最近はアニメ観たり、おすすめしてもらった映画観たり、アニメ観たり…して過ごしてます。映画を1日に2本観るのはまだちょっときつい。無念(逆に30分刻みのアニメ、集中力が続きやすくてとても観やすい)。
そんなこんなでまたまた感想書いていきますが、6月は東京にいなかったので何も観てません。あとダンス公演に関しては毎度のことながら知識がないので、感想が適当に短いかもしれないです。
2023年4月
@世田谷パブリックシアター(2日、13時)
上半期つまんなかったで賞ぶっちぎりのナンバーワン。
劇場内に出入りしやすい席に座ったのに、あまりのつまらなさとくだらなさに脱力&思考停止してしまい途中退席もかなわなかったという有様。内容はもちろん覚えていない。なんか昔売れた4兄弟グループが年取ってから復活公演をする…的な内容だったはず。普通にコントやった方が絶対に面白い、今すぐその辺の若手芸人を連れてこい、と思ったのだけは覚えている。そう思うってことは1時間半のコントとして考えれば観られなくもないのか?とも思ったけど、コントをそんな長時間観る心づもりはしてきておりません。はい。
「水谷豊ってこの世に存在してんだ…しかもチャラいジジイ役だ…右京さんじゃない…相棒(寺脇康文)も出てるのに…」という感慨は味わえたけどだから何???という感じだった。それだけで補えるダメージではなかった。おっさん5人+αでどうぞお遊戯会を楽しんでください…私はついていけない…。
WOWOWとかで今度放送があると聞いたけど、これ以上被害者を増やすつもりかと戦々恐々した。
②『ブレイキング・ザ・コード』
@シアタートラム(22日、13時)
別に可もなく不可もなく、特に記憶に残るでもなく…といった、まあある意味優等生的な上演だった。しいて言うならみんな声を張りすぎててうるせえ。はきはきと滑舌よく叫ぶのでとっても新劇新劇しててそこは苦手だった。ただロン・ミラーを演じた水田航生だけは自然な発声で、そこまで新劇新劇してなくて好感を持った(もちろん新劇が悪いのではなく、単に私が新劇っぽい演技が嫌いなだけ)。
映画の『イミテーション・ゲーム』が結構好きなこともあり、上演前に戯曲を読んだことがあったので(うろ覚え。23年5月号の悲劇喜劇に載っているらしい)どんなもんかな、とわくわくしていた部分があったのだけれど、全体的に古いな…という印象がどうしてもぬぐえなかった。ただ、毒リンゴを食べてかっこいい王子様の腕の中で目覚めた白雪姫のアニメ映画を「感動」して観た、とアラン自身が言っている通り、最後の毒リンゴ自殺は、王子様の腕の中で目覚めるような希望(救い)に溢れたものなんだな、と通しで観て改めて気が付いた。
あと全体的に、アラン・チューリングとかエニグマ解読とかを知らない人が観たら、割と時系列混乱しそうな構成だな、と、これもやっぱり改めて思った。
まあイギリスで知らない人の方が少ないと思うし、映画も世界的に有名な部類に入ると思うので本当に知らない人って少数派なのかもしれないけれど。
でも、それこそ「暗号」みたいに不可解な時系列になっている(解読不能と思われた「エニグマ」に引っ掛けた構成になっている)わけではない。つまりこの構成は狙ってやったというより「そうなっちゃった」だけだと思うので、もう少し演出で現在進行形の時系列と、回想の時系列を明確に分けて示した方が、日本で上演するときには親切かな、と感じた。
ただ、アランが戯曲の中で最後に関係を持つギリシアの青年を演じているのが、クリストファーを演じた俳優なのが結構いい演出だな、と思った。ギリシアの青年とアランが話している後半の部分でアランがクリストファーの名前を口にするから、ギリシアの青年とクリストファーに何かしら似ている部分がある、というのは自然な演出だな、と思った。でももしかしたら通例的な演出かもしれなくて、素直に褒めていいのかよく分からない。
あと、ブツブツと区切るように突然真っ暗になるのと、舞台後方の壁だけが下にかけて斜めになっているのと、俳優の出入りが何故か地下からなのが本当に謎だった。あれなんでなんだろう。意味が分からない。しかも最後の自殺のシーンでは後ろの壁が上がり、その後ろに並んでいたいくつものライトがぴかーっと客席に向かって光る。謎みが深い。神々しさ的な?一応自殺なのに??
まあ色々好き勝手書いたけど、読んだ時に全く分からなかった数学的な説明の部分のセリフが、亀田佳明が喋っているのを聞くとなんか分かった気になるから、やっぱすげえな文学座のエース、と感動するにはした。
あと後ろの客席に座ってたお客さんが「僕数学やってるんですよね~。たまたま図書館でこの公演のチラシ見かけて、チューリングの功績は知っているけど人生については全然なんで観に来たんですよ。演劇観るのこれが初めてなんですよ~」と開演前に雑談しているのが聞こえてきて、そういう需要があったか、と驚いたのと、この観劇体験が悪くないものとしてその人の印象に残ればいいな、と願ったことを書いてて思い出した。
2023年5月
①『虹む街の果て』
@KAAT 中スタジオ(20日、13時)
※ちなみに前作『虹む街』は観てません。無念。
訳が分からないけれど面白かった、と書いて感想まとめるのを放棄したいところなんだけれど頑張る。というわけで以下、読みやすくはないです。
最終的にどんなことを思ったかを先にまとめておくと、「ディストピア的な管理と統制がなされて暇になった人間って、思い思いにこういう謎な営みを始めるのかもしれない…」ということ。
なんで「ディストピア的」だと思ったのかの要因はたぶん4つ。
①最初と最後に「笑顔に救われました。○○さん!」という形の演者紹介がある(執拗に「笑顔」にならざるを得ない状況が作り出されていた)。
②舞台上の何もかもが緑色。衣裳もみんなお揃いの緑のつなぎ。劇中で「水鉄砲にピンクかブルーを塗ればいいのに」という提案が1回だけなされるが「いいね!」と言われるだけで実行には移されない。
③機械はそれなりに発達してそう。というかロボット(の被り物をした人)が働いている(その後脱ぐけど…)。
④舞台上で色んな営みをするんだけれど、基本の行動単位が「みんな(演者全員)」。
そんなこんなで、なんか「ディストピア」っぽいな、となんとなく思った。
ちなみに④の様々な営みなんだけど、覚えている限りでは(順番めちゃくちゃ)こんな感じ。
・緑色のストッキングを作る(洗う)仕事?をしている人がいた。
・ゴキブリのゲームをやっている人がいて、みんなでそれを鑑賞していた。
・風鈴の仕事?をしている人がいた。水を入れたたらいの中に瓶を入れて、フィンのついた足で揺らして音を出していた。みんなで聞いて癒されてた。
・みんなで屋内のディスコで傘を開いてノリノリに踊ってた。
・電話ボックスから「穴の開いた靴下」に別れの電話をかけている人がいた(恋愛ドラマ風)。
・靴を釣っているビルラさんという人がいた。上演時間内に釣り切れるか否かの不安と興奮に満足を感じているらしい。ちなみに私のイチ推しはこのビルラさん。
・ダンゴムシの被り物を突然しはじめたおじいちゃんのパフォーマンス(3回以上同じことが繰り返された)を、みんなで鑑賞してた。
などなど。あとは基本的にだるそうに座ってたり、突っ立ってたりしてたりすることが多かったような気もする。
それと前半で、水鉄砲を打っていたロボット(の被り物をした人)が自販機でチーズバーガーを注文したら、その自販機の中から販売員の青年が飛び出してきて(自販機なのに)、その青年は手に緑色のゼリーを持っていた。また後半で、舞台中央に鎮座しているでっかいにこちゃんマークの置物(スマイリー。有名人らしい)にもでっかい緑色のゼリーがささげられていたから、もしかしたらここの人たちは食べ物が基本ゼリーなのかもしれない、と思った。これもディストピア的だな、と思った理由の1つ。
奇妙な街の人たちの奇妙な生活って感じでかなり面白く観てたんだけど、カーテンコールみたいな部分でThe SpecialsのA Message to You Rudyをみんなで歌いだすという唐突さ。しかもみんな緑色のストッキングをはいて、ビルラさんが釣ってた靴もはいていた。
youtu.be
これ、街の不良に対して「そろそろマトモになれよ」って語りかける歌なんだと歌詞読んだ限りでは思うんだけど、明らかに舞台上でヘンな営みをしていたヘンな恰好をした集団から「あんたもそろそろマトモになりなよ」と語り掛けられるのはちょっとだけゾッとした。ずっとヘンなことしていると思って観ていたこの人たちの世界線では、緑色の服を着て「みんな」に混じって営みに参加しない「観客」の方が「異端」なんだ、と、そう感じた。
開演前に、観客は自由にセットの中に入ったり写真撮ったりできたのだけれど(「ヘンなものを見るように」「珍しそうに」眺めることができたんだけど)、きっとこの最後につなげるためか、となんとなく思った。
それはそれとして、パーカッションがとても良かった。お鍋とか網とか石とかバケツとかで即興でやっている感じで、聞いていて不思議に楽しい気持ちになった。
あと正直本当に訳が分からない上演だった(けど楽しかった)ので、上に書いたこと全部トンチンカンかもしれない。
②『リビング・ルーム』
@世田谷パブリックシアター(21日、15時)
インバル・ピントの作る身体の動きとそこから生まれる世界観は好きだ。ちょっとシュールでコミカルでキュート。好みのドンピシャである。別に詳しいわけでは全然ないのだけれど、YouTubeで検索してたまに観る程度にはハマっている。
その上で書くから怒らないで欲しいんだけど(要は素人のたわごととして聞き流して欲しいんだけど)、これはわざわざ海外から持ってくるほどの作品ではない、と思う。もちろんシュールでコミカルでキュートで、好みなのはいつもと変わらない。でも正直、この程度の規模とクオリティのコンテンポラリー・ダンスの作品なら国内でもっと良いのが腐るほどある。
海外から、しかもインバル・ピントという知名度のある人の作品を、シアタートラムではなく世田谷パブリックシアターで上演するために持ってくる、という観点から考えると、「作品の選択ミスったな」と思わざるを得ない感じだった。別に損をした、という感じはしないのだけれど、肩透かしだな、というガッカリ感が否めない上演だった。
③KIDD PIVOT『RIVISOR/検察官』
@神奈川県民ホール(28日、14時の予定が配役変更のため14時15分)
便宜上3部構成に分けて考えるとして、1部は普通にゴーゴリの『検察官』だった。事前録音した英語のセリフにダンサーが動きを合わせる形で、なんとなくパントマイムいうか、サイレント映画に活弁士が音声を合わせているというか、そんな身体と分離するセリフが、日本語字幕通り宙に浮いている感じで、結構滑稽だった。
2部からは1部の衣裳もセットもほぼなくなって、1部を酷く抽象化したような骨格だけを繰り返す。たぶん全体を通してこの2部は異化的な役割があると思う。録音された音声がダンサーの動きを後追いするように説明したり、動きが変に停止したり、細切れになったり、とにかくダンスが壊れたラジオみたいになっていた。
あと、2部の最初はダンサーの動きを後追いしていたような印象の声が、だんだんとダンサーに指示をするように見えてくるのも特徴的だった。「動いている」ダンサーが「動かされている」ように見えてくる不思議。2部の終わり、ダンサーが1人で舞台中央に立つなか「なぜ私はここにいるのか。それはなにを意味するのか」という音声が流れてくるのが、まるで訳の分からないまま振り付けされているそのダンサー自身の心情の吐露に聞こえて、結構印象深かった。
3部は、1部の続きで、1部と同様に行って、最後「喜劇は終わりだ」と繰り返されるなか、戯曲通りのだんまりの図をやって幕。
『検察官』の登場人物たちは、「検察官」をトップとする権力構造を基にした虚飾と欺瞞に満ち溢れているけど、結局ダンス・パフォーマンスだって権力持ちがちな「振付家」とかいるし、一枚めくるとそんな感じだよね、というメタ感あふれる作品だったんじゃないかな、となんとなく感じた。ただ『検察官』という作品じゃなきゃダメな理由がいまいち分からなかった。
あと何よりもこの作品をやるにしては神奈川県民ホールは大きすぎる、という印象があった。字幕が見えづらい段階で、本当はもう少しこじんまりした劇場でやる作品なのでは…?という疑念が消えない。面白くなかったわけではないけれど、劇場のサイズが適切であれば本当はもっと面白いんだろうな、と思ってしまうような上演だった。
2023年7月
①『ある馬の物語』
@世田谷パブリックシアター(8日、13時)
※観てから1カ月も経っていないため他の感想に比べて冷静さが薄いです。
Twitterの方でも何回も叫んでいるのだけれど、 「音楽はサックス4本ですから。尖りすぎです」(成河)という発言に対して元吹奏楽部として文句を言いたい。サックスは1本でオーケストラに対抗できる楽器です。つまりサックス4本は全然尖ってません。むしろ豪華です。観た感じソプラノ、アルト、テナー、バリトンがマイク付きで揃ってましたね。これだけ揃えばオーケストラレベルで大抵の曲は演奏できます。つまりカッコいいだけで全然尖ってません!!ここ注意!!!尖っているというなら「音楽はテルミン1台ですから」ぐらいのことは言ってごらん!!!
あとインタビュー読んでいると「所有」とかなんか高尚な感じの用語が飛び交っているんだけど、それ以前に考えることあるだろ、というのがこの戯曲(とりあえず演博では読める)。
簡単にまとめると、若いころよりいい雄に雌を取られた上に去勢されたホルストメール(馬。ちなみにこいつは人間で言うところのレイプ未遂犯。馬ですら去勢されるんだから人間もレイプ犯は去勢されていいと思う)と、同じく若いころによりいい男に女を取られたセルプホフスコーイ公爵が、互いにずぶずぶの感情を抱きつつも別れてしまい、互いに落ちぶれ年老いてから再会するも公爵の方は気が付かず、両者ともに一人寂しく死ぬ、という話。ちなみに両者のセリフの隅っこにはおそらくトラウマ起因の女性差別が見え隠れ(これは時代的なものかもしれないけど)。
要は、インセルのじじい(馬)とインセルのじじい(人)が仲良く傷をなめ合うようにやおいしてるだけの話(に見える)。しまいには、お互い自分の孤独も相手の孤独も慰めきれないまま「所有」だの「必要」だの「役に立つ/立たない」だのの高尚な方向に議論に話を飛ばしていくので、読んでいるこっちとしてはただの現実逃避にしか聞こえないというか「その前にてめーらやることあんだろ、ぐちゃぐちゃうっせえなじじいども」としか思えないというか…。
言い換えると「男の孤独」の話をもっと深堀りした方が良いんじゃないですか?と戯曲そのものに言いたくなる話。白井晃はそういう男同士のぐちゃぐちゃ(とそれに付随する女性差別)が実はちょっと好きなんじゃないかと私は疑っているし、上演においては戯曲に比べると大分ホルストメールと公爵の湿度の高い関係が見える化されていたように思うんだけど、やっぱり戯曲の力で、全体的に寓話的な感じの「高尚」で「かっこいい」方の議論に引きずられてしまっていて、もっと思い切ってどっちかに振り切ったほうが作品としては中毒性のあるものになったのではないかな、と感じた。
それ以外はなんで工事現場みたいな雰囲気なんだろう…という印象。まあ演出の安全のために使ってるハーネスって馬具っぽいから、ハーネスから工事現場、という連想ゲームなのかもしれない。
あと謎のビニール推し…。最初(ホルストメールがビニールに包まれ吊るされた状態。それを破るように出てくるから子宮のイメージなんだと思う)から最後(ホルストメールを殺した時の血のりが、幕みたいに降ろされたビニールにぶちまけられる)まで謎のビニール推し…。まあビニール使っとけばなんとなくかっこいいビジュアルになるじゃん?的な雰囲気は確かにあるけれども、工事現場にそんなビニールあったら滑って危険じゃん?
それと馬の演技に関してなんだけれど、前半の馬版『キャッツ』みたいな部分からずっと全員形態模写的にやっていて、馬に見えるというよりは「人間が『頑張って』馬の形態模写している」ようにしか見えなくなってしまっていたのは、意図的なのかそうなっちゃっただけなのか、詳しく知りたい。衣裳も相当馬っぽいコンセプチュアルなものだったから余計に「人間が『頑張って』馬を『演じてます』」感が出てた気がする。
てかこのブログ読んでる人なら、スーツのまま普通に走り出しただけで人が馬になったパラドックス定数『トロンプ・ルイユ』当然観てるでしょ?え、観てない??うそ???とにかくあれと比べてしまって「全然馬じゃねえじゃん」と思ってしまった、という話。馬のパペット?を使っていたNTL『戦火の馬』よりは、人が馬を演じてたこっちを参考にするべきでは…?とインタビュー片目で読みながら思ってた。
まあ、私が今まで観た白井晃の作品って、大体鉄骨的なモノとか照明とかがむき出しになっているビジュアル重視の薄暗い空間のなかで、全体的にコンセプチュアルな衣裳を身につけた男と男が、バチバチに情念繰り広げてる(+うっすら付随する女性差別)、みたいなのが割と多かったので、「ああ、白井晃の作品だなあ」という安定感はある上演だったかな、ととりあえずは思っている。
ちなみに私はトルストイの書いた原作小説も読んだけど、「一生やおいやってろ」と思ったのは変わんない。
8月は2本だけ観ます。
『桜の園』と『エブリ・ブリリアント・シング』(初演は観た)です。
9月と10月はずっと東京にいる予定なので、NTLive含めもうちょっと観る予定です。あとこの期間に『呪術廻戦』のコラボカフェやるらしくて、最近アニメにハマったミーハー心で予約してしまいました。今から何食べようか楽しみ。甘党設定の五条悟という登場人物をイメージしたプレートがまだ詳細発表前なので、激甘な美味しいプレート来ないかな、と思ってます。