感想日記

演劇とかの感想を書きなぐってます。ネタバレはしまくってるのでぜひ気をつけてください。

2023年4月から10月までのNTLiveのちょっとした感想

タイトルまんまです。『るつぼ』ライフ・オブ・パイ『ベスト・オブ・エネミーズ』『善き人』『オセロー』(配信)の短い感想をまとめました。

 

 

 

『るつぼ』

シネ・リーブル池袋(4月15日、13時25分)

 

演出とかは結構オーソドックスで優等生的な感じ。加えて舞台美術は視覚的に美しかったのだけれど(ただなんで上から水が滝みたいに落ちてくるのかは結構謎)、戯曲がどうも嫌いな感じがする。アーサー・ミラーとどうしても仲良くなれない。もちろん赤狩り批判の芝居として大事な作品だと言うのは分かるのだが、なぜか全体を通して「若い女ってやっぱ怖え…」みたいなとこに話が縮んでいく感覚があって、「若い女」としては大変に不快。

 

そもそもアビゲイルという少女にプロクターという既婚者が手を出さなければ良かった話なのに、最終的にアビゲイルがなんかちょっと悪者ちっくに追放されて、プロクターは妙な聖性を帯びてかっこよく死んでいくのが解せない。アビゲイル自身、抑圧的なピューリタン社会の被害者なのに、そのアビゲイル、およびアビゲイルに同調する少女たちにのしかかるその抑圧を、批判的に眺めるような視点が戯曲に一切ないのも掘り下げが甘いと思う。あとプロクターの妻も、ものすごく薄っぺらい「良き妻」像として描かれるので、この辺はもうちょっと演出で補強してあげたほうがいいと感じた。今回、そこまでの積極的な補強は感じられなくて、なんだかとてもミソジニーな芝居だな、と率直に感じてしまい、ぜんぜん楽しめなかった。

 

なにより、アビゲイルを筆頭とする若い女性たちの実名顔出し告発をこういう風に扱ってしまっている芝居を、Me too運動とかが注目されている今やる意味が正直全然分からない。というかぶっちゃけ不愉快。なんでこの芝居今やろうと思ったんだろう…。

 

ライフ・オブ・パイ

@TOHOシネマズ日本橋(5月27日、11時40分)

 

パペットの技術は確かにすごいけど、原作(『パイの物語』で邦訳あり。弘前の図書館にもあるよ!)と全く違う話になっていた。もちろん話は同じなんだけれど、そこから立ち上がる主題が全く別になっているというか…。

NTLiveに関しては、演技とかを含めた技術面ですごいのは当たり前だと思っているので、パペットの操縦技術のすごさは特にプラス評価にはならなかった。

 

舞台の方は、とんでもない現実を経験したとき、そのトラウマを乗り越えるためには虚構の物語が人間にとって必要であり、創作の力というのはそういうところにある(だから演劇という創作も人類にとって有益である)、というありがちなところに縮んでいってしまっていたような印象がある。

 

それと比べて原作の方は(邦訳があるしハリー・ポッターシリーズ1冊分より全然短いからぜひ皆に読んで欲しいのだけれど)、なんていうか、ありきたりな言い方なんだけれど、もっと哲学的なところを主題として扱っていて、宗教とはなにか、「信じる」ということはどういうことなのか、この世界に対してどういう風に接していくべきなのか、というとこまで突っ込んだ内容になっている。

これを踏まえて舞台版を観ると(私は先に舞台版を観たのだけれど)、確かにスペクタクルではあるが、どうにも陳腐で普通なエンタメだな、という印象がぬぐえない。

 

そういえば、原作と舞台版で、主人公のパイの人物造形が全く異なるのも気になった。原作のパイは、父が動物園を経営していることから派生していった自身の特殊な経験を糧に、自分自身の力と知性でベンガルトラとの漂流生活を成し遂げていくように描かれている。要は、かなり賢く理知的な人物として描かれている。しかし舞台版では、いたずら心でトラの檻に侵入するような、良く言えば無邪気、悪く言えば馬鹿としか言いようのない感じで、トラとの漂流生活も、大切な人たちの幻想に頼ることでなんとかギリギリ命をつないでいくような、相当に危なっかしい印象があった。確かに特殊な経験と知識を持った聡い少年が、それを活用することでたくましく漂流生活を行うよりは、無邪気で幼い少年が、大切な人たちの幻に助けられながら漂流生活を行う方が、なんというかディズニー映画っぽいエモーショナルさで、たぶん大衆にウケるとは思う。ただそのために主人公の造形を大幅に変えてしまうのは、原作ファンに対する裏切りなんじゃないかと感じた。物語の主人公は確かに未熟で何にも出来ないところから成長していくのが、鑑賞者の自己投影を誘いやすい点で王道ではあるけれど、そういうのは大衆映画とかに任せておいても良かったのではないかと思う。

 

というわけで、舞台版を観られなかった人は舞台写真とかティーザーとかでパペットのすごさを実感したら、あとはくよくよせずに原作小説を読んだ方がいいと個人的には思う。少なくとも、私は舞台版を観た時にはエンタメだなとしか思えなかったけれど、原作小説を読んだ後は「神を信仰するのって日本だと悪いイメージがあるけれど、もしかしたらそんなことないのかもしれない」と少しだけ自分の考えが動かされるのを感じた(そしてこの物語全体は「神を信じたくなる話」として語られるので、作者の目論見は大成功ということになる)。実は鬱で活字が相当に読みづらい時期に読んだのだが、それでも頑張って読んで良かったと思える1冊だった。自信を持ってお勧めしたい。

 

『ベスト・オブ・エネミーズ』

シネ・リーブル池袋(9月9日、12時5分)

 

舞台は1968年アメリカ。大統領選挙前の共和党民主党大会に合わせて、視聴率最下位のABCは新しい政治討論番組を企画する。『ナショナル・レビュー』編集者であるウィリアム・F・バックリー(デイヴィッド・ヘアウッド)、民主党支持者でバイセクシャルのゴア・ウィダル(ザカリー・クリント)に白羽の矢が立ち、2人は毎晩カメラの前で舌戦を繰り広げていく…、という実際にあったことを基にした作品。

主演の2人へのインタビュー映像が幕間に流れたんだけど、話し方?アクセント?が全然違ってビビった。英語苦手民でも分かるくらい全然違った。たぶん2人そろって本人に話し方をめちゃくちゃに寄せたんだと思う。すごい。

 

アメリカのテレビ討論番組が今みたいなデマまみれのめちゃくちゃなものになったきっかけが、たぶんこの討論番組であった、ということをスリリングに描いていて面白い作品だとは思った(そしておそらく、こういう討論におけるヘイトのぶつけ合いみたいなエンタメ政治の終着点がトランプだったんだろうな、と感じた)。そしてその討論番組が残した、バックリーとウィダル2人へのどうしようもないダメージの大きさも結構意外だった。直接的な政治の話というよりは、この2点に重点がある作品だったと思う。

あとスーツのインテリエリートおじさんたちが、理性的に話し合いをするつもりが、何故かその知性を互いを罵倒し合うことに使い始めて、言葉によるガチの乱闘騒ぎになってしまった…みたいなのが好きな人なんかは、すごく刺さる作品なんじゃないかと思う。加えて時々ジェイムズ・ボールドウィン(サイラス・ロウ)が、こういう討論番組で1人の人間が1つの立場を代表することの弊害とか、その特権意識とかについて、鋭いコメントをさしはさみ、批評的視点というか、そういうエッジを効かせていたのも良かったと思う。

実は主演2人よりも、このボールドウィンが一番美味しい役なんじゃないかと思った。

 

なによりテレビのスタジオを意識したスタイリッシュな舞台美術と巧みかつスピーディーな舞台転換、またテレビカメラを意識したようなカメラワークが秀逸で、「収録」された演劇として観る面白さを高めていたように感じる。

 

ただ後半、もしテレビカメラがなかったらバックリーとウィダルの2人はどんな話をしていただろう、というif軸の話に入ってからは、愛だの恋だの信念だのの話に入っていき謎にエモくなるので、そこはちょっと好みではなかった。急にやおいの二次創作が始まった、という感じで、私はその切り替えにあまりついていけなかった。

でも、あとあとから考えてみると、政治的に対立していたハズの2人の間に、最後に(二次創作ではあるもの)ある種のエモーショナルなやり取りとそれによる和解が生じることは、「そういうことが起こり得ないであろう現在」に対する一種の願いなんだろうな、となんとなく感じた。そういう、思想面では対立してはいるものの、感情面では1人の人間として当たり前に尊重して話し合える、みたいなことが現実ではあんまり起こり得ないからこそ、トランプとその支持者によるあんなことが起きてしまったんだろうな、とぼんやり思った。

 

ただ、やっぱりこの最後のエモさ、好みではない。

 

『善き人』

シネ・リーブル池袋(10月20日、13時35分)

 

天下のデイヴィッド・テナント主演の舞台作品が2500円(3000円)で、しかも日本で観られるなんて…!とテンションアゲアゲで行ったら、席の異様な埋まり方とパンフレットの異様な速さでの売り切れ方にビビった。テナントさん人気を舐めてた…。

 

内容としては1933年から1941年くらいまでのドイツが舞台で、主人公は大学の研究者のジョン・ハルダー(デイヴィッド・テナント)。このハルダーのメモリー・プレイとして進むので時系列が直線的というよりはあっちゃこっちゃに飛ぶ印象があって、観ている観客としても、ぼんやりした記憶を断片的に思い出すような感覚にさせられる。加えて、ハルダー以外の登場人物は、ほぼエリオット・リーヴィーとシャロン・スモールが衣裳替えとかもせずとっかえひっかえ演じるので、余計に「あれ、いま誰が何の話をしてたんだっけかな…」と霧のかかった記憶を思い出しているような感覚にさせられる。この辺は観客への効果を考えるとかなり上手い演出だと思う。

あとリーヴィーが、ハルダーの友人でユダヤ人の医者であるモーリスを演じていたと思ったら、次の瞬間にはおそらくナチスの高官を演じているシーンが結構あった。抑圧する側とされる側の関係性になにか納得できるようなあれこれがあったわけではなく、舞台上でこんなふうにオセロみたいに切り替えれるようなそんな関係性しかなかったんだ、と感じてしまい(たぶん実際問題そうなので)、この役振りも上手いな、と感じた(元の戯曲は俳優十数名で演じる作品だったらしい)。

 

肝心の物語自体はそこまで複雑ではない。ハルダーにはたぶん認知症かなにかの母がいて、妻子もいたのに、指導学生と恋に落ちてしまい、おまけに同時期に著作がナチスに気に入られてしまう。そのままハルダーはどんどんナチスの仕事を任されるようになり、ユダヤ人虐殺へと深く関わっていく…というのが全体の内容。でも水晶の夜以前で舞台上で唯一写実的に描かれるナチスの蛮行が焚書だけなので、「ハルダーにとっては水晶の夜以前にナチスがやらかした一番のインパクトがあることが、焚書だけだったんだなあ(ハルダーは大学教授なので)」ということが明確に表されていたりなんかして、とにかく演出が上手い。

 

あとハルダーのメモリー・プレイとして進むのでとにかく刻むようにハルダーの独白やら傍白やらが入るのが特徴としてある。その中ですごく感動してしまった独白があって、「自分は基本的に恵まれている人間だから、その恵まれた状態を楽しんだり維持したりするのに忙しくて、ユダヤ人問題が真摯に取り組むべき問題だということは分かっていても、どうしても優先順位が低くなってしまう」とかなんとかいう独白。マジョリティ側の人間が陥りがちな「自分が幸せに暮らしていけることこそが、社会を善き社会にすることよりも重要なことなんだ」という間違った論理が前面に出ているセリフで(なんなら自分の幸せこそが、善き社会に繋がっている、と考えている節さえある)、「ああ~この考え方、間違ってはいるのだけれど同じマジョリティとして痛いほど分かる!」と共感してしまった。

私は強い人間ではないので、もし自分があの時代のドイツにいたら、ユダヤ人虐殺に積極的に関わるほどの地位にはいないと思うけれど(いま現在若い女性なので)、たぶん黙認はしていただろうな、という自信は正直ある。

こういうことを悪びれもせずに言い切ってしまえる人間は、そりゃああの時代にいたらユダヤ人虐殺へと関わっていくのが必然なわけで、少なくとも私はそう思っているから、ハルダーが幕切れ付近でナチスの制服を、まるで普通の制服のように着たことに特にショックを受けなかった(それまで舞台上にナチスの制服は一切出てこないので、たぶん演出意図としては観客にここである種のショックを与えたかったんだと思う)。

あと特にテナントさんのファンという訳でもないし…。

 

ところで、ハルダーには妙な病気みたいなのがある。人生のちょっとした局面みたいなところではいつもバンドの音楽が聞こえる、というものだ。たぶんこれは、ある種の現実逃避が精神病的に現れたものなんだと思う。これは作品通して何曲も現れてくるのだが、正直、最後の場面になるまで意味が分からない。

で、その最後、ハルダーがナチスの制服を着てアウシュビッツに着いた時にも、もちろん爆音で音楽がかかっているのだけれど、この時、舞台後方の壁が上がって、後ろから収容所の囚人服を着たバンド隊が演奏しているのが見えてくる。それを見たハルダーが「バンドは現実のものだったんだ…」と2回繰り返して幕、という形だった。この演出も上手いな…と思った(戯曲読んでないのでどこまでが演出なのかは知らないけれど)。

つまり、人生の局面で、気が付かないうちに押し込めたり、見ないようにしてきた不安とか抑圧みたいなものが、自分にだけ聞こえる音楽という精神病的なものとして現れていたのだけれど、そういう確かにあったはずなの見ないふりをしていた不安とか抑圧とかに対して、普通の善良な市民である主人公は、アウシュビッツの職に着くことになって(かなり引き返せないところまできて)、ようやく「現実」に存在するものだったんだ、ということに気が付いた、ということだと私は受け取った。

こういう、なんとなく気が付いていたくせに、引き返せないところまできて初めて「あれ?」と思うのも、「普通」の人、という感じで(まあ大学の先生ならもうちょっと頑張れよ、という気がしないでもないのだが)、「分かる!」とテンションが上がってしまった。

 

全体的に、別に今の価値観で判断すると超前衛的な戯曲というわけでもないと思うのだけれど(ちょっと時系列がごちゃごちゃしている程度。発表当時はもしかしたら珍しかったかもしれない)、その戯曲を彩る演出の手さばきが上手すぎて、観ている最中に「うまーい!!」とテンションが変な方向にあがってしまう作品だった。別にテンションがあがる内容ではないのだけれど…。

 

あとTwitterの方で教えていただいたポッドキャストを聞いて、演出家頭良すぎじゃね?????となったので興味ある方は是非どうぞ。自動翻訳がギリギリ仕事をしてるので英語できない私でもなんとなくは分かった。なので安心して聞こう。

youtu.be

 

本当に観ている間も観終わったあとも「演出上手い!!頭良すぎ!!いいね!!」がとまらない作品だった。あとテナント沼に落ちたらどうしよう…!とわくわくしながら観に行ったのだけれど、別に沼には落ちなかった。残念。

ただ、たぶん半年後に覚えているのはテナントさん演じるハルダーの執拗なカメラ目線だけだと思う、というくらいにはカメラ目線が多かったので、もうちょっと引きの絵で観たい場面あったな、頼むよNTLiveカメラ班、と思うには思った。でもまあテナントさんファンへの配慮かもしれないな、とも思ったからなんとも言えない。

 

『オセロー』

@家(YouTubeの無料配信、英語字幕)

 

英語字幕だったので以前に観た日本語での上演と読んだことある戯曲の記憶を頼りに雰囲気で乗り切って観た。のでたぶん解像度は低め。

 

演出自体は洗練されていてかっこよかったし、上手い演出だと思った。

特にあんまり観たことない演出としては、デズデモーナとエミリアシスターフッドみある演出。正直戯曲全体としては女性差別しまくりな作品なので、それに対抗する手段として頭いいなと感じた。

あとは白人のモブがチャーミングな扇動者であるイアーゴー(もちろん白人俳優)をはやし立てるような、現代でもよく見る政治的な構図を思い起こさせる演出とか、オセロー(黒人俳優)が転落していくさまをその白人のモブが楽しむように冷たく眺めている演出とかもあって、現代の排他的な政治状況と、人種差別と、あと先に挙げた女性差別の3点に演出意図をクリアに絞っている感じがして、よく戯曲をこんなにきれいにさばいたな、と上から目線で感心してしまった。

ただクリアに絞りすぎたせいか、オセローとイアーゴーの同性愛的なあれこれがごっそり抜け落ちてしまっていて、ここは好みが分かれるだろうな、と感じた。

あとこれも好みの問題になるんだとは思うんだけれど、イアーゴーを演じていた俳優(ポール・ヒルトン、たぶん51歳)が、たぶん私が観たことあるイアーゴーの中で最高齢で、イアーゴーってたしか27、8歳の設定(たしか戯曲にそう書いてたような…うろ覚えだけど)だったと思うので、オセローより年上に見えるだけで雰囲気変わるもんだなあとなんとなく感じた。なんというか、イアーゴーがオセローより年下かな、という風に見えると、イアーゴーがオセローを貶すのも憧れ混じりなのかな、という風に見えるのだけど、年上に見えると、純粋に年下の上司であるオセローをめたくそに貶しているだけに見えてしまって(もしかしたらそういう演出と演技だったのかもしれないけど)、ちょっとびっくりした。

 

しかしまあ、こんなに頭良く上手く演出されても、私の目にはやっぱり女性蔑視のものすごい昼ドラ感満載のくだらない話にしか見えず(たぶん戯曲自体が嫌い)、イアーゴーをめちゃくちゃ好きな俳優がやる、とかでない限り、しばらく『オセロー』はいいかな、と結構本気で思った。

 

今年もお世話になりました。来年もたまに更新するのでよろしくお願いします。

『オセロー』が公開された6月は東京にいなかったので「詰んだ…」と思ったんですが、あとから配信してくれて助かりました。これで今年のNTLiveは

 

monsa-sm.hatenablog.com

 

『レオポルトシュタット』『かもめ』☝も観ているのでコンプリートです!!

マジで休学中で半年以上実家のほうにいるのに、よく頑張ったと思います。偉いぞ自分。

 

正直NTLiveでやるような作品って私の好みからは外れているんじゃないかな…とここ最近思うことが多いんですけど、それでも色々観ると面白いのはあるし、なにより海外の舞台観られる貴重な機会を逃してたまるかという執念で観ています。

 

そんなわけで来年も(何やるか分かんないけど)NTLiveコンプリ目指して頑張ろうかと思います。

 

あと前の記事にも書いたけれど、生観劇を再開するのが来年2月なので、ブログの更新はそれ以降になります。とは言ってもこのブログ読んでる物好きな方は年内まだまだ観劇されると思うので、みなさんよいお年とよい観劇を~!!