2024年1月末から3月初めまで生で観た舞台のちょっとした感想
1年間休学してたんですが、4月から無事に復学することになりました。
また東京で頑張るぞー!の気持ちで実家でこのブログ書いてます。
あと3月末のNTLの『ディア・イングランド』を諦めて実家に帰って来てしまったので、アンコールとかをほのかに期待しています…!頼む…!
2024年1月
①東葛スポーツ『相続税¥102006200』
@ミニシアター1010(29日、14時)
初東葛スポーツ。去年の岸田國士戯曲賞で知った。私みたいな人結構いるんだろうなあ、と思った。
他作品は『パチンコ(上)』と『ユキコ』しか知らない。エッジというか風刺というか皮肉というか、なんかそういうのを思いっきり効かせたラップを(右翼の人から怒られそうな内容だなとは思ったんだけど、劇中のセリフ曰く別に怒られないどころか、下手な左翼よりは笑いのツボが合っていいらしい。そうなんだ)、センスの良いかわいい衣裳を着た演者がかっこよく歌っているので(長井短の歌が上手すぎてものすごくビビった)、もうそれだけで結構満足感がある上演だった。私生活切り売りスタイルは他作品と変わらなくて、他人の家のゴシップを覗いている面白さも他作品と似ていた。しかし結構内輪ネタが多くて新参者の私は半分も分かっていない気がする。
あと生で観て初めて気が付いたんだけれど、言葉の力を結構信じている作家なんだな、と感じた。劇中にも「言葉は力」ってセリフ、というか歌詞?があるし、そもそも「ラップ」という形式をとっているから当たり前と言えば当たり前なんだけれど…。
しかし言葉の力を真っ直ぐに信じているというよりは、「こんなとこでこんなこと言ってたってどうせ全世界には伝わんねえや」と、やや自虐めいた哀愁があるのが気にいっているポイントな気もするし、逆に表現としては「逃げ」の場所を予め用意しているという意味で弱い点のような気もする。チラシなんかの痕跡を残さない「やり逃げ」スタイルの上演形式もそうだし、ラップという形式もそうだけれど、どうもメインストリームからは見えづらいところで、気心の知れたメンバー同士で「抵抗」の歌を楽しんでいるような、そういう感覚がある。ただ実際歴史上のさまざまな「抵抗」の始まりってこんな感じなんだろうし、岸田國士戯曲賞も取って、私みたいな内輪以外の、物珍しさから観に来たようなライトな観客が入り始めたような時期なんだろうから、この辺の感覚はこれからどんどん変わっていくんじゃないかなあ、となんとなく感じた。
それにしても観た人なら分かると思うんだけど、開場中に流れている、「ピラミッドってダムに比べると金ばっかかかって役に立たないですよね」という内容の映像は何だったんだろう。舞台美術にもでかいピラミッドがあって、冒頭、そのピラミッドの中から演者が出てくるので、「演劇って、ピラミッドがダムに比べてそうであるように、金ばっかかかって役に立たないですよね」ということを言いたいのか?と勘繰ったけど、作者は『パチンコ(上)』で「税金対策の演劇」と言い切った前科があるので、「いや、作者の役には立ってるのでは…?」と思いながら観ていた。あと最後に相続税という税金を払うための札束(しかも5000万円分はマジの現ナマらしい。なんちゅうもんを舞台上に持ち込んでんだ!?と思った)が舞台中央にピラミッド型に詰みあがっていたので、「演劇って、ピラミッドがダムに比べてそうであるように金ばっかかかって役に立たないんですけど、税金対策には意外と役に立つんですよ」というジョークなのかな、と色々考えた。
にしたってなんでピラミッドである必要があるんだろう、という疑問は消えないけど。
2024年2月
①KAATカナガワ・ツアー・プロジェクト 第二弾『箱根山の美女と野獣』『三浦半島の人魚姫』
@KAAT神奈川芸術劇場 中スタジオ(11日、11時)
2本立ての上演。タイトルは『箱根山の美女と野獣』『三浦半島の人魚姫』の順なんだけど、上演順序は逆だったのでその辺どうなんだろう、と思った。細かいことだけど…。
『三浦半島の人魚姫』
「人魚を見たい」という欲望を持つ、ルリという女性が、色々なところを探しながらぐるぐる歩き回る。その道中で色んな場所や色んな伝承をめぐる、「ツアー」プロジェクトらしいドラマトゥルギーだった。
あと、作者が意図しているかはしらないけれど、結構クィアだな、と思った。まず「人魚を見たい」というルリの欲望が、相対的に奇妙なものとして描かれている。それに、人魚が、太宰治の作品の引用を通して、明確に「女性」としてイメージされている。また、(ルリが探していた目当ての人魚ではないが)ルリが旅の途中で遭遇する人魚を演じているのは女性俳優で、その人魚とルリの遭遇の場面は、いっそ官能的とすら表現できるようなダンスによって表現されている。以上のことから、ルリのこの、「人魚を見たい」という欲望の下地に、女性の同性愛的な要素を読み取ることは不可能ではないと思う。
一応、ルリは男性と結婚しているし、性的志向についてはおそらくマジョリティなのだとは思う。しかしおそらく、何らかのきっかけがあって、日々の生活の中から湧き上がるように「人魚が見たい」というクィアな欲望が発現したのではないのかな、となんとなく感じた。幕切れでルリとルリの夫は人魚を目撃するのだが、その後のルリは、夫がいささか戸惑うほどにスッキリしていることからも、そういうことがうかがえると思う。
あと、ルリとダンスを踊った人魚は、ルリに対して、「もっと新しいもの」「もっと見たことのないもの」を「見たいでしょう?」と半ば強迫的に語りかける(そして、ルリの夫から「それは海の底で退屈しているあなたの方でしょう?」と反論されてしまうのだけど)。これは演劇の観客一般にも言えることだな、と感じた。「新しいもの」「見たことないもの」を「見たい」と欲望すること自体、ルリの持った「人魚を見たい」というクィアな欲望と地続きなのではないか、と接続して考えることも可能なつくりにはなっていた。
しかしどちらにせよ、あくまでもマジョリティ側が抱くちょっとしたクィア寄りの欲望、という程度の描き方に留まる。こういう匂わせをするぐらいならきちんとクィアを真正面から描けよ、と思わないでもない。
でも2年連続で白輪園長が出てくるとは思わなかった。クソ笑った。
「神様的な人に嫁いだので意識改革を試みましたが…!?」みたいなタイトルの漫画でありそうな話だった。それの1巻を試し読みした感覚。つまらなくはないが、特に面白くもない。なんならオチもついていない。強いて言うなら柿崎麻莉子のヅカを思わせる男装がかっこいい。それぐらい。
あと結構激しめなDV描写があるので注意書きが必要だと思う。たぶん家族連れとか子供がメインのターゲット層のプロジェクトなんだろうし。その辺はしっかりして欲しいな、と思った。
②『テラヤマキャバレー』
@日生劇場(14日、12時)
死を目前にした寺山修司が、夢の中で脳内劇団員を使って、お迎えにきた「死」(演じているのが現役のヅカの人なので、『エリザベート』のトートのパロディだよな、と思った。あんまり笑えはしないけど)を感動させるための芝居を頑張って作る話。寺山は「死」が持っていた魔法のマッチで、近松門左衛門の時代と2024年のバレンタインデー(偶然にも私が観劇した日!)を観て回ったけど、最終的にきちんとした芝居を作るのは放棄して、脳内劇団員に対して「質問」をする(寺山修司はたしか飼ってた亀に「質問」と「答」という名前をつけていた)形の即興的な芝居を作り上げる。その後、死後の世界に旅立っていく、という感じの話だった。
デイヴィッド・ルヴォーの演出は全体的には蜷川幸雄風というか、そういうちょっとアングラっぽい雰囲気をうまくエンタメにしたような感じだった。あとはマッチとか、『田園に死す』の指のパネルとか、寺山修司が大好きだったボクシングとか、『身毒丸』のもう一度僕を妊娠してくださいセリフから始まる「母」の強い印象とかを上手く演出とかセリフに取り入れてあった。それに加えて、『カム・ダウン・モーゼ』『戦争は知らない』『時には母のない子のように』『明日のジョーのテーマ』みたいな寺山作詞の歌謡曲が劇中でバカスカ歌われるので、たしかに寺山修司風味みたいなものはふんだんにある上演だった。
しかし、上演それ自体のクオリティとはまた別の次元で、「寺山修司」とか「前衛」を期待して行ってしまうと、なんだか表層だけをなぞったようなパチモンに見えるのではないかな、と思った。歌謡曲の効果なのかなんなのか、全てがノスタルジアにラッピングされてしまい、セットの見た目の豪華さ、登場人物たちの見た目のアングラさ(ほぼ全員白塗り)とは反対に、なんだかとてもまろやかな味わいになってしまっている。
そもそも香取慎吾が演じている寺山修司がなんだか妙に小物、というか、まあ「かわいい」感じの造形になっているのも気にはなった。コーラをあおりながら、不機嫌なときは周りに当たり散らし、感情を特に隠しもしないような、なんかそんな造形だった。私は寺山修司を知らない世代なのでよく分からないけど、こんなに「かわいい」人だったのかな?(それを言い始めると、「死」から「感動させてくれ」と言われて素直に「死」を感動させるような芝居を書くために奮闘するような人かな?という、あれもある)という疑問は残るには残る。
ちなみにこの香取慎吾演じる寺山修司、全然訛ってなかったので同郷出身としてはキレかけた。でも香取慎吾以外の俳優はほとんど正しい日本語ミュージカルみたいな歌い方をするのに、香取慎吾だけはポップスの歌い方のままだったので、そこで結果的に差別化は見られた。ということで無理矢理納得はした。たぶん意図はしてないんだろうけど。
上手く言えないのだけれど、たとえば1幕幕切れに、伊礼彼方演じる大変エネルギッシュな蚊(この蚊は吸血をするのでメスで、この夢のキャバレーの1階に住んでいる。たしか寺山修司が2階に住んで母ハツも1階に住んでた時期がどっかにあったのでなんかその部分盛り込んだのかなと思う)を筆頭に、みんなが寺山修司に群がって乱闘(乱交)している場面がある。ここなんかはまさにこの上演でやっていることの縮図だな、と思った。「寺山修司」の、なんか美味しいとこだけ吸い取って、尖った部分はなんか良い感じにまろやかなエンタメにして、消費する。上演それ自体としてのクオリティはものすごく高いのに、この「まろやかなエンタメとして消費」されることをものすごく嫌っていそうな人のことを、「まろやかなエンタメとして消費」している罪悪感、みたいなものが観劇中終始付きまとって離れなかった。
劇の最後らへんに寺山修司が「現実に届くまで夢(劇作とか創作活動のこと)を見よう」と朗らかに客席に向かって言うのだけれど、寺山修司がやろうとしていた・やってたことというのは、日常の現実生活のなかに別の原則をもった劇をぶちこむことで、日常の現実原則に積極的に揺さぶりをかけ、それを遥か高みから見てニヤニヤする、という結構嫌味というかマッチョなインテリ仕草が含まれるものだということを、一応勉強していて知っている。だから、この「夢を見よう」というセリフの「受け入れやすい」「かわいらしさ」に、この上演の最終的なスタンスを見たような気がした。
あと台本を書いているのが池田亮なんだけど、せっかくドキュメントタッチというか、虚実綯い交ぜにしたような作風が売りの作家なのに、特にその良さが出ていなかったのもなんだかもったいないなあ、と感じた。こんなに豪華なメンバーを揃えたのなら腹くくって寺山修司の戯曲に総力あげて体当たりするか、池田亮の持ち味をもっと生かせるような設定の台本にすべきだったんじゃないかなと、素人的には思う。
しかしこの間観た演劇実験室◎万有引力の『盲人書簡』もなんかかっこいいエンタメになっていて、全然前衛じゃなかったので、このあたりの前衛的な作品の「前衛さ」を失わせずに上演するのってかなり難しいのかもしれない。
「寺山修司」というある種の呪いから切り離して考えればとてもクオリティの高い上演だったと思うし、なにより伊礼彼方演じる蚊が圧倒的だった。それは観られて素直に良かったと思う。ただしU25学生のチケットを後出ししたのはマジで許さない。先にA席買ってしまっていたU25学生は一体どうしろと。マジで差額の5000円返せよ。大金だぞこの野郎。
③名取事務所公演パレスチナ演劇上映シリーズ「占領の囚人たち」
@中越パルプ工業株式会社東京本社(17日、12時)
SNSのオススメを見て行ってきた。映像上映なので「生」ではないけど、一応会場に出向いて行ったし番外編ということで。2本立ての上映だった。
『Prisoners of Occupation 東京版』
不当に逮捕されたパレスチナの人が受ける取り調べという名の暴力について、イスラエルの作家エイナット・ヴァイツマンが書いた作品。それを日本の演出家が、日本の俳優とパレスチナの俳優を使って上演する、という結構複雑な構成になっていた。
記録媒体の持ち込みがおそらくできない、つまり「記憶」や「体験」としてしか残らない刑務所の内情を、同じく基本的には、「記憶」や「体験」としてしか残らない「演劇」というメディアで、ドキュメンタリー的に構築しなおす形をとっていた。思いがけず「演劇」の力、というかメディアとしての痛切さを感じる上演だった。
『I, Dareen T, in Tokyo』
パレスチナの詩人ダーリーン・タートゥールが、不当に逮捕されたり、性的暴行にあったりした苦難を、彼女を支援する友人のイスラエルの作家エイナット・ヴァイツマンが描いた話。主にダーリーンの体験、ダーリーンとエイナットの友情と創作活動を描きつつ、それを演じる日本人俳優で女性である「私」というやや俯瞰的な視点が入りこむ1人芝居だった。
背景も言葉も違う3人の女性たちが、そのうちの1人の女性俳優の身体を通じて連帯していくさまがありありと浮かび上がっていくのがとても良かった。あと『Prisoners of Occupation 東京版』(これは主に男性たちの話)と2本立てにすることで、こういう文脈でよく語られがちな「男たち」の抵抗の物語の隣に、たしかに「女たち」の抵抗も同時に存在しているんだ、ということが強調されていて、ここもとても良かったと思う。これは結構2本立てならではなのではないかな、と感じた。
ただ個人的に1番演劇的だな、と感じたのは、冒頭、白いヒジャブ(ダーリーンを表す)をかけられた椅子と、黒いジャケット(エイナットを表す)をかけられた椅子の後ろで、俳優がその椅子たちを指さしながら「こっちがダーリーン、こっちがエイナット、彼女たちは○○な人で~」と説明するところ。不在の椅子から彼女たちの確かな存在感を感じた。
あと、刑務所のトイレが汚くて使いたくない絶対無理、とか、犬のおしっこの匂いが護送車の中で充満して吐いた、とか「確かにそれは絶対に無理…!」となるような、逮捕とか拘束とかの大きな過酷さの前で見過ごされがちな、小さな過酷さに対する言及も多くて良かった。こういう話だと切り捨てられがちな部分だけど、やっぱりそうだよね…辛いよね…!と謎に深く頷いてしまった。
私はほぼなんもできないけれど、早く戦争と虐殺が終わってほしいな、と心から思う。
④ゆうめい『養生』
@ザ・スズナリ(18日、13時)
トイレ問題が解決できなくて決死の覚悟でしか行けなかったスズナリに、相互さんからのオススメ近隣トイレスポット情報のおかげでまあなんとか行けるようになった記念の観劇だった。
あと私はゆうめいの良き観客ではない自覚があるので(基本観ると「なんかよく分かんねえな…?」と何故かなる。今回も正直ちょっとなった)、以下盛大に意味を取り違えている可能性があることは一応太字で書いておく。
ただ局所的に好きなシーンとか筋とか登場人物がいることが多い。今回も観た人なら分かると思うんだけど新入社員の清水くんの拗らせ方良くなかったですか?絶対に関わりたくないタイプの人間すぎる。
舞台美術が結構特徴的な作品で、まず舞台後方に養生テープが滝?というか壁?のようになるように、舞台後方上から舞台前面にかけて何個もの養生テープが縦に並べて貼ってあった。観客はこの養生テープの壁の後ろを通って劇場内に入場する。舞台中央には脚立でできた奇妙なオブジェが飾ってある(このオブジェは、上演が始まると明らかになるのだけれど、主人公の橋本の卒業制作らしい)。
ゆうめいの作品を観るといつもあらすじ説明しにくいな、と思うんだけど(だから『テラヤマキャバレー』のあらすじはむしろいつもより分かりやすいし説明しやすいなとぶっちゃけ感じた)、とりあえずだいたい以下のような話。橋本という美大生が、画材代を稼ぐために百貨店の内装作業などを手掛ける深夜バイトを始めた。阿部という歌い手になる夢を持つ学生バイトとともにそこで働き、大学卒業に合わせて阿部と同時にそこの正社員になった。しばらく後に、橋本の美大時代の同期で人気作家になった佐伯の展示の内装とかを手掛けることになった。その作業を進めていたが、作業していた阿部はペットが死に、同じく作業中だった新入社員の清水はSNSで炎上し自宅がてんやわんや、橋本の元には佐伯の自殺というニュースが届いて作業場は混乱状態となる。清水は帰り、阿部は色々あってなぜか微妙に下手くそなアヴェ・マリアを作業場で熱唱したあと寝落ちする。またどこからともなくアヴェ・マリアが静かに流れ始めた作業場で、橋本が1人作業をし終えると、舞台奥に張り巡らされた養生テープの向こう側に、佐伯と思しき人影が現れ、橋本と手を振り合って幕、という感じだった。
正直メインの話自体は、それこそ美大とかではよくある成功コンプレックスの話というか、「何者か」になりたいコンプレックスの話で、そういう系の漫画で読んだ覚えのある感情がいろいろ展開されているな、という感じだった。ただ全編通して脚立とマネキン、養生テープという主な舞台美術たちが、ほとんど全くといっていいほど本来の使い方をされていないことと重なると、結構グッとくる感じがした。本来の使い方をされていないからといって他の使い方の可能性がないわけでもないし、むしろ美しく見えたりするように、本来望んでいた「何者か」になれる人生を歩んでも歩めなかったとしても、そこに可能性がないわけではない、という、綺麗ごとだけど大事だよね…と思ってしまう、なんかそんなメッセージがあるような気がした。それを踏まえたうえで、最後の「何者か」になった挙句に色々あって自殺してしまった佐伯と、「何者か」にはなれていない元美大生の橋本が手を振り合うという演出を観ると、すごくありきたりだけど、それぞれにそれぞれの辛さもあるし、幸せもあるんだろうな…となんとなく感じた。
⑤『う蝕』
@シアタートラム(20日、14時)
以下、読んでくださっている方への愚痴です。
まずは公式サイトからあらすじを引用します。
小さな漁村、沈丁花が見事に咲く瑞香院という神社、あとは海沿いのささやかな温泉があっただけのコノ島が、25年前のリゾート開発でおかしなデザインのホテルが建ったり、温泉施設ができたり、本土との定期連絡船が設定されたり、随分様変わりした。
そのことが直接関係あるわけではないだろうが、コノ島を「う蝕(しょく)」が襲い、島のあちこちを陥没させて、たくさんの人を飲み込んだ。
この地盤沈下のような現象を「う蝕」と言い出したのが誰なのかは不明だが、まるで虫歯がジワジワと侵食してくるように、地面にポッカリと穴を開けていく。
犠牲者の身元判明のために集められた歯科医師たちがいる。コノ島に移住して歯科医院を開業している根田(新納慎也)、本土からやってきたこだわりが強い歯科医師の加茂(近藤公園)、臨床実習で加茂に世話になったという木頭(坂東龍汰)の3人。彼らが歯科治療のカルテを使って、犠牲者の歯の状態と照合していく作業を進めていこうとしていた矢先に、2回目の「う蝕」がやってきた。遺体安置所や避難所までもが穴に沈む。またいつ次の「う蝕」にやられるかわからない危険性もあったので、コノ島に全島避難指示が出された。
まだ自分たちの仕事は終わっていないと、ここに留まることを選んだ歯科医師たち。そこに、役人の佐々木崎(相島一之)と、2度目の「う蝕」のニュースを聞いて居ても立ってもいられなくなった派手な出立ちの歯科医、剣持(綱啓永)が本土からコノ島に渡ってくる。
土砂を掘り起こす土木作業員が来てくれないことには、今、彼らにできる作業はなにもない。しかし、作業員たちは待てど暮らせどやってこない。現れたのは、思わせぶりに白衣をまとった久留米(正名僕蔵)という男。彼は言う。「この中に、ここにいるべきではない人間がまざっている」
どうですか。とある1つの状況に「侵入者」がやってくる、そんな不条理劇の典型パターンに読めませんか?しかもこの公式サイトの見出しには「横山拓也×瀬戸山美咲の強力タッグで立ち上がる、男性6名の実力派キャストが織り成す濃密な不条理劇」とあるんですよ。しかもしかも広報のチラシには「フランツ・カフカ、サミュエル・ベケット、別役実の作品に想を得た不条理劇です」とか書いてあるんですよ。これはもう期待するしかないじゃないですか。「濃密な不条理劇」とやらを。
災害と死者をめぐるハートフルミステリだったんですよ。
念のためもう一度書きますけど災害と死者をめぐるハートフルミステリだったんですよ。マジで。2024年3月号の悲劇喜劇に戯曲載ってるらしいんで興味ある人は読んでみてください。
あと公式サイトに書いてあるように、能登半島地震があって話のあらすじをガラッと変えたらしいんですけど、ぶっちゃけ普通に能登の地震を思い出しながら観ました。どこを変えたのか分からないし悲劇喜劇に載ってるのがどのバージョンなのか知りませんが…。てか主催がやらなきゃいけなかったのは、もうチケット買ってたけど能登半島地震を経て観に行くのをやめたくなった人に対する返金対応だったと普通に思います…。
とにかく観てない人は戯曲読んで確認して欲しいんです。あらすじを読むと完全に「侵入者」に見えたやつが、話が進んでいくと背後に「別の論理」を全く持っていなくて「既存の論理」で説明できるという、マジでただのミステリだったんですよ。それなのに不条理劇のお決まりのパターンに見えるように故意にあらすじを区切って公式サイトに掲載しているので、これはもはや詐欺では????は????????????????私の「不条理劇!」とわくわくしたピュアな思いを返せ???????????????
あと、沈丁花を舞台上でいじる度に「シャララララン☆彡」と効果音鳴らすのマジでなんなんですか?????笑えねえよ??????????戯曲読む人はぜひ沈丁花が出てくる度に頭の中で「シャララララン☆彡」ってちゃんとかわいい~効果音♡♡つけてくださいね。それが上演に近い形なので。
以上、愚痴でした。
「不条理劇」って触れ込みじゃなかったらさすがにここまでボロクソに言いません。
⑥音楽劇『不思議な国のエロス』~アリストパネス「女の平和」より
@新国立劇場小劇場(22日、14時)
口コミが良かったので観に行った作品。
寺山修司がこんな面白い翻案を書いていたのを知らなかったのでかなり面白く観た。
観終わったあとに戯曲を確認したら結構戯曲に忠実な演出で驚いた。ただ、女のコロスと男のコロスが掛け合う(『女の平和』にもある)部分の演出で、その部分が全てラップになっていたのが相当にかっこよかった。現代風にするのに適切な演出だと感じた。衣裳もかわいかったし、ミュージシャンがほとんど1人でやっていた生演奏もかっこよかった。ただ、大きな布で俳優とかを隠したりする演出が結構頻繁にあったのだけれど、この布の演出に関してはいまいち何を意図してるのかを掴みかねることが多かった気がする。
とにかく『女の平和』の翻案としてそもそもの戯曲ががまずかなり面白い。性的マイノリティと思しき登場人物なんかもちょっとだけど登場していて、原作の男女二元論的な世界観ともバランスをとろうとしたのが分かる。あとクロ―エとアイアスの2人の恋人(婚約者)のエピソードが寺山修司が主に創作した部分なんだけれど、その2人を起点としたラストへの持っていき方というか、「『平和』もまた『戦争』同様、マジョリティや権力による集団的な営みである」という見方を提示するあたりなんかが「寺山修司だなあ!」と何となく感じた。最後、みんなが「平和」への歌を軍歌みたいに歌い上げる中、「平和」のための犠牲になったアイアスを思い、狂気しながら群衆の中に1人で立つクローネがかなり印象的だった。
それとこれを観る前に、寺山修司っぽさをとにかく拾い集めて演出に盛り込んだ『テラヤマキャバレー』を観ていたのでそのせいかもしれないんだけど、全体的な演出の印象としては「寺山修司っぽさはあまりないな」という感じだった。でも寺山修司の作品を上演するときに、変に寺山修司っぽさの表面をなぞってとっ散らかった印象になるよりは、普通にセンス良く戯曲に沿って上演していた今回のような上演の方が好みかもしれない。まあ寺山修司の作品自体がもはや古典化しているフシがあるので、どうせ上演するのならひとひねり加えて欲しかったような気がしないでもないけれど…(しかし寺山修司の作品にひとひねり加えるのはたぶん至難の業な気がする)。
あと社会情勢的に、(ラストに寺山修司によるひねりが加えられているとはいえ)「反戦」のメッセージを持つ『女の平和』の翻案が、新国立劇場で上演された意味は結構あるんじゃないかと思う。口コミを信じて観に行って良かった。あと年齢割チケットがあって本当に良かった(正規で買うと8800円とかなり高額…)。
⑦ワールド・シアター・ラボ2024『家族の配列』
@上野ストアハウス(24日、14時)
シスターフッドを描きたかったのは分かるんだけど、それを下支えするドラマ自体が薄くて単純に面白くなかった。「で?」というか、ぶっちゃけ「わざわざ台湾から持ってきた作品がこんなもんかよ」というか、なんかそんな感想を抱いてしまう作品だった。
あとトランス女性が登場するのだけど、性別適合手術において男性器を「切る/切らない」こととカラオケの曲を「切る/切らない」ことを引っかけて笑いを狙うシーンがあり(そして実際に劇場では笑いが起きていたのだけれど)、「あっ、そういう部分で笑いを狙っちゃうんだ…」と正直ドン引きしてしまった。
この作品があまりに面白くなさすぎて、次の日に観に行く予定だった『原宿ガールズ』をキャンセルしてしまった。この2本ともう1本収録された戯曲集が無料配布されたので、家で『原宿ガールズ』も読んだのだが、なんとなく「若い女性の相対的貧困とか夜職への従事に関しては日本でかなり解像度が高い作品があるので、わざわざ海外のトンチキジャパンな作品をやらんでもいいのに…」というのがぶっちゃけた感想だった。どちらかというともう1本収録されていた『囚われの本質』の方が好きだった。ガザやウクライナの戦争にも関わるような感じで、こっちの方を上演した方が良かったのでは…?と素人ながら感じた。
2024年3月
①Ate9ダンスカンパニー『EXHIBIT B』『calling glenn』
@世田谷パブリックシアター(2日、15時)
2本立ての上演。イラン系アメリカ人作家のDJオミット・ワリザデとのコラボレーション作品の『EXHBIT B』と、グラミー賞受賞ドラマーのグレン・コッチェの生演奏による『calling glenn』。
なおバットシェバ舞踊団出身のダニエル・アガミが振り付けと構成と演出。きちんと当日パンフレットには虐殺と戦争に反対する内容の声明が掲載されていた。
頼むからそういうメッセージは公式サイトにも明記してくれ。その方が安心して買えるから。
2本とも、何か特定の感情が伝わってくるというよりは、ひたすらに動くダンサーの身体の激しさと疲労がひしひしと伝わってくるような作品だった、となんとなく思う。
『EXHBIT B』
物理的な身体と身体の衝突が激しかった気がする。あとは、倒れたダンサーたちをひたすら袖に引きずっていくシーンと、向かい合う2人の男が互いの服を交換した後に激しく取っ組み合うシーンが印象に残った。全体的には(コンテンポラリーダンスを鑑賞するときいつもそうなるのだが)よく分からなかった。でも人と人との対立みたいなのは執拗に描かれていた気がする。
しかし正直、本編のパフォーマンスよりも、開場中に行われていたプレ・パフォーマンスの方が好みだった。強張った身体でバイオリンを弾き続ける人、花でひたすら他人の身体を飾る人、花でひたすら身体を飾られる人、何かを必死に食べている人、風船で音を出して遊んでいる人、ラジコンカーを動かしている人、ラジコンカーを動かしている人にちょっかいを出す人…などなど。ダンサーが入れ代わり立ち代わりそれらの行為を繰り返していて、かなり観ていて面白かった。
『calling glenn』
ダンスが吹っ飛ぶぐらいグレン・コッチェの生演奏がかっこよかったことしか覚えていない。もうドラムがヤバすぎる。異次元。床とスティックだけで演奏するシーンもあって爆イケ。もう無理。かっこよすぎる。
②紙カンパニーproject オープンアトリエ
@中野 水性(3日)
でっちあげの政治家・中田博打の、でっちあげの選挙のための、でっちあげの政治事務所。中では中田博打の選挙演説の映像がプロジェクターで投影されていて、それを観ることができる。裏金とか汚職問題に言及しながら「私が当選したあかつきには、区民パーティーを開きます。パーティー券は1枚5万円です」とか言ってて、ちゃんとやべえ政治家だった。あとなぜか演説の要所要所に赤ちゃんの泣き声が入る。謎。
マジで普通の政治事務所です、みたいな顔して商店街にぽつんとあるので、全然知らない人が見たらたぶんガチで政治事務所に見えたと思う。中で椅子に座って演説の映像を観てた時も、外を歩く人から「あいつは何をしているんだ?」みたいな感じでジロジロ見られて大変に居心地が悪かった。
あと何から何まで全部でっちあげなのに、やっぱり謎のリアリティがあって、この団体のやることは相変わらず変だけど面白いなと感じた。
③ナスタラン・ラザヴィ・ホラーサーニ『Songs for no oneー誰のためでもない歌』
@ゲーテ・インスティテュート東京(3日、14時半)
ゲーテ・インスティテュート東京…ドイツかあ…というためらいは正直あったんだけど、まあ私1人がボイコットしてもな…しかも会場なだけだしな…という意識低めな態度でとりあえず観に行った。そしたら先輩がなんか働いててびっくりした。イギリスに留学しているもう1人の先輩も元気らしいという情報と、どうも来年度は院の新入生がいないらしい(もしかして修士1年生が私だけかもしれない?)という恐怖の情報を手に入れた。
上演の内容としては、6歳の頃にイランからオランダに亡命した作者が、イランに住む少女と少年それぞれ1人ずつに行った電話インタビュー(インタビューというより会話と表現する方が適切かもしれない)をもとに構成された感じだった。
電話インタビューという匿名性と私的性質が高いメディアで行われたことを、演劇という公的に開かれたメディアで構築しなおしているので、割ときちんとしたドキュメンタリー演劇だな、と思った。少年と少女は名前すら明らかにならず、録音された声のみの出演だったけれど、ちゃんとカーテンコールで存在を明示されていたのが、彼と彼女に対する作家の敬意を感じて良かった。
字幕の演出も結構凝っていた。たしかペルシア語での上演だったはずで、最初インタビューの音声だけが流れていて、主に公演を観に来ていると思われる日本語話者と英語話者には何がなんだかよく分からない。その状態でパフォーマーが、透明なアクリル板を白いペンキで塗りつぶすことによって、初めてマッピングされた日本語と英語の字幕が出てくる、という形だった。「塗りつぶす」ことで観客に対して意味が通じるようになるのは、なんだかイランで日常的に行われている検閲を逆手にとったような演出だな、と感じた。
なおパフォーマーはピンクの半袖を着ていて、上演中に露出している肌の部分をピンク色のペンキで塗っていくのだけれど、これもイランにおける、映画とかでよくある検閲のパロディらしいことがインタビューの会話から分かる。
最後に「DONT BE SAD」とマッピングされた字幕が、まるで検閲されていくみたいに消えていくのを観て、安全と自由が保障されている国でこの作品を観て、いったい私たちは何ができるんだろう、あまりに無力ではないか…、と少し落ち込んでしまった。こういう、なんというか、不自由な国とか状況にある人々が、それでも「私たち」が持つような自由を望む、強く「正しく」明るい声を持っていることを知ると、なんだか「私たち」は謎に感動してしまうのはしてしまうのだけれど、これって割と上から目線の感動というか、マジ特権仕草だよな…という落ち込みというか…。上手く言えているか分からないんだけど…。難しい…。まあ私が自意識過剰なだけかもしれないが…。
④アピチャッポン・ウィーラセタクン『太陽との対話(VR)』
@日本科学未来館1F 企画展示ゾーンb(8日、13時)
第1部の上映と第2部のVRに分かれた構成だった。
第1部は、第1部を鑑賞している観客には見えない何かを観ている第2部のVRの観客がうろうろしているのをよけながら、展示場の中央にあるパネルの両側に映された映像を鑑賞する形。どこかの街やその街の人々、ただひたすら眠る人々の映像なんかが映っている。会場内に響く、ごおおおおおん、という重低音が、滝の音のようにも地鳴りのようにも聞こえた。
第2部はいよいよVRゴーグルをつけての鑑賞。最初はなんかデカい洞窟みたいなとこにいる。ペニスがバカデカいクソデカ石像(たぶん当日パンフに書かれているアンデスの像かな。冥界の住人で豊饒さを象徴する死者らしい)なんかがおいてあってなんかちょっと神聖な感じ。突然床の下から太陽みたいな光の玉が現れる。あと上から太陽みたいな光の玉が分裂して降ってきたりする。ちなみにVRゴーグルをつけている他の鑑賞者は光の玉となって見えているため、この太陽の光の玉と区別が難しかった。鑑賞者の小さな光の玉が太陽の大きな光の玉に吸い込まれていくように観える瞬間もあった。
あと光の玉と一緒に石も降ってきてビビった。頭の上に石が降って来て、VRだから当然なんだけど私の身体をすり抜けていった。その時とか、あと洞窟の岩を無視して歩いて、その岩が足をすり抜けた時とか、なんかもやっとした変な感覚になったのが面白かった。人間の脳ミソは視覚情報に頼りすぎだな、と改めて実感した。
そんなこんなしてたら次第に地面が傾いてきて、VR鑑賞者は「浮き出す」。なんとなく魂になって成仏するときってこんな感じかな、と思った。遥か底にクソデカペニス石像が見えた。なぜか浮いていく途中の岩壁のちょっと突き出したところには謎の全身黒い人間が座っていた。頭上では相変わらずバカデカい太陽から光の玉が分裂し続けている。黒点がどんどん大きくなって太陽を飲み込んでいくようにも観える。地鳴りのような腹に響く音は相変わらず続いていて、遠くにかすかに坂本龍一のピアノ音楽が聞こえた。なんでか知らないけど、分裂し続ける太陽の玉と、それと区別がつかないVR鑑賞者の光の玉がめいっぱいに広がった、宇宙みたいなだだっ広い空間に、ひとりぽっちで浮いているような感覚になった。「エゴが消失するハイの瞬間」という言葉を聞いたことがあるけど、まさにそんな感じだった。死んだときにこんな感じにふわふわ宇宙に飛び出ていくなら、それはそれでありかもしれない、と思った。
あと全部は見えない両面スクリーンの映像、VRをつけて第1部の観客からは見えないものを観る第2部の観客、第2部の観客からは存在すら見えない第1部の観客(VRゴーグルをつけていると、同じくVRゴーグルをつけた人は光の玉として視認できるが、ゴーグルをつけていない第1部の観客は視認できない)、スクリーン上で「眠る」人々と、字幕で出てくる「盲目」「見えないふり」という言葉の羅列、などなど、なんだか「見えること」と「見えないこと」に対しても多層的な表象が積み重なっていて面白かった。
しかしVRゴーグルが地面に直置きしてあり、また前の人が使ったあとに除菌など何もしないまま装着しなければならなかったのが、潔癖症として本当に辛かった。せめて地面に直置きだけはやめてほしかった。椅子とかなんかあっただろ。ほんとに。
ちなみに初VRでした。バスで本読めるぐらいの人間なので特に酔ったりはしなかったです。しかし新幹線は新幹線の匂いで酔うので、VRに嗅覚のなんかがついたら酔うかも…。
⑤Q/市原佐都子『弱法師』
@スパイラルホール(9日、13時)
俊徳丸伝説ものは、一応能の『弱法師』、人形浄瑠璃の『摂州合邦辻』、三島由紀夫の『弱法師』、寺山修司と岸田理生の『身毒丸』あたりを、うろ覚えながら全部読んだり観たりしたことがあった(読んだことないが、折口信夫の小説もあるらしい)。今回の上演にも、分かりやすいので言えばたとえば、三島由紀夫の『弱法師』の有名なセリフ、「僕ってね、どうしてだか誰からも愛されるんだよ」、が引用されていたりしたので、私が気が付かないだけで、他作品からの引用とか影響がいっぱい隠されているのではないかな、と感じた。
上演のスタイルとしては、かなり人形浄瑠璃に近かった。全裸風のタイツを着て顔出しした俳優が、1人1体ずつ、全身を使いながらラブドールや交通誘導人形などを動かす。音楽は西原鶴真による、主に薩摩琵琶を用いた演奏。ただ電子音楽じみた音楽の時もあったし、初音ミクの歌声みたいなのも聞こえたし、なにより劇後半で西原自身が何故か爆音のなかバリカンで頭を剃っていたので、マジで「主に」薩摩琵琶だけど、それ以外のことも結構している、みたいな感じ。あとは、原サチコ(原宿系というか姫系というかなんかそんな感じで「お人形さん」みたいなかわいい衣裳を着ている)による義太夫語りで劇は進行していく形だった。
全体を通したテーマとしては「人間」と「人形」の境界の攪乱、それに伴って「生きていること」と「生きていないこと」の境界の攪乱、というのを感じた。
構成としては大体以下のような感じ。
第1部。なんとなく『摂州合邦辻』と『身毒丸』っぽいな、と思った。交通誘導員で毎日の仕事を「自分は人形だから」と自身に言い聞かせて耐える父と、おそらく専業主婦の母の間に、念願の美しい息子が生まれるが、母はほどなく死ぬ。父が継母を連れてくる。その継母が息子に性的虐待加えているところ(三島のセリフが引用されるのはこの性的虐待のシーン。もちろん息子が継母に向かって言いはなつ)を父が目撃する。継母は息子の顔面及び眼球をめちゃくちゃに潰し、混乱のなか父は窓から落下し足を悪くする。
幕間。原サチコによるドイツ語での歌唱がメイン。「生きている人間そっくりなのに生きていない」「呪われた人形」などの歌詞が並ぶ。背後にはプロジェクションマッピングによって、父が100均で息子に買い与え、息子がその手足をもぎ取ったエミー人形が何十体もうごめいている。初音ミクの歌唱のような声が聞こえるのはこの幕間のラスト。
第2部。途中までは能の『弱法師』っぽい。ゴミ捨て場に捨てられた盲目の息子は、奇妙な(性的)マッサージ店で働くことになる。そこで働く人(形)たちはお客さんからマッサージのお代として、ペニスや唇などの身体のパーツの一部分をもらえる。店員たちはそれを用いて自分自身の身体を改造することによって、それまで自分を縛っていたしがらみからの解放を目指しているらしい。そのマッサージ店に足を悪くした父が偶然訪れ、息子と知らずに息子を指名する。息子はお代として父の心臓を抉り出す。父も、息子が首から下げている手足のもげたエミー人形を見て、自らの息子であることを知る。息子を買春してしまった後悔から父は首吊りをはかるが、父は「人形」なので死ねない。マッサージ店の店員の人形からは「自殺するなんて人形浄瑠璃の人形かよ(笑)」という皮肉が飛ぶ。息子は息子で、父から心臓を貰って「人間になれた!」とテンション爆上がりの舞を披露するが(ここはまさに能の『弱法師』の「夕日が見えた!」の狂いに相当する。なおバリカンのパフォーマンスはこの辺で行われた)、能の『弱法師』同様に結局勘違いだったことが分かる。「生きるのも死ぬのも結局は人形遊びにすぎない」という義太夫のセリフ。最後首だけになった息子が上手に、首を吊った父が下手にいる状態で定式幕がおり、息子の首から「ハロー!生きてるよ!キャハハ!」というセリフが流れて終わりだった。
登場人物たちは皆人形なのだけれど、人間らしく生きていこうとしたり、人間として生きている自覚を持ったセリフが散りばめられたりしていて、ぬいぐるみとお話しできる派の人間としては「そうだよなあ」という印象だった。生き生きとした人形とは対照的に、まるで「人形」のように無感情のまま、人形たちを背後で動かす「人間」である俳優たちとの対比も面白かった。ただ、人間として生きている自覚を持ったセリフが発せられた直後に、まさに「生きていない人形」であるがゆえの表象(たとえば、人間だったら死ぬ場面で死ななかったり)だったりセリフだったりが絶えず現れていた。加えて人形なのに人形を買ってもらったり、人間の自覚があるのに人間(俳優)に操られてしか動けなかったり、なんだかマトリョーシカみたいに「人間」と「人形」が登場人物たちの表層に代わる代わる出てくる。最初にも書いたけど、「人間」と「人形」の境界の攪乱、それに伴って「生きていること」と「生きていないこと」の境界の攪乱、というのを全体のテーマとして感じた。
あと、人形を愛するということと、人形を恐れるということのあわいが、この「人形の境界侵犯性」にあると思うので、人形を愛せる観客と、人形を恐れる観客とでは、大分違った印象を持つ上演なのではないかな、と思った。端的に言えば、人形を恐れる観客的には、この上演、かなり怖かったのではないかな、と想像する。個人的には、「人形だってこういう風に生きているよなあ!そうだよなあ!」とエンパワメントされる芝居だったのだけど…。
また、人間として生きているような自覚を持っている人形でも、舞台上での最終的な扱いは徹底して「捨て去ることのできる人形」であるのが、結構グロテスクだな、と感じた。本当の「人形」だったらもしかして無言で受け入れて許してくれるのかもしれないが、それが本当の「人間」だったらどうだろう。もしかしなくてもそういう扱いを無意識のうちに生きている「人間」にしたことがあるのではないか?と「人間」と「人形」が攪乱されるなかでちょっと考え込んでしまった。
あと、これは内容に全然関係ないんだけど、相互さんと偶然にもお会いできてすごく楽しかった。しかも学生ということでお茶までごちそうになってしまった。ありがとうございます。1カ月以上まともに人と話してなかったため余計に嬉しくて、ちょっと舞い上がってしまった自覚があって、ちょっと反省している。
復学したらまた頑張るぞ!
たぶんなんですけど、色々あって、演劇観る本数も2年前までよりはちょっと減るかな(もともと演劇学んでいる割には少ない方ですが)、と思います。
感想ブログは今まで通り気まぐれに更新していくつもりです。