2022年5月号の悲劇喜劇に戯曲載る(ヤッタネ!)らしいし、ネットで探せば大学の先生が書いた批評もあるらしいので、マジで感想だけまとめます。
ちなみに勝手に始めた企画第1弾はこれ☟
当日席が分かる感じだったので、劇場に行ってチケット引き換えたら、最前列でテンション上がりました。
フリン神父(亀田佳明)の説教から始まったので
(えッ近ッッッ!!??てか爪長ッッッ!!??)
とか思ってたら爪長いのはフリン神父の設定なだけでした。ビビった……。
でも性犯罪の常習犯だったら何となく爪は短くそろえているような気もしないでもないけど……。
あと、個人的に爪が妙に長い人(楽器やってるとかネイルとかしてるなら話は別)に対して「なんかやだあ……」と思ってしまう偏見があるので、校長先生がフリン神父にイライラしてるのにすごく「ああなんか分かる……生理的に避けたいよねあのタイプ……」と謎の共感をしてしまいました。たぶんすごくどうでもいい。
冒頭に限らず説教シーンは客席に向かって語る構図になっているので、毎回聴衆気分(生徒気分?)で観てました!あんな先生だったらバスケも頑張ったかもしれない!!
背が高めだから意外と得意ではあったけど!!
「ダウト~疑いについての寓話」上演中、小川絵梨子「感謝の気持ちでいっぱい」(舞台写真 / コメントあり)https://t.co/LsjSB4ggYX pic.twitter.com/7GNn1ehRRs
— ステージナタリー (@stage_natalie) 2021年12月5日
舞台は1964年、NYにあるカトリック学校。
厳格な校長先生のシスター・アロイシスが、上司にあたるフリン神父の進んだ考えに抵抗を感じている、というのが前提としてあって、校長先生は、同僚、というか部下のシスター・ジェームズとの話から、フリン神父が、最近入ってきた黒人の男子生徒に性的虐待を行ったのではないかという疑いを持ちます。もちろん神父はその疑いを否定するし、シスター・ジェームズなんかは神父の説明に納得したりもするんですが、校長先生は全く信じず、神父を辞めさせようとする校長先生と、校長先生を辞めさせようとする神父が舌戦を繰り広げる!みたいなのが一応山場になってます。
あとその男子生徒の母のミラー夫人とのやり取りも結構ヒリヒリしてます。
最終的にはフリン神父は栄転の形で学校を去る、というモヤっとした終わり方です。
やったのかやってないのかは結局よくわからない終わり方になってます。
観客目線的には、キュートでチャーミングでコミカル担当のシスター・ジェームズの見方に大分引っ張られる気がするので
どうなんだろ分からん→言われてみればやってそう?→だよね~やってないよね~(とは思いつつちょっと不信感)→たぶんやってなさそうだ!!→まじかやっぱりやってんじゃん……ってえ??結局どっち??分からん~~!!
となりそうです。個人的な感覚としては、フリン神父と当該の男子生徒の間には何かしらのプライベートにすべきことがあったのは事実だけど、それが性的虐待だと断言できる根拠はなにもない、というこれまたモヤっとした結論です。
私自身が、キラキラニコニコしてる先生に対して不信感を持ってしまうのも大きいとは思うんですが、最初っからフリン神父、なんかヤバめ……??てかたぶん何かしらやらかしてる……!感が全体的にあったのも肌感覚としてはありました。
でもたぶんこれ、そういうやったやってないのサスペンスは今回はあくまでエンタメ要素で、そこが1番の焦点じゃないんだと思います。
そもそもやったやってないに関しては戯曲上ですら解決してない……。
公式サイトにも
疑惑と言うものは、確信と同じくらい強力で、長続きする絆になり得るということです
っていうフリン神父の最初の説教の〆の部分がどでかく引用されてるし……。
いや控えめに言って最高オブ最高だったよね……。
後半にあるタイマン部分の、亀田佳明さんと那須佐代子さんの口論が迫力ないわけがないよね!
しかも最前列だしね!!みんながよく言うけどまさに「浴びた」よね!!!
テンションは爆上がりでした。あそこまで叫ばなくても好きかもだけど、もうすごかったのでこれでいい、これがいい(面白い演劇に飢えている人間だとこうなる気がする)。
シアター風姿花伝だから登場人物間の微妙な空気の揺れとかが、ハッキリ空気感として伝わってくるし、口論になった時なんて劇場の壁みたいなのがビリビリしてて、ひょええええッッ!!!となってました。
最前列なんで!!勝った!!!(何に)
でもあの2人の間に流れる空気感は、初っ端から一触即発☆一歩手前レベルでヤバいので、最初の方でもろに挟まれてたシスター・ジェームズの胃が心配です。
校長先生なんてもう、フリン神父が紅茶に砂糖をいれることにすらムカついてたからね……。校長先生は一切いれてなかった……。
甘い人と厳しい人ってことの象徴っぽそうな砂糖。他にも「寓話」だからキリスト教関連で色々象徴的なこととかもあったんだろうけど、知識不足で分かんなかったです。キリスト教に慣れ親しんだ人が観たらどういう部分にそういう表現とかを見つけるのか聞いてみたい。ちなみに私は紅茶花伝のミルクティーが大好きですが甘いミルクティーなんてミルクティーじゃねえ派の友人もいます。これは単なる好みかな。
あと、その紅茶の場面で、校長先生がシスター・ジェームスと一緒に(どうもシスターと神父は密室で1対1になってはいけないという決まりがあるらしい)、最初にフリン神父に本題切り出す時、救急車のサイレンが外からうっすら聞こえてきてテンションがあがりました。ドキッっとする場面なので一瞬演出かと思いました。きっと大したことはないけれど一応呼んだ救急車とかだと思うんでグッジョブと素直に喜んでおきたいと思います。
こっちはこっちで迫力がすごい……。
ミラー夫人って1場面しか出て来なくて、戯曲で読んだ時は正直あんまり印象なかったんですけど、ミラー夫人が出てきて、ミラー夫人の価値観みたいなのが舞台上で明確になってくると、また違った方向から光が当たってくるような感じがしてめちゃくちゃ面白かったです。
たぶんそれまではどっちかというと聖職者、教育者サイド、というか、大きいくくりで言えば割と上の方の特別区域で生活しているような人たちの見方だけだった部分に、労働者とか主婦とかそういう反対側に近いような、現実ってものとの折り合いのつけ方を毎日身をもって痛感している側の、下方面からの見方が入ってくるような感覚がしました。
あと、衣裳!
言葉遣いも、フリン神父やシスターたちとは明らかに違っているのはもちろん、着ている服で、何となくの階級とかこれまでどんな生活だったのかとかを感じるのってすごいな、と思いました。当たり前のことと言えばそれまでなんですけど……。
シスター・ジェームズ、愛らしい、とか純粋、っていうのがぴったりな感じでした。
結構劇全体がバチバチしていて、シリアスな感じなんですけど、コミカル担当で親近感もある感じで、上の方にも書いたけど、1番感情移入しやすい登場人物です。
シスター・ジェームズがフリン神父に紅茶を注いでいるまさにその瞬間に、校長先生が当該の男子生徒について切り出すんですが、その瞬間に「ありえないだろ」というぐらいあからさまに震えだしていたりして、クスクス笑ってしまいました。(あとから確認したらト書きだったという。マジか)
あと、この2人のやり取り、たまにコントみたいだったり、お互い信頼してないとできないようなからかい含みのコミュニケーションが見えたりする瞬間もあったので、そこもかなり好きでした。
カトリック教会のヒエラルキー構造、完全男性優位社会の構造が見えるように書かれている戯曲なので、シスター同士のつながりが感じられると不利な女性たちvs有利な男性たちの対立構造がよりはっきりして、問題としてクリアに見えてくる、というか……。
それ以外にも、性的マイノリティに対しての理解のなさとか、BLMとか、あと家庭内における暴力とか、主題となっているキリスト教会での子供への性的虐待だけでなく、いろいろな現代にあてはまりまくる問題を含んでいる戯曲なので、15年以上前の戯曲とかマジで信じられません。
現状が15年前とほぼ変わってないってことだったりしないよね??
校長先生(シスター・アロイシス)も、初っ端からマクゴナガル先生かなというぐらい厳格な雰囲気なんですけど、所々お茶目だったり意外な過去とかがちらちら見えて、意外と嫌いになれないキャラクター……。
というか嫌いになっちゃったらこの話、単に頑固な校長先生が気に入らない若い上司をあれこれ理由つけてやめさせようとしている話になっちゃうので、観客が校長先生のことを嫌いになった段階で失敗になってしまうとは思うんですけど……。
男子は、砂利と煤とタールで出来ているのです。
って真面目な顔でシスター・ジェームズに言い放った時の、客席の湧き具合が特にヤバかったです。那須さん最高。
この2人だけのやり取り(外のベンチで座ってやり取りする部分)だけ見てると、別にフリン神父なんもしてないんじゃねえか、と思っちゃうんです。不思議。
たぶん、構造的に、フリン神父が、シスター・ジェームズ(観客が1番親近感を持っているであろう登場人物)を通して、観客自体を説得しにかかっている場面だからなのかな。
自分で書いててなんだけど、なにその構造。怖い。みんなあのいつもは元気でキラキラマックスなのに今日はしょんぼりしちゃってるみたいな人の好さそうな演技に騙されたらあかん。上手いから余計タチ悪いぞ!もっとやれ!!戯曲最高かよ!!
とは言いつつ、シスター・ジェームズを無事に説得し終わって、フリン神父もそのまますごすご落ち込んで帰れば観客も7割程度は説得しきれたんじゃないかと思うんですけど、この場面の最後、シスター・ジェームズが退場して、舞台に1人残されたときに、フリン神父がギャーギャー鳴いていたカラスに結構な声量でブチ切れてたんです。
えッなにこの人やっぱヤバい人なんじゃない??となってしまったという。
たぶんここもうちょい脱力した感じにやったり、うんざりしてる感全開でやってたら「根も葉もないことでギャーギャー言われる」のと「ギャーギャー鳴いてる烏」を重ね合わせて、ああ神父、疲れてんだろうなあ、ぐらいだったとは思うんですけど、如何せんそれまでシスター・ジェームズと比較的穏やかに話していた時とのテンションの落差がなかなかにヤバめ。精神状態の方を心配になるレベルでした。
おかげで、「フリン神父の説明、筋は通っているけど、なんか人としてヤバそう……」という印象は変わらず……。
やってそう→やってないかな→いやでもやっぱやってそうだな、と気持ちを乱されただけで終わりました。
私はそろそろメンタルを安定させてくれる役を演じている亀田さんが観たいです??不安になるのしか観たことないよ??
意外とフリン神父、演じる役者さんとか、プロダクションによって変わりそうだな、と思いました。面白いのでどんどん色んなとこで色んな人がやっているのが観たいです!!
あとこれはたぶん大変な数の同士の方がいると信じて書くんですが、この場面の冒頭で、フリン神父が「あれは何の鳥だろう?ムクドリ?九官鳥??」的なことを喋った時に『タージマハルの衛兵』(2019、新国立劇場小劇場)が頭をよぎった人は至急お知らせください。私、たぶん、とてもよきお友達になれると思います(⁉)
あと再放送はBS観られる方は観ましょう。というか全人類観ましょう。そして円盤化かあわよくば初演キャスト・スタッフでの再演に向けて働きかけよう。そうしよう。
最終的に、校長先生が「前にいた教会のシスターに聞いたらあなたには前歴があった」という内容のことを言うので、観客としては「もうこれフリン神父、アウトじゃね!?」みたいな感じにになるんですけれど、最後、フリン神父が栄転して出て行った後に、シスター・ジェームズとの場面で、それは校長先生によるフリン神父の反応を見るためのカマかけだったことが分かるんです。
観客としても「じゃあフリン神父があの時動揺したのは『そんなことまでしたのかこの人は!(そこまで疑われていたのか自分は!)』的な場合もあったということか……」となって、本当に、やったのかやってないのかについては真面目に分からないという……。
結果として退職願を出したんだから、私の考えは間違っていなかった、と校長先生はシスター・ジェームズに言うんですけれど、その後に「疑い」を感じる、と小さく漏らし(それを聞いたシスター・ジェームズは校長先生にそっと寄り添う)、白いハンカチに墨汁を垂らしたようにジワッと溶暗……。
いやこの時の照明の表現力な。劇中通して浮かび上がってきたり、自然光っぽかったりするときの照明えぐいぐらい綺麗だったけど……とか思っていたら照明の松本大介さん、読売演劇大賞受賞されてる~~!!ですよね!!
心のなかに疑いがジワッと、変化の前の不安として広がっていく感じがして、ここが1番好きでした。
自分の信念や正義に対して疑いを持つこと、そういうものに厳密な意味での絶対はあり得ないということ(もちろん広く人々の間に浸透していて、かつ求められるべき・求められなけらばならない正義はあるけれど)、そのような疑いをもつことはすごく不安で心細いこと、のような、たぶんこの作品の1番の核みたいな部分が、確信をもって突き進んできた校長先生のこの最後の弱弱しいつぶやき(自分の信じていたことに対する疑い)に凝縮されている感じがして(照明とシスター・ジェームズの寄り添いで、その不安や心細さが強調されて)、白黒はっきりつけたいし、相手のことを論破したいパーソンがいっぱいいる現代に対して、とんでもない切れ味の批評だなあ、と感動しました。
感動してちゃいけない気もするけど……。
あなたが確実だと感じていても、それは感情であって、事実ではないのです。
ってフリン神父の校長先生へのセリフがあるんですけれど、まさにこれ、という感じでした。
ただまあ行動しなきゃいけない時はあるし、というか今回の場合は、何故当該の男子生徒に「話したいことがあれば話して欲しいし、話したくないことは話さなくてもいい。ただあなたが今、もしも何かしらに辛い、おかしいと感じているのならならそれは恥ずかしいことではないし、私たちはあなたを守ることが1番の仕事なんだから、何があってもあなたの味方でいるし、守る用意はある」と、真っ先に話を聞かないんだ、という感じはありますけどね……。
なぜか劇中で一切出てこない生徒……。授業から抜け出すために自力で鼻血出すような生徒がいる学年なら、そのくらいのことは話せば通じるんじゃないか、と思うのは楽観的すぎますかね……。
というかまずはその生徒を家庭内暴力から救ってあげてくれよ……。
フリン神父が非常にキラキラうさんくさい(さっきマクゴナガル先生出したけど、フリン神父のうさんくささはロックハート先生とルーピン先生を3対7で混ぜた感じのうさんくささ=とにかくなんか裏にありそう)のはおいといて、説教の内容は結構身近に当てはまることとかあって、「え、こういう説教ならもっと聞きたいような……(だがしかしうさんくさい)」って感じで面白かったです。
それにしてもタージマハル案件(『タージマハルの衛兵』の初演の演出、翻訳、出演者の4人うち2人以上関わっていると勝手にそう呼ぶことにしている。勝手に。)にハズレなし説が濃厚になってきました。
『アンチポデス』はもちろんとったよ!
でもB席とったしばらくあとに、新国立劇場からA席はU25なら半額だよ!お得だよ!!今度の日曜に売るね!!ってメール来て、スマホなのに逆パカしそうになりました!!
すっごい楽しみです!!(やけくそ)
2021/12/05
世田谷パブリックシアター 13:00
去年観た演劇の感想を年度末までにまとめよう企画、あらため、
今年度観たやつは今年度中に感想書ききろう!
企画第1弾です。予定では第8弾までのはずです。
第3弾まで☟
あと、観てから軽く1~2ヶ月経ってるやつがほとんどです。
だから、なんとなくでしか覚えていないんですけど、一応書いてしまわないと個人的にモヤモヤしっぱなしなので、ちまちま書いていきます。
そういえば今度テレビ放送されるそうです。
あと戯曲は2022年1月号の悲劇喜劇に載ってますが、この間の岸田國士戯曲賞の際に、期間限定で無料公開されていたので、きっとこんなブログを読むような方なら全部読まれたことでしょう!!(よりによって山本卓卓『バナナの花は食べられる』を読み逃す大失態を犯した私とは違って……)
トレーラーの映像からも分かると思うんですけど、相変わらず照明が綺麗でした。栗山さん演出だと毎回「照明綺麗だなあ」と思っているので、たぶん照明の使い方が私のツボなんだと思います。
かなりどシリアスな話で、セリフがメインな劇だったんですけど、照明が控えめかつ効果的に支えている感じがして素敵でした。
舞台美術自体も、部分的な映像の使用とラストに大移動(海岸に出るため、それまで使っていたセットがほとんど舞台上からなくなる。舞台奥に向かって綺麗に上昇する形が崩れて不規則に凸凹するので、海岸感がすごかった!)する以外はかなりシンプルで、言葉だけで立ち上げていくぜ!感がすごかったです。
開演前から妙な緊張感があった……。
あと、映像と字幕の使用が、全体的に質感がザラザラして当時の報道!って感じで雰囲気が好きだったんですけど、それよりも「彼女」の死因として扼死の可能性を挙げる時に、舞台後方のスクリーンに赤い線が1本スッっと横に入るのはめちゃくちゃドキッとしました。
舞台全体が茶系とか濃い緑、黒、薄い青系とかの寒色メインで統一されてたから、ギャップで余計に……。
キャストがだいたい1人2役でした。
特に1960年/2021年の切り替えの軸になるのが吾郎/伊知哉なので、主演の瀬戸康史さんが冗談抜きに出ずっぱりでびっくりしました。ヤバくない……?
ちょっと似ているようで似ていない祖父と孫の演じ分け・切り替えがすごかったです。衣裳を変えている訳でもない(そんな暇はない)のに普通に別人に見えました。
照明が時代ごとに結構パチッと切り替わるのも大きかったとは思うんですけど、にしてもすごい。
同じ俳優さんが同じ衣裳で演じるので、祖父と孫の細かな印象の違いが、それぞれの背後にある時代の空気感としても伝わってきて、「これはとてもよい1人2役……!」と興奮してました。
年齢自体もどっちも30代前半ぐらいで、吾郎も伊知哉も変わらないんですが、吾郎の方がタフそうで気概があるというか、熱い感じの人だったのが、月並みなんですけど「時代かなあ…」という印象。
でも主演の1人2役が、色々な方面からあまりにも意味がハッキリしすぎていたので、そのほかの1人2役に対しても何かしらの意味を勘繰ってしまう部分がありました。
少なくとも私は意味を見つけることができなかったので、単に人数の問題かな、と思考放棄しました。
全員レベル高かったけど!木下晴香さん、台詞劇は初めてってほんとですかマジでやべえ……!!
でも渡邊圭祐さんが演じていた、松木(1960)と矢船(2021)は、姿勢という点では共通点があったような気も…。
「どうせがんばったって無駄なのになんでそんな頑張るんすか?」みたいな空気感というか。そんな感じ。わかりみしかないね…!まじそれな…!?
あと、年老いた松木が「そういえばあの事件の後しばらくして、吾郎さんに会った時に、吾郎さん、喧嘩してる人たちを見て『喧嘩できるだけいいなあ』って言ってたなあ」というようなことを喋っていたのが結構しんどかったです。
というか、大学に行くことも、友達と集まることもできない現役大学生からすると、1960年代の学生運動の熱はちょっといいな、とぶっちゃけ思います。
真剣になってもしょうがないのは分かっているんだけど、でも真剣になれることとか見つけて取り組んでいる人や時代は羨ましい、みたいなその感じめちゃくちゃ分かる…。
年老いた松木を演じていたのは吉見一豊さんで、そこに伊知哉(吾郎と1人2役)と矢船(渡邊さん。1960年の松木を演じてた)が会いに行くという状況になっていた!と記憶しているので、謎の空気がありました。正直この場面、観てて1番混乱した気がする。
でも若い時の松木を演じた人と、今年老いた松木が観客の目の前に出てくるのはかなり効果はあったような気もします。単純に、若い時の松木を演じた人が老いた松木が語るのをじっと聞いている構図になるので、時代の流れや老いることによって松木の内面がどういう風に影響を受けたのか、とかについて、観ていた時に結構ぐるぐる思いを巡らせた気がします。
あと劇中で「俺たちは知っちゃてるじゃないですか、負けちゃうって」って矢船のセリフがあったけど、ほんとそれなという感じ。
渡邊さん、初めて舞台で観たんですけど、醒めてて容量よさそうな感じが最高にハマってました。
コロナ、とか、オリンピック、とかいう単語が頻出する割には、登場人物がマスクをしている描写がなかったので、「まさかパラレルワールドの2021年日本なんだろうか……?」と最初の方で、謎に思ってしまいました。そんなことはなかった。
なんとなくの印象ではあるんですけど……。
吾郎と新聞記者主筆(上司だと思う)の辰巳大介(大鷹明良さん。迫力がやばい)が、共同宣言について口論するシーンが、割とこの戯曲のハイライトになっていて、えげつない迫力で展開していくんですが、まあどっかで聞いたようなことをお互いに言い合っているな……と思ってしまったというか……。
「マスコミは権力を監視する立場にあるべき」で、もしそうでないなら「この国の言論は死にます」、そしてやがては言葉が「暴力の道具になる」って吾郎は言うし、対する辰巳は「銀座の街から昨日、人は消えてたか」って、国会周辺に集まった学生たちだけが声を持っている訳じゃないことを指摘したり、そもそも「言葉」にはそこまでの力はないから「暴力」や武力行使で世界中の革命は成功してきた、けれど今の学生には革命を起こす「気概」もない、というようなことを言ったり、とにかく相いれない双方の主張を(特に吾郎の方が)どストレートに戦わせていて……。
正直どっちも一理あるとは思うんですけど、それよりも、どっちも本質的に言葉=暴力とは思っていないようだったのが、個人的な感覚としてズレてしまっていて、「一体この人たちは何について言い争っているんだろう…?というかお互いが現在進行形で相手に対して言葉で暴力ふるっていることに気が付いていないのか……???」ときょとんとしてしまったというのが正確な感じかもしれないです。
何かを書くとか何かを言うとか、とにかく言葉で何かを表現することは、同時にそれ以外のものを全部切り捨てる行為、取捨選択する行為なのでそもそもめちゃくちゃ暴力というか……。震災復興関係でそういう指摘(復興が進んでいるところもある、という「事実の一部」しか報道は伝えていない、的な)、劇中にもあったとは思う……。
あとこの場面にある「銀座の街から昨日、人は消えていたか」っていう辰巳のセリフはそういう(吾郎がその時取材対象とせず、切り捨てた人々にだって考えや生活や主張がある)ことだとは思うんだけど……。でも劇全体としては「当事者の声を伝える」ことがテーマにあがっている訳で、当事者以外を持ち出す点で辰巳の主張はどう考えたら……??というかどこからどこまでが当事者なんだ……??混乱……。
てか「言葉には力がないから~」的なことを喋っていた辰巳がGOサインを出したらしい「暴力を排し、議会主義を守れ」という「共同宣言」という言葉によって、学生側に事件の全責任を押し付けることに成功しちゃっているので、「いやめっちゃ力じゃん??」と突っ込んでしまったり…。
そういうことに気付かせるためのシーンだったんだろうか………。だとしたら大成功だけど、さすがに報道に関わる大人だったらその程度のことは自覚はしているのが普通なんじゃないか……?
とりあえずタイトルにある「彼女を笑う人」の代表格としての上司でした。あの迫力に立ち向かった吾郎、やばい。
「彼女」は舞台上には登場しません。あと一貫して「彼女」で、樺美智子という名前も(たしか)出てきません。
なんか、舞台でそういう風に抽象的に扱われると、大体の場合、存在感が反比例的に増大していくので、「彼女」が1つ大きな要素になっている劇としては、この表現、最高じゃん!と思いました。
でも現実にあるモノとしての実体を伴わない言葉(「スイバク、ハンタイ」のシュプレヒコールが「ただの音」になっていく、と誠子が劇中で喋ってたけど、まさにそんな感じの話)の力の話をしている面から見ると、劇中で使用される「彼女」という抽象的な言葉が強烈な存在感を増していくにつれて、舞台外のどこかにはいたはずの生身の「彼女(樺美智子)」からはどんどん乖離してしまっていってるのではないか、とめちゃくちゃに怖かったです。
別役実もどっか(たぶん『ベケットといじめ』)で、「これはリンゴではないかもしれない」ってリンゴをもった役者が舞台上で言うと、めちゃくちゃリンゴの存在感(言葉だけでは表現しきれない謎の存在感)が増す、的な事を言ってたような……。
たぶんそういう関連の舞台上の表現のあれこれだと思うんだけど……。
舞台美術と相まって、綺麗だったんですけど、舞台奥上方中央で「濡れてみたいんです」って言うセリフが、余りにも楽観的に軽くて、モヤモヤしてしまいました。そもそもあれを綺麗と思うのこそ、それこそ違う気がする……。
未来への自分へ。ちょっと現時点では上手く言えないので、図書館行って戯曲読んでください。2022年1月号の悲劇喜劇です。たぶんバックナンバーになって雑誌コーナーの奥にあると思うよ。1時間もあれば読み終わるからよろしくね。
そしてなんか素敵な感想書いてください。
そしてできれば私のモヤモヤを取り払ってください……!!(他力本願)
というわけで1つ消化。12月初めに観た劇の感想を今書くって不思議な気持ちです……。自業自得だけど……。