感想日記

演劇とかの感想を書きなぐってます。ネタバレはしまくってるのでぜひ気をつけてください。

8月に観た『桜の園』と『エブリ・ブリリアント・シング ~ありとあらゆるステキなこと~』のちょっとした感想

タイトルまんまです。最近は、先生にせかされた卒論の要約(なんか知らんけどあとあと履歴書に書けるらしい)が一発OKが出て良かったな、ぐらいで特に変わりはありません。あと『呪術廻戦』にどっぷりハマっているくらい。推しはパンダと東堂と高田ちゃん。真希さんも好き。

 

というわけで以下感想です。8月東京に行ったのは部屋を整えるのがメインの目的だったので、2つしか観られませんでした。

 

 

①『桜の園

PARCO劇場(10日、13時)

 

戯曲を読んだ時から「何この戯曲、登場人物にイライラする」と思ったのだけど、上演を観ても途中で帰りたくなるぐらいイライラするだけで、あんまり面白さが分からなかった。

 

登場人物にイライラするのは一旦脇に置いておくとして、いたずらに過去に縋りつく人物としてのラネーフスカヤとガーエフ、現在を象徴する(現在しか有効でない解決策を示すため*1)人物としてのロパーヒン、新しい未来への希望としてのアーニャとトロフィーモフ、という構造は分かる。

そして会話のキャッチボールを試みているのが現在を担うロパーヒンだけで、あとは登場人物全員ピッチングマシンみたいな喋り方*2しかしていないのも、見ようによっては面白いのは分かる。過去と未来を担う人物たちが一方的にふわふわとした主張を繰り広げるだけで、現在の問題(ロパーヒンの提案や問いかけ)にはまるで目を向けない様子なんかは、例えば現在の日本の政治状況なんかと照らし合わせて演出したりなんかしたら、それこそ抱腹絶倒ものだと思う。

 

ただなぜかこのプロダクションで強調されていたのはラネーフスカヤの子供の死だった。これはサイモン・スティーブンスによる翻案からそうなっているらしい。

www.theguardian.com

 

演出も翻案に従って、子供の死の話題が出る時は不穏な音楽を流したり…ということをやたらにしていて妙にセンチメンタルになっていた。たしかに子供の死は戯曲全体にわたってちょいちょい言及されるし、主にラネーフスカヤに大きな傷を残してはいるとは思うのだけれど、1つの上演を通してそのことばかりを強調し続ける意味が分からず、ただただセンチメンタルな感じになっていて、そこが本当に気に食わなかった。さっきも書いたように桜の園はもっと「政治的」に面白くできる作品のはずなのだ。それがあんまり意識されていないように見えたのが本当に好みじゃなくて、私の中での低評価の大きな原因になっているような気がする。

あとその子供を象徴するものとして、子供用?の三輪車があったのだけれど、クマの被り物をしたままその三輪車漕いでた俳優がすごかった。なんであんなに三輪車漕ぐの上手いわけ?

 

それと現代風に演出しているのはいいとは思うんだけれど、それならまず翻訳の口調を現代風にしろよ、と思ってしまった。翻訳翻訳している口調(特に女性の登場人物が)だったし、俳優たちもそれに合わせて新劇みたいにハキハキ叫ぶしで、なんだかなあ、とゲンナリしてしまった。あとガーエフの演説の時とかにマイクを使う演出はなんの意味があったのかさっぱり分からない。

 

上下する箱みたいな舞台美術に関しては、古く美しい思い出をそのまま箱の中に密封するってことかな(安易な考えだな)、と思ったのと、こういう天井が上下するタイプの舞台美術最近本当に海外モノでよく見るな、と思った以外特に感想はない。ただラストのフィールスの場面で、米津玄師のLemonの着信音鳴らしたやつは、村井國夫に誠心誠意土下座して謝罪すればいいと思う。

 

まあ、天野はなが演じていたメイドのドゥニャーシャのキャピキャピっぷりと、川上友里演じる家庭教師の不気味さは半端なく良かったと思うので、そこは観られて良かったかな、とうっすら思う。あとアーニャ(川島海荷)の顔がとにかくかわいい。あれはトロフィーモフ一目ぼれするわ。

 

②『エブリ・ブリリアント・シング ~ありとあらゆるステキなこと~』

@シアターイースト(12日、13時)

 

初演を観てあまりに感動してしまって美化しすぎている感があったので、頭を冷やしに行ってきた(言い方)。

舞台美術は初演の時の方がもっとごちゃごちゃしていた。今回はカーペットと小さいテーブルのみになっていた。ちなみに初演の感想もブログにあるけど読まないでください。黒歴史なんで。フリじゃないです。

 

結論:初演のときにもうっすら思ったけどこれ演出うんぬんというより佐藤隆太がすごいだけじゃね?てかこれに佐藤隆太をキャスティングしようと考えた人が神。ありがとう。

 

まず、これは観客参加型の作品なので、俳優はある程度毎回観客の位置を覚えておかなきゃいけない。SNSとか見た感じ、それに大きく失敗している回ってないんじゃないだろうか。すごい記憶力と臨機応変力。

あと、「観客参加」にビビっている観客(つまり私みたいな観客)すら「これならちょっと参加してみても良かったかも」と思わせる佐藤隆太の雰囲気がすごい。よく少年漫画とかで見る「裏表がなくてただただめちゃくちゃに人柄の良いネアカ」みたいな雰囲気にプラスして「近所のお兄ちゃん」感を出してくるからすごい。だって「近所の気のいい兄ちゃん」のお手伝いなら自分でも出来そうって思えちゃうじゃん。とにかく、もしかしたら佐藤隆太ってもとからそういう人なのかもしれない…と錯覚させる能力がすごい。裏表のない人間なんている訳ないだろと思ってる偏見人間(=私)ですらそう思わせるのマジでやばい。

あと自殺と鬱という割とセンシティブな内容を扱う作品なんだけれど、その1つ1つのセリフを確かな実感と説得力を持って観客に語り掛けられる佐藤隆太がすごい。もうなんか人間としてすごい。「自殺を考えている人へアドバイスがあります。自殺しないでください」みたいな、割と読むだけだとペラっとした印象のセリフがあるんだけれど、そのセリフを「自殺を考えている人へアドバイスがあります。(こんなことを自殺したいあなたに向かって言ってもなんの救いにもならないことは百も承知なんだけれど、それでも僕はあなたに今心の底から死んでほしくなくて、だからこう言うしかない)自殺しないでください」みたいな感じで言うのですごい。一言への含みがやばい。しかもそれを「演技」ではなくて「本心」から言っているのではないか?と錯覚させる演技力がやばい。とにかく佐藤隆太がすごくてやばい。毎回泣きそうになる。

 

心の底から佐藤隆太をキャスティングした人に拍手を送りたい(何回目)。

しいて言うならすべてが「佐藤隆太がすごい」に収束していくことこそが問題なんじゃないかと思う。もうちょっと演出頑張れよ(暴論)。

 

もちろん戯曲自体も「観客参加」という点で面白く出来ているなと思う。

最初は突然べらべらと自分のこれまでの人生を語りだす「僕」の手伝いを、割と「積極的」な観客がしていく(自ら志願する形でカードを読み上げたり、ある登場人物を「僕」の言うとおりに演じたりする)形になっている。まだこの段階では、上記のような「積極的」に参加する観客と、シャイだったり声を出せなかったりなどの色々な理由で参加に「消極的」な観客が一見存在するように見える。

でも最後の方で、この場が実はグループカウンセリングの場であり、だから「僕」は観客に自分のこれまでのことを話していたのだ、という事実が開示される。要はこの場(劇場)に来て、「僕」の話にじっと耳を傾けているだけで、十二分にグループカウンセリングの「参加者」として作品に深く「参加」していたことが開示される。つまり観客の全員が最初から「積極的」な「参加者」であることが明らかになる、という面白い構造を持っている。

ただしこの作品が「イマーシブ」なのかについては結構慎重な議論が必要だとは思う。

 

ただ唯一この公演で失敗しているな、と思うのは「自殺」に関して扱っていますよ、というトリガーワーニングを一切していないこと。公式サイトですらしていないのだからこれは批判されても文句は言えないと思う。だってこんなタイトルであんなポップなポスターならひたすら楽しい子ども向けの芝居かと思うじゃん?絶対よく分かんないまま来てる親子連れとか結構いたよ?

ちなみに私が観に行ったときは、(開演前に佐藤隆太が志願者にカードを配るんだけど)カードをもらえなくて泣き出しちゃって劇場から一人で出て行っちゃった女の子の機嫌を必死に追いかけながらとっている佐藤隆太、という面白ほほえましい場面が観られた。それと同時にそんなちっちゃい子が観て大丈夫か!と内容知ってる私はヒヤヒヤしてた。

 

総論:たぶん佐藤隆太さえ確保できれば私でも演出できる(大暴論)

懸念点:佐藤隆太以外のこのレベルでできそうなちょうどいい俳優がパッと思いつかない。

 

9月10月はいっぱい観るよ!

なぜなら東京にいるからね!芸術祭とかあるから!!あとNTLive!!!頑張る!!!!

*1:ロパーヒンが提示する、桜の園を切り売りして別荘にすればいい、というのは確かに短期的に見ると金を稼げるが、長期的に見ると文化遺産なんかを壊して土地自体の価値を下げてしまう手段でもある。

*2:ほんとかどうかは分からないけれど、前にロシア演劇専門の先生が「たとえばチェーホフ劇の登場人物って思い思いに各々の主張を話していて会話が成立してない状態になってたりするでしょ…ロシア人ってマジでああいう喋り方する時あるのよ…」と話してたことがある。マジかよ。

2023年4月から7月に生で観た舞台のちょっとした感想

最近はアニメ観たり、おすすめしてもらった映画観たり、アニメ観たり…して過ごしてます。映画を1日に2本観るのはまだちょっときつい。無念(逆に30分刻みのアニメ、集中力が続きやすくてとても観やすい)。

 

そんなこんなでまたまた感想書いていきますが、6月は東京にいなかったので何も観てません。あとダンス公演に関しては毎度のことながら知識がないので、感想が適当に短いかもしれないです。

 

 

2023年4月

①『帰ってきたマイ・ブラザー

世田谷パブリックシアター(2日、13時)

 

上半期つまんなかったで賞ぶっちぎりのナンバーワン。

劇場内に出入りしやすい席に座ったのに、あまりのつまらなさとくだらなさに脱力&思考停止してしまい途中退席もかなわなかったという有様。内容はもちろん覚えていない。なんか昔売れた4兄弟グループが年取ってから復活公演をする…的な内容だったはず。普通にコントやった方が絶対に面白い、今すぐその辺の若手芸人を連れてこい、と思ったのだけは覚えている。そう思うってことは1時間半のコントとして考えれば観られなくもないのか?とも思ったけど、コントをそんな長時間観る心づもりはしてきておりません。はい。

 

「水谷豊ってこの世に存在してんだ…しかもチャラいジジイ役だ…右京さんじゃない…相棒(寺脇康文)も出てるのに…」という感慨は味わえたけどだから何???という感じだった。それだけで補えるダメージではなかった。おっさん5人+αでどうぞお遊戯会を楽しんでください…私はついていけない…。

WOWOWとかで今度放送があると聞いたけど、これ以上被害者を増やすつもりかと戦々恐々した。

 

②『ブレイキング・ザ・コード』

@シアタートラム(22日、13時)

 

別に可もなく不可もなく、特に記憶に残るでもなく…といった、まあある意味優等生的な上演だった。しいて言うならみんな声を張りすぎててうるせえ。はきはきと滑舌よく叫ぶのでとっても新劇新劇しててそこは苦手だった。ただロン・ミラーを演じた水田航生だけは自然な発声で、そこまで新劇新劇してなくて好感を持った(もちろん新劇が悪いのではなく、単に私が新劇っぽい演技が嫌いなだけ)。

 

映画のイミテーション・ゲームが結構好きなこともあり、上演前に戯曲を読んだことがあったので(うろ覚え。23年5月号の悲劇喜劇に載っているらしい)どんなもんかな、とわくわくしていた部分があったのだけれど、全体的に古いな…という印象がどうしてもぬぐえなかった。ただ、毒リンゴを食べてかっこいい王子様の腕の中で目覚めた白雪姫のアニメ映画を「感動」して観た、とアラン自身が言っている通り、最後の毒リンゴ自殺は、王子様の腕の中で目覚めるような希望(救い)に溢れたものなんだな、と通しで観て改めて気が付いた。

あと全体的に、アラン・チューリングとかエニグマ解読とかを知らない人が観たら、割と時系列混乱しそうな構成だな、と、これもやっぱり改めて思った。

まあイギリスで知らない人の方が少ないと思うし、映画も世界的に有名な部類に入ると思うので本当に知らない人って少数派なのかもしれないけれど。

でも、それこそ「暗号」みたいに不可解な時系列になっている(解読不能と思われた「エニグマ」に引っ掛けた構成になっている)わけではない。つまりこの構成は狙ってやったというより「そうなっちゃった」だけだと思うので、もう少し演出で現在進行形の時系列と、回想の時系列を明確に分けて示した方が、日本で上演するときには親切かな、と感じた。

 

ただ、アランが戯曲の中で最後に関係を持つギリシアの青年を演じているのが、クリストファーを演じた俳優なのが結構いい演出だな、と思った。ギリシアの青年とアランが話している後半の部分でアランがクリストファーの名前を口にするから、ギリシアの青年とクリストファーに何かしら似ている部分がある、というのは自然な演出だな、と思った。でももしかしたら通例的な演出かもしれなくて、素直に褒めていいのかよく分からない。

あと、ブツブツと区切るように突然真っ暗になるのと、舞台後方の壁だけが下にかけて斜めになっているのと、俳優の出入りが何故か地下からなのが本当に謎だった。あれなんでなんだろう。意味が分からない。しかも最後の自殺のシーンでは後ろの壁が上がり、その後ろに並んでいたいくつものライトがぴかーっと客席に向かって光る。謎みが深い。神々しさ的な?一応自殺なのに??

 

まあ色々好き勝手書いたけど、読んだ時に全く分からなかった数学的な説明の部分のセリフが、亀田佳明が喋っているのを聞くとなんか分かった気になるから、やっぱすげえな文学座のエース、と感動するにはした。

あと後ろの客席に座ってたお客さんが「僕数学やってるんですよね~。たまたま図書館でこの公演のチラシ見かけて、チューリングの功績は知っているけど人生については全然なんで観に来たんですよ。演劇観るのこれが初めてなんですよ~」と開演前に雑談しているのが聞こえてきて、そういう需要があったか、と驚いたのと、この観劇体験が悪くないものとしてその人の印象に残ればいいな、と願ったことを書いてて思い出した。

 

2023年5月

①『虹む街の果て』

@KAAT 中スタジオ(20日、13時)

※ちなみに前作『虹む街』は観てません。無念。

 

訳が分からないけれど面白かった、と書いて感想まとめるのを放棄したいところなんだけれど頑張る。というわけで以下、読みやすくはないです。

最終的にどんなことを思ったかを先にまとめておくと、「ディストピア的な管理と統制がなされて暇になった人間って、思い思いにこういう謎な営みを始めるのかもしれない…」ということ。

 

なんで「ディストピア的」だと思ったのかの要因はたぶん4つ。

 

①最初と最後に「笑顔に救われました。○○さん!」という形の演者紹介がある(執拗に「笑顔」にならざるを得ない状況が作り出されていた)。

②舞台上の何もかもが緑色。衣裳もみんなお揃いの緑のつなぎ。劇中で「水鉄砲にピンクかブルーを塗ればいいのに」という提案が1回だけなされるが「いいね!」と言われるだけで実行には移されない。

③機械はそれなりに発達してそう。というかロボット(の被り物をした人)が働いている(その後脱ぐけど…)。

④舞台上で色んな営みをするんだけれど、基本の行動単位が「みんな(演者全員)」。

 

そんなこんなで、なんか「ディストピア」っぽいな、となんとなく思った。

 

ちなみに④の様々な営みなんだけど、覚えている限りでは(順番めちゃくちゃ)こんな感じ。

 

・緑色のストッキングを作る(洗う)仕事?をしている人がいた。

・ゴキブリのゲームをやっている人がいて、みんなでそれを鑑賞していた。

・風鈴の仕事?をしている人がいた。水を入れたたらいの中に瓶を入れて、フィンのついた足で揺らして音を出していた。みんなで聞いて癒されてた。

・みんなで屋内のディスコで傘を開いてノリノリに踊ってた。

・電話ボックスから「穴の開いた靴下」に別れの電話をかけている人がいた(恋愛ドラマ風)。

・靴を釣っているビルラさんという人がいた。上演時間内に釣り切れるか否かの不安と興奮に満足を感じているらしい。ちなみに私のイチ推しはこのビルラさん。

ダンゴムシの被り物を突然しはじめたおじいちゃんのパフォーマンス(3回以上同じことが繰り返された)を、みんなで鑑賞してた。

 

などなど。あとは基本的にだるそうに座ってたり、突っ立ってたりしてたりすることが多かったような気もする。

それと前半で、水鉄砲を打っていたロボット(の被り物をした人)が自販機でチーズバーガーを注文したら、その自販機の中から販売員の青年が飛び出してきて(自販機なのに)、その青年は手に緑色のゼリーを持っていた。また後半で、舞台中央に鎮座しているでっかいにこちゃんマークの置物(スマイリー。有名人らしい)にもでっかい緑色のゼリーがささげられていたから、もしかしたらここの人たちは食べ物が基本ゼリーなのかもしれない、と思った。これもディストピア的だな、と思った理由の1つ。

 

奇妙な街の人たちの奇妙な生活って感じでかなり面白く観てたんだけど、カーテンコールみたいな部分でThe SpecialsA Message to You Rudyをみんなで歌いだすという唐突さ。しかもみんな緑色のストッキングをはいて、ビルラさんが釣ってた靴もはいていた。

 

youtu.be

 

これ、街の不良に対して「そろそろマトモになれよ」って語りかける歌なんだと歌詞読んだ限りでは思うんだけど、明らかに舞台上でヘンな営みをしていたヘンな恰好をした集団から「あんたもそろそろマトモになりなよ」と語り掛けられるのはちょっとだけゾッとした。ずっとヘンなことしていると思って観ていたこの人たちの世界線では、緑色の服を着て「みんな」に混じって営みに参加しない「観客」の方が「異端」なんだ、と、そう感じた。

開演前に、観客は自由にセットの中に入ったり写真撮ったりできたのだけれど(「ヘンなものを見るように」「珍しそうに」眺めることができたんだけど)、きっとこの最後につなげるためか、となんとなく思った。

 

それはそれとして、パーカッションがとても良かった。お鍋とか網とか石とかバケツとかで即興でやっている感じで、聞いていて不思議に楽しい気持ちになった。

あと正直本当に訳が分からない上演だった(けど楽しかった)ので、上に書いたこと全部トンチンカンかもしれない。

 

②『リビング・ルーム』

世田谷パブリックシアター(21日、15時)

 

インバル・ピントの作る身体の動きとそこから生まれる世界観は好きだ。ちょっとシュールでコミカルでキュート。好みのドンピシャである。別に詳しいわけでは全然ないのだけれど、YouTubeで検索してたまに観る程度にはハマっている。

その上で書くから怒らないで欲しいんだけど(要は素人のたわごととして聞き流して欲しいんだけど)、これはわざわざ海外から持ってくるほどの作品ではない、と思う。もちろんシュールでコミカルでキュートで、好みなのはいつもと変わらない。でも正直、この程度の規模とクオリティのコンテンポラリー・ダンスの作品なら国内でもっと良いのが腐るほどある。

 

海外から、しかもインバル・ピントという知名度のある人の作品を、シアタートラムではなく世田谷パブリックシアターで上演するために持ってくる、という観点から考えると、「作品の選択ミスったな」と思わざるを得ない感じだった。別に損をした、という感じはしないのだけれど、肩透かしだな、というガッカリ感が否めない上演だった。

 

③KIDD PIVOT『RIVISOR/検察官』

神奈川県民ホール(28日、14時の予定が配役変更のため14時15分)

 

便宜上3部構成に分けて考えるとして、1部は普通にゴーゴリ『検察官』だった。事前録音した英語のセリフにダンサーが動きを合わせる形で、なんとなくパントマイムいうか、サイレント映画活弁士が音声を合わせているというか、そんな身体と分離するセリフが、日本語字幕通り宙に浮いている感じで、結構滑稽だった。

2部からは1部の衣裳もセットもほぼなくなって、1部を酷く抽象化したような骨格だけを繰り返す。たぶん全体を通してこの2部は異化的な役割があると思う。録音された音声がダンサーの動きを後追いするように説明したり、動きが変に停止したり、細切れになったり、とにかくダンスが壊れたラジオみたいになっていた。

あと、2部の最初はダンサーの動きを後追いしていたような印象の声が、だんだんとダンサーに指示をするように見えてくるのも特徴的だった。「動いている」ダンサーが「動かされている」ように見えてくる不思議。2部の終わり、ダンサーが1人で舞台中央に立つなか「なぜ私はここにいるのか。それはなにを意味するのか」という音声が流れてくるのが、まるで訳の分からないまま振り付けされているそのダンサー自身の心情の吐露に聞こえて、結構印象深かった。

3部は、1部の続きで、1部と同様に行って、最後「喜劇は終わりだ」と繰り返されるなか、戯曲通りのだんまりの図をやって幕。

 

『検察官』の登場人物たちは、「検察官」をトップとする権力構造を基にした虚飾と欺瞞に満ち溢れているけど、結局ダンス・パフォーマンスだって権力持ちがちな「振付家」とかいるし、一枚めくるとそんな感じだよね、というメタ感あふれる作品だったんじゃないかな、となんとなく感じた。ただ『検察官』という作品じゃなきゃダメな理由がいまいち分からなかった。

 

あと何よりもこの作品をやるにしては神奈川県民ホールは大きすぎる、という印象があった。字幕が見えづらい段階で、本当はもう少しこじんまりした劇場でやる作品なのでは…?という疑念が消えない。面白くなかったわけではないけれど、劇場のサイズが適切であれば本当はもっと面白いんだろうな、と思ってしまうような上演だった。

 

2023年7月

①『ある馬の物語』

世田谷パブリックシアター(8日、13時)

※観てから1カ月も経っていないため他の感想に比べて冷静さが薄いです。

 

Twitterの方でも何回も叫んでいるのだけれど、 「音楽はサックス4本ですから。尖りすぎです」(成河)という発言に対して元吹奏楽部として文句を言いたい。サックスは1本でオーケストラに対抗できる楽器です。つまりサックス4本は全然尖ってません。むしろ豪華です。観た感じソプラノ、アルト、テナー、バリトンがマイク付きで揃ってましたね。これだけ揃えばオーケストラレベルで大抵の曲は演奏できます。つまりカッコいいだけで全然尖ってません!!ここ注意!!!尖っているというなら「音楽はテルミン1台ですから」ぐらいのことは言ってごらん!!!

 

あとインタビュー読んでいると「所有」とかなんか高尚な感じの用語が飛び交っているんだけど、それ以前に考えることあるだろ、というのがこの戯曲(とりあえず演博では読める)。

簡単にまとめると、若いころよりいい雄に雌を取られた上に去勢されたホルストメール(馬。ちなみにこいつは人間で言うところのレイプ未遂犯。馬ですら去勢されるんだから人間もレイプ犯は去勢されていいと思う)と、同じく若いころによりいい男に女を取られたセルプホフスコーイ公爵が、互いにずぶずぶの感情を抱きつつも別れてしまい、互いに落ちぶれ年老いてから再会するも公爵の方は気が付かず、両者ともに一人寂しく死ぬ、という話。ちなみに両者のセリフの隅っこにはおそらくトラウマ起因の女性差別が見え隠れ(これは時代的なものかもしれないけど)。

 

要は、インセルのじじい(馬)とインセルのじじい(人)が仲良く傷をなめ合うようにやおいしてるだけの話(に見える)。しまいには、お互い自分の孤独も相手の孤独も慰めきれないまま「所有」だの「必要」だの「役に立つ/立たない」だのの高尚な方向に議論に話を飛ばしていくので、読んでいるこっちとしてはただの現実逃避にしか聞こえないというか「その前にてめーらやることあんだろ、ぐちゃぐちゃうっせえなじじいども」としか思えないというか…。

言い換えると「男の孤独」の話をもっと深堀りした方が良いんじゃないですか?と戯曲そのものに言いたくなる話。白井晃はそういう男同士のぐちゃぐちゃ(とそれに付随する女性差別)が実はちょっと好きなんじゃないかと私は疑っているし、上演においては戯曲に比べると大分ホルストメールと公爵の湿度の高い関係が見える化されていたように思うんだけど、やっぱり戯曲の力で、全体的に寓話的な感じの「高尚」で「かっこいい」方の議論に引きずられてしまっていて、もっと思い切ってどっちかに振り切ったほうが作品としては中毒性のあるものになったのではないかな、と感じた。

 

それ以外はなんで工事現場みたいな雰囲気なんだろう…という印象。まあ演出の安全のために使ってるハーネスって馬具っぽいから、ハーネスから工事現場、という連想ゲームなのかもしれない。

あと謎のビニール推し…。最初(ホルストメールがビニールに包まれ吊るされた状態。それを破るように出てくるから子宮のイメージなんだと思う)から最後(ホルストメールを殺した時の血のりが、幕みたいに降ろされたビニールにぶちまけられる)まで謎のビニール推し…。まあビニール使っとけばなんとなくかっこいいビジュアルになるじゃん?的な雰囲気は確かにあるけれども、工事現場にそんなビニールあったら滑って危険じゃん?

 

それと馬の演技に関してなんだけれど、前半の馬版『キャッツ』みたいな部分からずっと全員形態模写的にやっていて、馬に見えるというよりは「人間が『頑張って』馬の形態模写している」ようにしか見えなくなってしまっていたのは、意図的なのかそうなっちゃっただけなのか、詳しく知りたい。衣裳も相当馬っぽいコンセプチュアルなものだったから余計に「人間が『頑張って』馬を『演じてます』」感が出てた気がする。

てかこのブログ読んでる人なら、スーツのまま普通に走り出しただけで人が馬になったパラドックス定数『トロンプ・ルイユ』当然観てるでしょ?え、観てない??うそ???とにかくあれと比べてしまって「全然馬じゃねえじゃん」と思ってしまった、という話。馬のパペット?を使っていたNTL『戦火の馬』よりは、人が馬を演じてたこっちを参考にするべきでは…?とインタビュー片目で読みながら思ってた。

 

まあ、私が今まで観た白井晃の作品って、大体鉄骨的なモノとか照明とかがむき出しになっているビジュアル重視の薄暗い空間のなかで、全体的にコンセプチュアルな衣裳を身につけた男と男が、バチバチに情念繰り広げてる(+うっすら付随する女性差別)、みたいなのが割と多かったので、「ああ、白井晃の作品だなあ」という安定感はある上演だったかな、ととりあえずは思っている。

ちなみに私はトルストイの書いた原作小説も読んだけど、「一生やおいやってろ」と思ったのは変わんない。

 

8月は2本だけ観ます。

桜の園『エブリ・ブリリアント・シング』(初演は観た)です。

 

9月と10月はずっと東京にいる予定なので、NTLive含めもうちょっと観る予定です。あとこの期間に『呪術廻戦』のコラボカフェやるらしくて、最近アニメにハマったミーハー心で予約してしまいました。今から何食べようか楽しみ。甘党設定の五条悟という登場人物をイメージしたプレートがまだ詳細発表前なので、激甘な美味しいプレート来ないかな、と思ってます。

2023年3月に生で観た舞台のちょっとした感想

Twitterのほうを見てる方はご存じかと思いますが、ただいま鬱で休学中です。

それでも舞台はちょいちょい観に行っている&時間だけはとにかくあるので、感想ブログは更新します。

ちなみにミュージカルが多いのは気のせいではなくて、「院に行く前に今まであまり観てこなかったミュージカルを観て、遅れを取り戻してやる!(?)」という謎の気合いがあったせいです(この頃はまだ休学するつもりがなかった)。それに合わせるように、この頃大型ミュージカルの上演が多かったのはラッキーでした。

そんなこんなでなんとか書いていこうと思います。

 

 

野村萬斎演出『ハムレット

世田谷パブリックシアター(19日、13時)

 

野村裕基がパパ(野村萬斎)のやったハムレットのコピーすぎて、観ていて既視感がありすぎて辛い、という理由のために休憩で帰ったので、とりたてて書くことはない(最後まで観ていないのにあれこれかくのもどうなのかな…とも思った)。というか、とくに酷い出来でもなければ面白い出来でもない優等生な出来だったのが、帰ってしまった一番の理由かもしれない。ごめんな、こちとらハムレットは結構観てるのよ…。余程トリッキーな出来でない限り3時間以上観続ける元気は(少なくとも今は)私にはない…。

 

あと野村萬斎演じるクローディアスと野村裕基演じるハムレットがあまりに似すぎているので、「もしかしてハムレットの本当の父親はクローディアスなのではないか…?」という深読みを誘う作品になっていたと思う。ただ、たぶんだけど作っている方はそんな深読みは誘うつもりはさらさらないんだと思う。そこがなんとなく悲しかった。

 

『掃除機』

@KAAT 中スタジオ(21日、14時)

 

奇妙な作品だった。まずもってして舞台美術が相当に奇妙だった。全体的に箱を中途半端に展開したような形になっていた。冒頭、掃除機役の栗原類がスケボーに乗った状態で滑り出てくるせいか、パッと見、傾斜のついたスケボーの会場に、一家族分の家具が散らばっているようにも見える。壁面(登場人物にとっては床面)に沿うようにベッドが宙に浮いていたりしてとにかく奇妙だった。

それなのに登場人物たちは全く意に介せず、その奇妙な家で普通に過ごしているのがまた奇妙だった(例えば、壁面にはりついているベッドとかにも足を引っかけたりしながら上手に寝ていたりした)。お父さん役の俳優が3人に分裂するところなんかもあって(3人1役というか)、観ていて頭の中で「???」が止まらなかった。そしてやっぱりそのことを登場人物たちは当たり前のように受け入れているのが、もう「奇妙さ」の大渋滞といった感じだった。

 

たぶんだけど、家の住人たちの、この「明らかな奇妙さに目をつぶる」態度が、作品で扱われている「8050問題」の結構根底の部分に食い込んでくるのではないのか、と感じた。引きこもっている娘に対して、「目をつぶる」のではなく、もっと初期段階ですべきケアとアプローチがあったのではないかと思う。また途中で、それまでの作品の空気をぶった切るように、舞台奥のブースからお菓子を食べながら出てくる、熱帯雨林(おそらくamazonのこと)の倉庫に4日だけ勤めていた男(演じるのは環ROY。ラッパーということもあってセリフ回しと身体動作がとても面白かった)が言うように、「クソ」だと分かり切っていることを「クソ」じゃないと無理矢理思い込んでやってみる(この男の場合は熱帯雨林の下っ端の仕事をやってみるということ)ような「目をつぶる」態度が、「8050問題」だけに限らず、この社会の色々なひずみの原因なのではないか、ということを示唆するような場面もあった。

 

ちなみにこの男は、家に住んでいる息子の友達らしく、作品の後半で家を出て行った息子の代わりに家にパラサイトするようになる。そんな奇妙な状態になっても、家の住人は変わらず見て見ぬふりを続けていた(そういう家だからパラサイトしやすかったのかも)。

また、この家に入った住人はもれなく掃除機に話しかけるようになる奇妙な呪いがかかっているようで、この男も例外なく掃除機に話しかける。「君はもっとパースペクティブを広げないとね」と掃除機に言って、男は舞台を降り、中スタジオの窓にかかっているカーテンをシャーッと開けながら出て行って幕だった。観ていて物理的に視界が開けた感覚に陥ったので、「目をつぶる」人々にもいつかこういう開けた感覚が訪れるかもしれない、という希望のある終わり方ではあったのだと思う。ただこの前中スタジオで観た『ポルノグラフィ』でもカーテン開けていたな…とかどうでもいいことも思ってしまった。中スタジオのカーテンは結構簡単に開けられるんだ、ということを勉強した。

 

全体的にそれなりに面白く、もっと岡田利規作品を岡田利規以外が演出するのを観てみたいな、と思わせる上演だった。今回は岡田利規的な演出が結構見られたけれど、全然岡田利規っぽくない岡田利規作品の上演とかすごく観てみたいと思った。書いていて岡田利規ゲシュタルト崩壊しそうになってきた。

 

『太平洋序曲』

日生劇場(22日、14時)

 

ソンドハイムの曲の中でも難しそうな曲がいっぱいのこの作品を、きちんと歌える俳優さんたちで上演している事には感動した。プリンシパルもすごかったけどなによりアンサンブルがすごかった。あとオーケストラ(西洋楽器)なのに和楽器に寄せた音階とか音とかで演奏しているからか「実は和楽器混じっているのでは…?」と思うくらい音楽が面白かった。

 

あらすじは、超簡単にまとめると、鎖国状態の日本が開国に至るまでの話(だいぶ脚色と想像が入っている)。最初、現代(バブル期?)の日本史の美術館みたいなところ(人形浄瑠璃風の天皇の人形とか飾っている)から始まって、キュレーター(山本耕史)が出てきて、キュレーターが狂言回しとして開国の物語を語りだしていく。

このキュレーターというか狂言回しが実は明治天皇でした!というのがこの作品のドラマチックな展開の1つになっている。キュレーターは「自分の見せたい視点」から美術館とか博物館の展示物を管理・陳列する責任者、ということを考えると、キュレーター兼狂言回しが明治天皇だった、すなわち開国の歴史を観客相手に「自分(天皇家)に都合よく」語っていた可能性がある、という開示は、かなり扇動的な意味で観客にゾッとする感覚を与える構造になるはず(ただ正直、あまり冒頭のキュレーターとか美術館とかの設定が有機的に開国の物語とつながっている感じはしないな、とは思った)。でも、この上演ではそういう恐怖めいたものが観客に全く伝わっていなかった。そのことにものすごくずっこけてしまった。

観客の政治的無関心も1つの原因としてはあるのかもしれないけど、なによりも物語の中でもの言わぬ人形(最初の美術館で展示されていたやつ)だった天皇が、物語の終盤にいたって突如狂言回しの存在に繋がり、明治天皇として雄弁に自分の声で語りだす、というこの歪でグロテスクな「変身」を、舞台の外、観客からは見えないところで一瞬でやってしまったのが駄目だったと思う(舞台奥にスライドドアがあってそのドアの向こうでやっていた)。視覚にきちんと訴える形で「変身」を描けばもっと違った効果があったのではないかと思う。

続けざまに歌われる最後の曲の「NEXT」は、おそらくバブル期を想定した衣裳を身につけたアンサンブルのなか、中心で山本耕史がかっこよく、要は「日本最高だぜ」的な歌詞を歌い上げる。観ている側としては、どの時代であってもイケイケドンドンだった日本がその後失敗したことを知っているので、本来であれば存在したはずの例の「開示」の恐怖めいたものが異化的に働き、この「NEXT」をとことん冷めた目で眺めて思考しなければならない。それなのになんか「山本耕史かっこい~みんな歌うま~い。そうだよね日本ってやっぱいいよね~(とまではいかなくても「昔はよかったよね~」)」的な雰囲気が客席にあったのが、本当に混乱したし、げっそりしてしまった。頼むから周りのお客さん、手拍子だけはしないで欲しかった。何に手拍子してるか分かってる?「イケてる日本万歳!」だよ??今それイタすぎるでしょ…。頼むからそのイタさを感じてくれよ…。

あとなんであんなに狂言回しの衣裳がエリザベートのルキーニみたいなの?いや観たいけどさ山本耕史のルキーニ。

 

せっかく現代の日本で、日本語でやるのなら(5・7・5の音で遊んだ歌とかもあって元の歌詞どうなってんだと驚いた)、もっと大胆でするどい批評性をもった上演にしてほしかったな、というのが正直な感想だった(でも演出マシュー・ホワイトだしな…海外の人だし…といううだうだはある)。キャストと歌と洗練された舞台美術が良かっただけにより残念だった。

 

もちろん好きだったシーンもなくはない。とくに香山(海宝直人)とジョン万次郎(ウエンツ瑛士)の比較を描いたシーンは結構面白いなと思った。開国前にアメリカを退けるように命令された武士の香山が、開国後どんどん西洋かぶれになっていくのと、開国前から西洋容認派だったジョン万次郎が、開国後どんどん武士道を極めていくのが舞台上で同時並行で描かれていて、二極化していく2人の描写がとても好きだった。このあと、ジョン万次郎は尊王攘夷派になって将軍暗殺に関わり、その時に香山のことも殺してしまうのだけれど、もともとはアメリカから戻ってきた罪で死罪になっていたジョン万次郎を香山がぎりぎりで助けたことを考えると、「あ、これたぶんスラッシャーの方が好きな展開だ」とかどうでもいいことを考えたりもした。

あと、五か国(アメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ロシア)が日本に開国を迫るシーンも結構好きだった。五か国の代表の特徴の描かれ方がかなりステレオタイプなんだけど、特色が出ていてコミカルで可愛かった。

それと、ほとんど男の人たちの話なんだけれど、たぶん意図的に女性が多くキャスティングされていたのもバランス的に良かったと思う。

 

終演後のソンドハイム生誕祭は、てっきりキャストがみんなでハッピーバースデーでも歌うのかと思ってたら普通にトークだったので、勝手に興ざめして帰ってしまった。きっとなんかためになるうんちくがたくさんのトークだったのだと思う。

 

ただ、U25チケットを後出ししたのは、絶対に許さない。

 

『ジキル&ハイド』

東京国際フォーラム ホールC(23日、13時)

 

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まず冒頭の3秒ぐらい映像を観て欲しい。「時がきた~♪」と例のあの有名な歌をいい声で歌いながら神妙な顔でレバーを押したので何が起きるのかとわくわくしたら、背後のクソデカ換気扇が回りだした。それ以上は何も起きなかった。辛かった。とにかく吹き出さないようにするのに必死だった。笑いどころではないはずなのに変なツボに入ってしまって笑い死にそうになった。待ち望んでいた「時がき」て回りだすのはせめて時計であって欲しかった。換気扇はやめて欲しかった。実験時、換気は大事だけどあれは流石に部屋が寒くなる!と思った。

しかもこの歌、仕事で失敗してやけ酒してたら、たまたま会った娼婦の姉ちゃんの一言で「そっか、自分で薬を試しちゃえばいいんだ!」と科学者としてどうなんだろうというひらめきを得た酔っぱらいの若い兄ちゃんの深夜テンションの延長で歌われている歌だったのだ。それでクソデカ換気扇が威風堂々と回りだしたのでもう腹筋が死にそうになった。頼むからこの苦しみを誰かと共有したい。

 

そんなこんながほぼ物語の冒頭にあるので「トンチキミュージカルなのかもしれない…(白目)」と思ってたら物語にも色々ツッコミどころしかなくて(精神病と犯罪を結び付けいているとこととか、ジキルが、ハイドになっていたとはいえめちゃくちゃ人殺しまくっているのに最後何事もなかったかのように結婚しようとしているところとか)、「でもそもそも原作が色々とツッコミどころある話だったような…」と思いながら観ていた。ジキル博士を演じている柿澤勇人がまだ若いので、なんとなく不自然な部分も「若気の至り」で済ませられるけれど、石丸さんがやってたらそうはいかねえ…どうなってんだろう…となって石丸ver.も観たかったな、と思った。

 

ただ、薬品のセットがとにかく色とりどりに凝って作られていたのはかなり好きだった。蛍光色に光る液体とかわくわくが止まらない。思わずオペラグラスでガン見してしまった。あとジキルとハイドを交互に行き来する歌(confrontation)のとき、柿澤勇人が瞬時に声を変えているのもすごかったけれど、ジキルとハイドで照明の色変えて、顔の見せる向きまで変えているのも(それに合わせてアシメントリーな前髪にしているのも)こだわりが見えて好きだった(上の動画の最後らへんにある)。あとこの曲が結構気に入って色々検索してたらすごいの出てきたから貼っておく。

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それと、観に行く前から「柿澤勇人の床芸がすごい」とか「床とオトモダチ」とか変な感想がタイムラインに流れてくるからなんぞ?と思ってたけれど、確かに床をごろんごろんアクロバティックに転げまわるシーンがあって、「なるほどこれは確かにオトモダチ…」と思った。なんとなく藤原竜也を思い出して、「ホリプロは床を使える俳優を集めてんのか…?」と謎の疑問が湧いた。絶対「実朝~♡」みたいな大河ドラマのテンションで来た観客、面食らったと思う。

 

全体としては衣裳もセットも豪華で、5000円のチケットではトントンかおつりがくるのでは…?というくらいザ!ミュージカル!で満足度は結構高かった。歌も上手くて良かった。あと19世紀イギリスは他にもジャック・ザ・リッパーとかフランケンシュタイン博士とかもいてかなり物騒だな、と思った。

少なくとも今後私は舞台に換気扇が出てくるたびにこの作品を思い出すと思う。確実に心に爪痕を残した作品だった。

 

ダイハツアレグリアー新たなる光ー』東京公演

@お台場ビッグトップ(27日、11時半)

 

これぞサーカス!といった演目の目白押しで、楽しかったのは楽しかった。けど先生が激推しするほどかな…?と思っていたらどうも昔に比べて色々変更されてしまったらしい。残念。でも自由落下する身体ってめちゃくちゃ美しいな…としばらく余韻に浸っていた。あと先輩たちと運よく合流出来て、一緒にたっけえパンケーキを食べられたのでとても満足だった。

 

『カスパー』

東京芸術劇場 シアターイースト(29日、13時半)

 

寛一郎が初舞台初主演ということで警戒しながら観に行ったんだけれど、演技は特に問題なくてすごいなと思った。初めてでよくここまでできるな、と思った。

 

ただそれ以外はあんまり好きではなくて、平たく言うと、訳の分からない戯曲を訳の分からないままなんか綺麗な舞台美術でごまかしている感じがした。だから結構印象は悪かった。言語によって秩序を獲得し、同時に獲得された自意識がその言語のせいでゲシュタルト崩壊的に崩壊していくさまを、もっとゾッとする形で観せてほしかった。

でもカスパーがゼロ番に立って、上からぶら下がったマイクを片手に絶叫するさまは、言語を習得する前は前で怖かったが、言語を習得したために今苦しい、ということを主張しているように見えて、けばけばしい照明の色合いと相まってインディーズのロックバンドみたいで、ちょっとイケてるなと思った。ちなみに客席の入りも人気のないインディーズバンドみたいな感じで、3分の1も入っていないシアターイーストって初めて見たな、と思った。たぶんこれはチケット代(S席9000円、U25で6000円、上演時間75分ぐらい)のせいだと思う。

 

『マチルダ

東急シアターオーブ(30日、13時)

 

ガラが悪い田代万里生が観られると聞いて田代万里生回を取ったのだけど、確か怪我か何かで斎藤司に変わっていた。ミスター・ワームウッドがやる第二幕初めの反知性主義的な客いじり含めたテレビ最高ソングのあたりとか、斎藤司、とってもはまり役だったけど、この人がこういうコミカルな役上手いのは当たり前なので、やっぱり田代万里生で観たかったな、とちょっと残念だった。

 

全体的には、Netflixの映画版の方が物語が凸凹していない感じで好きだな、という印象だった。映画版と結構違う部分があって、そのせいなのか分からないけれど、舞台の方は独立した場面を何個も連続で繰り出している感じがあり、なめらかな印象がなかった。ただマチルダ役の嘉村咲良は当たり前のように上手かった。キダルト(大人の俳優が子供の役を演じる)に関しては3階席から観る分にはあまり気にならなかった。まあ子供役を演じるのが全員子役の方が「すごいねえ、みんな頑張ってるねえ」的な意味合いで感動は大きかっただろうな、とは思った。

 

それとトランチブル校長がマジで他の人よりも2倍ぐらいデカくて感動した。映画にあった、おさげの子のおさげ部分をひっつかんで砲丸投げみたいに投げるシーンも、舞台でもちゃんとやってて「すっげー!」とテンションが上がった。それにしてもイギリスの学校ものって、ハリポタのアンブリッジ先生しかり、こういう抑圧的な校長先生をよく見かけるなあ、と思った。

 

あとすごかったのはアルファベットの歌の日本語歌詞。ちゃんと聞き取れない部分(全体を通して歌詞が聞き取りづらかったのが残念だった)もあったのだけれど、綺麗にABCを当てはめた日本語歌詞になっていて驚いた。

 

ただまあ、そもそも望まない子供を産む羽目になったミセス・ワームウッドに対して「命って素晴らしいですよ!」的な無責任な歌で開始されるこの物語の、子供の可能性とか赤ちゃんを授かることに対する妙な神聖視が結構気持ち悪いと思ってしまうのは変わらなかった。上演としては良く出来ているけれどそれ以上でもそれ以下でもないな…という感じだった。

曲付きのカテコラストに、マチルダがポスターと同じポーズをして一気に真っ暗になって上演が終了したのが、個人的に一番の感動ポイントだったかもしれない。

 

ジェーン・エア

東京芸術劇場 プレイハウス(31日、13時)

 

知り合いが関わっていたので応援の意味も込めてS席で観に行ったのだけど、ちょうど生理痛が激重な日にぶつかってしまって内心うめきながら観ていた。上演中に痛み止めをガサゴソやってしまい、観にくるのが5回目と3回目の隣の方々に大変申し訳ないことをしてしまった。

というわけで以下、わりと低評価なんだけれど、これは上演そのものが良くなかったせいなのか、私の体調が良くなかったせいなのか自分でもよく分からない。

 

全体的に音響があまり好きではなかった。妙にマイクを通した歌声がくぐもって聞こえてしまい、なんだか音程を外しているようにも聞こえてしまった。井上芳雄の高音かつ大音量ではない声が、背後の音と混じって突然消えたように聞こえたのにはすごく驚いてしまった。

 

あとオンステージ席があって、その席にクソ高いチケット代払って座る貴族の観客の方々は、何故か黒っぽい服装で来ることを指定されているようだった。黒という目立ちにくい色合いの指定からも嫌な予感はしたのだけれど、このオンステージ席、上演を通してとくに意味はなかったのがずっこけた。まさか本当に昔の貴族の席みたいに、自分の財力を見せつけたり、好みの俳優を近くで眺めたいためだけに設置されたんか…?と思ってしまった。

 

それと、NTLiveでジェーン・エアを観た時にも感じたのだけれど、私はいまいちこの話の面白さが分からない。ミュージカルになったら少しは楽しめるかと思ったのだけれど誤算だった。おもしれー女がおもしれー女と友情を深めたあとにおもしれー不倫男と結婚するだけじゃねえか…という「だからなんだ」感がすごい。しいて言うなら後半ジェットコースターみたいなスピード感でトンデモ展開が繰り出されるのは面白いような気もするけれど、これは初見だけの楽しみな気がする。

 

ただ井上芳雄の脚はとにかく長かった。あと井上芳雄が演じるジプシーのおばあちゃん、というたぶんあんまり観られない役が観られたのは、まあよかったかな、と思う。

 

体調アホみたいに悪化してたんだから休憩で帰った方が自分のためだったし、なにより周りのためだったなと書いてて思った。

 

今度、2023年4~5月に観たものの感想あげます。

ミュージカル強化月間と名付けて個人的に観まくってみたんですけれど、豪華で素敵で観ていて楽しいけれど構造的に「面白い」とはあんまり思えないな、ということを改めて実感しました。感覚としてはリアリズム演劇の延長なんだよなあ…ミュージカルって…。

まあでも好きな俳優さんとかが全力で歌っているのは観ていて気分がいいな、とは思います。また有名どころとか観に行こう。

それともうちょっと復活したら4~5月に観たものの感想もまとめてあげる予定です。予定では7月くらいかな…。7月に🐴だけ日帰りで観に行く予定なので、それもまとめてあげるかもしれません。

それにしても6月は東京に行けなくて、NTLiveの『オセロー』が観られないのが心残りです…。