感想日記

演劇とかの感想を書きなぐってます。ネタバレはしまくってるのでぜひ気をつけてください。

2023年9月から10月に生で観た舞台のちょっとした感想

来年の2月まで実家にいる予定(休学中)なのでしばらく観劇しません。ちょっと演劇のことで最近頭でっかちにぐるぐるしすぎちゃうので、いい機会だと思って生の観劇から少し離れてみようかと思います。9月から10月の2カ月間映画を観てなくて、この間久しぶりに映画を観たら面白かったので、なんかそういう効果を期待してます。

 

てなわけで9本(実質10本?)感想書いていきます。うちミュージカル2本、ダンスは1本だけです。

 

 

2023年9月

①『スクールオブロック

@東京建物Brillia HALL(17日、12時45分)


柿澤勇人が太っていないのが駄目だった。というかデューイ役に太った俳優をキャスティングしていないのが駄目だった。

 

なんで駄目かと言うと、元の映画(2003)にあったボディポジティブ的なメッセージが皆無になってしまうからだ。映画ではデューイをジャック・ブラックが演じているのだけれど(調べればわかるが結構太めの俳優)、そのデューイが結構かっこよく、自分に自信満々で、最高にロックなのがこの話の1つのポイントだ。映画には、同じく太っているトミカという女の子が、デューイのそんな態度に勇気をもらう場面まである(この場面でデューイがトミカに対して「君は全然太ってない」と言うのではなく「太ってて何が悪いんだ?」という態度を貫くのがかっこいい)。

つまり、ロックスターは痩せててかっこよくなきゃなれない、という思い込みを盛大にぶち壊しつつ(とてもロックである)、太った人が太った自身を否定せずに「太っているやつが最高にロックで最高にかっこよくて何がいけないんだ!」とハチャメチャに人生を楽しんでいるところが、この映画の個人的に好きな面だったし評価されるべき面だと思う。

 

だからデューイ役がいわゆるイケメン俳優では駄目なのだ。トミカも同様にほっそりした子(三上さくら)が演じていたので、もちろん映画にあったようなデューイとトミカのやり取りはカットされている(その代わりなのかなんなのか、映画には出てこないトミカの親はゲイカップルになっていた)。映画と舞台版でもともとどの程度の違いがあって、かつ今回の日本版に合わせてどのぐらい舞台版が改変されたのかは知らないが、たとえトミカとデューイのやり取りがなくても、デューイ役が太った俳優なだけで十分にもとの映画にあったようなボディポジティブなメッセージは伝わる。だからやっぱりこれはミスキャストと言わざるを得ない気がする。

なんなら柿澤勇人演じるデューイが「ダイエット中なんだ」と言ってしまう悪影響の方が引っかかるレベルだった。それ以上痩せてどうすんのよ…。

 

それと、キャストがキャストなので歌唱力は全体的に子役も含めて高かったが、それ以前にアンドリュー・ロイド・ウェバーが書き下ろしたであろう曲が、映画のオリジナルかつ舞台版でも使われる“School of rock”という曲に全く合っていなくてずっこけた。もっとこういう曲調が得意な人に作曲させた方が良かったのではないか?と思う。正直「何か印象に残っている曲はありますか?」と聞かれたら「校長が歌っていた『夜の女王のアリア』です」と自信満々に答えるしかない。私もなんでロックなミュージカル作品に突然『夜の女王のアリア』をぶっこもうと思ったのかは知らない。ほんとになんでだ?

 

あとロックっぽい曲調とかロックっぽい楽器の音色とかは、ブリリアと相性最悪だった。マジで歌詞が聞き取れない。そうでない曲(『夜の女王のアリア』とか)は比較的聞き取りやすかったので、ロックなミュージカルなはずなのに、曲がロックになればなるほど聞き取りづらい謎状態になっていた。

 

もちろん好きだったところもあって、例えば梶裕貴が演じていたデューイの友人のネッドなんかは、映画版よりだいぶコミカルな感じでキャラが立っててとても良かったと思う。でもそれを上回る「日本のメインストリームってこんなもんだよなあ」という脱力感が半端ない。私はいつか、太ってたりイケてない見た目だったりするおっさんとかおばさんとかが、ブリリアみたいなでっかいハコで堂々とミュージカルの主演を務めているのが観てみたいと思う。もちろん日本で。

 

でも、たまたま相互フォローの方とお会いできたので、行って良かったな、とは思っている。

 

②『橋からの眺め』

東京芸術劇場 プレイハウス(21日、13時)

 

演出がジョー・ヒル=ギビンズじゃなかったら観に行かなかった、というぐらい戯曲が嫌い。叔父さん(伯父さん?)が姪に対して異常なまでの愛情を抱いてしまい、それをぽっと出の不法入国兄弟の弟にとられそうになって、腹いせに不法入国のことを密告したら、兄の方に殺された、というとんでもなく自業自得な話だからだ。「で?だから何?」と大声で言いたい(なんなら「キッショ!!」も付け加えたい)。ただNTLiveのイヴォ・ヴァン・ホーヴェの演出では結構視覚的にスタイリッシュかつショッキングな感じになっていて、観ていて「まあ面白くなくはないな?」と上から目線で思ったので、今回も行ってみた…というのが経緯。

 

そんなこんなで元の戯曲が嫌いすぎてハードルがだだ下がっていたので、意外と普通に観られたな、というのが第一印象。第二印象はエディ役の伊藤英明が棒読みすぎる、ということ。

ただその棒読みが上演全体に特に良くも悪くも作用していなかったので、まあこれはこれで…みたいな不思議な気持ちになった。妙な味わいがある…というか。

 

舞台美術全体としては天井が上下する流行りのタイプのあれで、どういう基準で上下しているのかは最後まで謎だった。キャサリンの目の覚めるような蛍光イエローのワンピースはポップで可愛かったと思う。あと室内の場面が多いのだけれど、登場人物たちがどういう基準で靴を脱ぎ履きしているのかは、日本的な感覚からすると結構謎だった。

 

全体的に特に心に引っかかるような場面がなく、面白味のない優等生的な上演だな、と感じた。

 

③『アナトミー・オブ・ア・スーサイド -死と生をめぐる重奏曲-』

文学座アトリエ(22日、13時)

 

知ってる先生が翻訳してるんだけど(結構おしゃべりしたことある先生で、なんか翻訳の口調がものすごく「ああ~あの先生っぽい!」という感じだったので、それは面白かった)、どうも上演で観るよりは翻訳原稿片手に原文で読んだほうがまだ面白いのでは?という感覚をぬぐえなかった、というのがぶっちゃけた本音。

 

一応説明すると、形式が結構とんがっている形の作品で、Aパート、Bパート、Cパートに分かれた3つの物語を舞台上に同時展開していく(原文戯曲は本を縦にめくる形で3列になっている)、というのが特徴。

 

〈Aパートのあらすじ〉

希死念慮持ちのキャロルが自殺未遂をして、病院で治療を受けたところから始まる。キャロルは妊娠ののち、「遺す」ためにプラムの木がある家を購入する。アナを出産し、娘のために「出来るだけ長くとどまる」ことを決意するが、電気痙攣療法を受けるものの改善はせず、誕生日の朝に自殺。なおキャロルと友人女性がキスをする描写がある。

 

〈Bパートのあらすじ〉

大学卒業後、薬物依存の治療のために入退院を繰り返していたアナ(キャロルの娘)は、ジェイミーという男性と出会い、結婚し、プラムの木がある家に戻る。その後ボニーを出産するが、そのことに大きなショックを受けてしまう。キャロルと同じように電気痙攣療法を受けるが、やはり回復せず、自殺。

 

〈Cパートのあらすじ〉

アナの娘ボニーは成長して病院の医師として勤務している。プラムの木がある家を売り払おうとしたが、次第にその家で多くの時間を過ごすようになっていく。一度、ジョーという女性と交際関係になりかけたが、うまく親密になりきれず破綻。プラムの木がある家で過ごすうちに、祖母と母とのつながりを感じるようになったボニーは、この繰り返しをここで終わらせようと避妊手術を決意する。

 

全体的にフーガ的な構成になっていてるのだけれど「三世代同時にセリフ発声されるとすごくうるさいな」と思ってしまって(戯曲自体は空白がかなり多くて静かな印象だったので余計にそう思った)、同時進行でやる意味が正直よく分からなかった。まあ三世代の話なので、連綿と受け継がれていく命の有り様を視覚的に表現しようとすると、同時進行という形になるのかもしれないけれど、3つの物語を順番に上演しても大して違いはないのではないかと思う。同じセリフを三世代同時に喋ったり、Aパートの人物の問いかけにCパートの人物が答えているように聞こえたりするような場面もあるのだけれど、それが何かとんでもなく面白い効果を生んでいるようには到底思えなかった。たしかに英語で上演すれば音楽的には面白いのかもしれないけど、英語の言語リズムで書かれたであろう音楽的な作品を、日本語のリズムに直さざるを得ない段階で、その音楽的な面白さの部分は半減(以上)しているのではないだろうか、と上演を観てなんとなく感じた。

 

あと、物語の女性たちが苦しんでいるのは、おそらく「女性とはこうあるべき」とか出産とかにまつわる社会的抑圧のせいなんだろうな、という予想は立つのだけれど(作中に明確には描かれないが)、それを血のつながりをベースでやられてしまうと、どうしても遺伝子決定論的な雰囲気(親が自殺したんだから子供も自殺したんだろ、とか、親が病んでるから子供も病むんだろ、とか果てはボニーが同性愛者なのは、もしかして祖母のキャロルが実は同性愛者だったからではないだろうか、的な考え方)を醸し出してしまっていて、観ていて大変に居心地が悪かった(遺伝子決定論、個人的に大嫌いなので)。こういう場合、もっと演出で「社会的な抑圧の方が原因ですよ~」ということを際立たせた方が良いのではないかな、と思ってしまったけれど、これは上に書いたように好みの問題かもしれないので何とも言えない。

でもそもそも、女性がメンタル病んで気が狂ってしまったり、自殺してしまう芝居って今のニーズに合っていないのではないかな、とも感じた。2017年の作品だから、その時と2023年ではまた状況が違うのだろうけれど、なんらかの精神的な苦痛を抱く3世代の女性を、ガラスケースに入れたみたいに並列させて比較することで、その苦痛の原因探しを観客にさせるような上演の構図に、ぶっちゃけ吐き気を覚えたことも一応書いておく。そんな簡単に希死念慮とか自殺に至った原因が分かってたまるかよ、と希死念慮持ちとしては感じた。

 

あと上演においては、基本的に下手からABCの順番で並んでいたのだけれど、たまにBACとかCBAみたいな並び方にシャッフルする演出が加わっていた。ただでさえ十分に混乱しやすい作品なのに、観客の頭をさらに疲れさせるこの演出に一体何の意味があるのだろう、ととても疑問だった。

それと、最後の場面、プラムの家を買いに来た母娘に、ボニーがプラムの果実を勧める場面で終わるんだけれど、そのとき、何にもなかった舞台上の背景に緑色が鮮やかに輝く庭が現れる演出がある。これはたぶん避妊手術をしようがしまいが、ボニーが連綿と受け継がれてきた生命の一個体であることは変わらず、これからの彼女の生を祝福する意味合いがあったのだろうけれど、ここをこうも美しく演出してしまって良いのだろうか、という疑問が尽きなかった。ボニーが避妊手術を志したのは、作中には明確に描かれてはいないけれど明らかに社会的な女性への抑圧が原因であって、それがなかったらボニーはこの選択をせずにすんだのかもしれないのだ。被害者がなんとか適応しようともがいた末に至った結末(本当はそんな必要などなく、変わるべきは加害者である社会のはずなのに)を、こうも美しく描いてしまうことの危うさの方を強く感じてしまった。

 

色々好き勝手書いたけど、ぶっちゃけ形式の面白さ以上の面白さが終始私にはよく分からなかったんだと思う。たぶん命をつなぐ、という行為自体を心の底では結構気持ち悪いと思っているので、そもそもの物語が全然好みに合ってないのが問題なんだろうな、となんとなく感じた。ごめん先生。

 

④木ノ下歌舞伎『勧進帳

東京芸術劇場 シアターイースト(23日、13時)

 

古典の現代化の好例だと感じた。衣裳は黒一色でまとめていて、ラップやダンスも入り乱れつつ、照明や音響の雰囲気なんかもクラブみたいなスタイリッシュさがあって、普通にかっこいい演出だと思った。ダンスの中に、ときどき歌舞伎や能から取ってきたのかな、という型の動きが入るのも面白い。セリフもそんな感じで古典から取ってきたものが混ざったりするので、古典の原作知らなくても楽しいけど、知っていたらいたで楽しい、みたいな絶妙なバランスだったと思う。

 

あと古典でもそうなのだけれど、よりいっそう富樫(坂口涼太郎)に比重を傾けたのが良かったと思う。最初は仲間からの差し入れのレッドブルすら飲まないぐらい権力とか規則側にがちがちに縛られている感じなんだけれど、弁慶(リー5世)が義経(高山のえみ)を打ち据えるのを見てかなりうろたえたり、弁慶たちの堅い団結や友情を見て心動かされたりする様子なんかが、歌舞伎よりもずっとはっきりと描かれていた。それを通して「自分はずっとがちがちに縛られたままの人生で良いのだろうか…?」みたいな考え方に富樫自身なっていくのがよく伝わってきた。最後に、富樫が、見逃した義経一行たちとピクニック&バカ騒ぎをするのは、そういう富樫の心境の変化によるものだと思う。幕切れのラジオ放送からも、この「見逃し」によって富樫が罰を与えられることは暗示されているのだけれど、そうだと分かっていても(馬鹿なことだと分かっていても)、一時の楽しみに身を投じてしまうのもまた人生の醍醐味だよね、という感じで、きっと富樫は、見逃した一行とバカ騒ぎをして楽しんだことを生涯後悔したりはしないだろうな、となんとなく思った。

 

あとキャスティングがとても良かったと感じた。みんなハマり役。

 

⑤『ラグタイム

日生劇場(27日、12時45分)

 

第二次世界大戦直前くらいの黒人差別とか移民問題とかを描いたミュージカル作品。キャストが派手で衣装もセットも豪華で、ザ・大型ミュージカル作品!ではあった。ただ私が馬鹿だからかもしれないけれど、この作品を「今」「日本で」やる意味がこれっぽっちも分からなかった。こんなの海外から持ってきてやるぐらいなら、同じキャスト使って、日本の差別の歴史とか移民問題の歴史とかに正面から向き合った(かつ簡単なお涙頂戴に流れない)オリジナルミュージカルをぶち上げて欲しい、と心の底から思った(と同時に、そんなの日本では無理か、とも即座に思ってしまったのが悲しい)。

 

あと、白い衣裳が白人、黒い衣裳が移民系、カラフルな衣裳が黒人を表していたの、たしかに「日本で」やるなら賢いやり方だとは思ったし別に駄目ってわけじゃないけど、「日本の演劇界ってほんとメインストリームには人種の多様性がないんだな」と改めて認識してしまいちょっと悲しくなった。

 

サラ役の遥海の歌声が、海外のミュージカルスターみたいでかっこよかったのが唯一の救いだったのだけれど、なんか物語内容とは全然別のところで、終始悲しくなってしまう作品だった。

 

2023年10月

①『ヒトラーを画家にする話』

東京芸術劇場 シアターイースト(1日、11時)

 

うっすらとした知り合いが出演しているし、前に全公演中止になってチケット払い戻した過去があるので、楽しみに観に行った。

ただ11時開演は早すぎんだろ、とちょっとキレた。でもこの日を選んだのは自分です。ザ・自業自得。

結果、今回観た9本の中で1、2を争う感じで評価が難しい感じの作品だった(もう1本は太陽劇団)。

 

物語はタイトルまんまで、美大生3人がひょんなことからタイムスリップしてしまい、画家を目指していた若きアドルフ・ヒトラーと出会ったので、「ここでアドルフを画家にできればホロコーストなくせるんじゃね?」というナイスな思い付きから奮闘していく…、という、ラノベとかなろう系とかのティーン向け小説で読んだことある雰囲気の歴史改変SFファンタジー、といった趣。

ちなみにこの美大生3人、あまりにも世界史の知識がふわふわしすぎていて「お前ら中学は出てんだよな?」と思ってしまった。それとも美大生ってみんな興味ない分野とかに対してはこんなもんなんだろうか…。あと絵画批評のセリフもふわふわしてたよね…。大丈夫か美大生…???

結構ドタバタコメディタッチなんだけれど、ユダヤ人同化の話とか、当時の女性参政権の話とかをさらっと拾っていて、素直に「上手いな」と思ってしまった(ただ、そのことで出てくる、画家を目指してるユダヤ人学生が、あまりにものっぺりとした模範的「善人」なので、そこは表面的だなと思った)。

最後、無理に歴史を大幅に改変するともとの時間軸に戻れなくなってしまうことを知った美大生たちは、大幅な改変を諦めてもとの時間軸に帰るのだけれど、そのもとの時間軸で、タイムスリップ前には発見されていなかったユダヤ人画家(もちろん上記の画家を目指していたユダヤ人学生)の作品が発見されていること、また、美大生がもとの世界に帰ったあとのアドルフ・ヒトラーの時間軸では、アドルフが親友に連れられる形で政治的活動の仲間から離れていく描写で幕切れになっていることからも、このタイムスリップが全くの無駄ではなかったことが示されて終わる。後味の良い作品だったと思う。

ただこのテンションで上演時間3時間弱だったので長すぎる、と思った。90分ぐらいがちょうどよいライトさ。もうちょっとコンパクトにした方がいいと思う。

 

3年ほど前、現役の高校教師から「今の高校生は”アウシュビッツ”と聞いてもピンとこないかも?」という話を聞きました。ヒトラーホロコーストのことは知っていても、それと「アウシュビッツ絶滅収容所」が結びつかないだろうと。私、とても驚いてしまって。若い人たちが歴史を知るきっかけになるような作品を作らないと!と思って作ったのがこの作品です(当日パンフより)

 

劇作家自身がこう書いてあるように、笑いあり涙ありのエンタメで、かつ考えさせるティーン向けの教育劇、という目線で見れば大変に良く出来た作品であると判断せざるを得ないと思う。実際に観ていてかなり楽しかったし。

 

ただこの物語の主題は、美大生3人(そのうちの特に1人)の自己実現なのだ。そもそもアドルフを画家にしようとしたのだってその1人の卒業制作のためだったし、物語の山場では、社会がどんよりしていて、好きなものを胸張って好きって言いづらくても、胸張って好きって言うのって結構大事だし、そうやって好きなものを選び取ることが、ささいなことかもしれないけれど自分、ひいては社会のためすらなるんだ、というメッセージが前面に出てくる。物語の最後で、画商の父から画商になることを強く勧められていて悩んでいた1人が、自分は絵を描くことが好きなのでやっぱり画家になる!と大宣言をぶちかまして終わるので、メッセージとしてはやっぱりこの辺に重点があるのだろう。

 

このメッセージ自体は何の問題もない。素敵なメッセージだと思うし、進路選択に迷う高校生なんかは勇気づけられるかもしれないな、とも感じる。

 

問題なのは、なんだか、ぶっちゃけちょっとノーテンキで薄っぺらいこの自己実現とかこのメッセージを伝えたいがために、ユダヤ人迫害の歴史を「利用」している感じがどうにもぬぐえないということだ。そんなことに「利用」していいものではないことはよほどの馬鹿じゃない限り分かっていると思うので、上演側にそんなつもりはないというのはもちろん分かっている。分かっているのだがどうしても、歴史を扱った作品内に言語化できてしまうメッセージを組み込んでしまうと、そのメッセージを伝えたいがためにその歴史を都合よく切り取って利用したような構図に見えてしまうのは、避けられないことがほとんどなのも事実である(その歴史が「深刻」なものであればあるほど、そのメッセージが他の文脈で表現可能であればあるほど、そのように見えてしまう)。今回に関しては、明るくノリのいいタッチと相まって、その辺がかなり危ういな、と正直感じてしまった。

評価が難しい、と最初に書いたのはそういう理由からだ。観た直後にこう感じてしまい、当日パンフを開いたらティーン向けの教育劇ということが分かって、それなら、と評価を上方修正した、というのが実際のところだ。

 

重ねて言うが、公共劇場において安い値段でやる教育劇、という視点から見ると、とても良く出来た作品だと思う。ただ、芸術か、と言われると正直答えに詰まるのが本音。

歴史を扱った芸術を鑑賞するといつも考えることがある。たとえば引きこもりのおばさんの生活を描いたり道端の石ころを描写することよりも、革命や虐殺といった歴史的事実を作品で取り扱うことのほうが、何かしら重さのあること(重要なこと)として捉えられてはいないだろうか。もしそうなのだとすればその価値判断を強いているのは一体何なのだろうか。それは社会的規範ではないのだろうか。そして少なくとも近代以降の芸術は、そもそも、その社会的規範に何らかの形で穴をあけたり、宙ぶらりんにしたり、曖昧にさせたりするものではなかったのだろうか。

社会的規範が重要だとしているから重要なものとして歴史を扱う、という姿勢で作られた作品というのはなんとなく分かるものだ。今回だって(社会的規範的に)歴史を学ぶことは重要だから高校生とか向けに書いた、ということが明記されている。私はこういう作品を芸術と呼んでしまうことにどうしても抵抗を感じてしまう。それは芸術ではなく、教育の範囲に入るものではないのだろうか、と思ってしまうからだ。

 

まあ、いろいろぐちゃぐちゃ書いたけれど、長すぎたこと以外を除けば、知り合いの豹変っぷり(舞台ではかなり嫌な奴だったと思うが実際はマジの陽キャコミュ力お化けの好青年)も楽しかったし後悔はしていない。ただ若者組より大人組の方の演技が上滑りしてる感じがあって、普通逆じゃないのかな、となんとなく思った。

 

②『漁師グラフス』

@シアタートラム(7日、14時)

 

漁師グラフスが狩りの途中で崖から落ちて死んでしまう。しかし死の国へ向かう小舟が航路を誤り、1500年以上にも及ぶ旅をし続ける羽目になる…、というカフカの未完小説の舞台化。

一糸座の『少女仮面』が面白かったから、と先生に勧められて観に行ったのだが、正直期待外れだった。

 

前半、サイコロで遊ぶ人々、うめく女、漁師と鹿、街の営み、何かを運ぶ水夫、水夫に指示をする提督、赤ん坊を連れた女、鳩に餌をやる女、歩みのやたら遅い老人、老人をどこかの家の中に招く提督…みたいな謎のイメージが無言で展開される。

 

そしたら水夫が運んでいた荷物がほどかれて、その中身が老いたグラフスだったこと、歩みの遅い老人、はグラフスが長い旅路の末にたどり着いたリーヴァという街の市長であり、市長はグラフスがたどり着くというお告げを鳩から聞き出迎えたことなどが明かされる。

 

それ以降はグラフスが、前半のイメージの絵解きみたいな自分語りをバーッと進めていく。

最後グラフスは、結局リーヴァにも留まることなく、これからも漂い続けることを宣言して幕だった。

 

文脈が分からないままおもむろにアルバムを見せられ続けたと思ったら、一通り見終わった後でその文脈を説明されるというなんだかパッとしない構成で、前半のイメージの展開は割と興味深く観ていたんだけれど、それの絵解き(答え合わせ)になった瞬間正直めっちゃつまんないな、と思った。漂い続けるグラフスは可哀そうだとは思ったけれど、このつまんない構成で何がしたかったのかよく分からない。

あと何個か絵解きのされないイメージもあるのだけれど、その中に複数の不穏な女のイメージがあった。ぶっちゃけこれはキャスティング見る限り、俳優の出番づくりのために無理矢理入れ込んだイメージなのではないか?と邪推してしまった(めんどくさくて原作小説読んでないのでなんとも言えないけれど)。

 

糸操り人形はたしかにかわいかったしすごかったけれど、このくらいすごい人形さばきは、ジャンル違うけど文楽とかでいつでも観られるからなあ、という感じで、すごいけど、だから何?と思ってしまって特に楽しめなかった。勧めてきた先生を恨んだけれど、もう1本ぐらい一糸座の公演観てから、これからも観に行くか捨て置くか決めたいなと思った。

 

③『パフォーミングアーツ・セレクション2023 in Tokyo』

@東京芸術劇場 シアターイースト(22日、14時)

 

2本の小作品のつめあわせ的な公演。

 

『あいのて』

同じ2人(島地保武、環ROY)による前作『ありか』はラップとダンスによるラップバトル形式だったので、正直二番煎じになるんじゃないか、と、心配しながら観に行った。

結果、二番煎じといえば二番煎じだけど、私は割と面白く観た。ただダンス公演観に来たつもりの人ならキレるかもしれない、と感じた。

 

やっていることとしては、芸人のコント形式にかなり近い。語り(ラップ)と動き(ダンス)の掛け合いによって話題が連想ゲームのようにどんどんぽんぽん次に飛んでいく(基本的に環ROYが語りで島地が動きだが、両者どちらも担当している)。ただ扱っている内容が生と死とか意識と記憶とか割と哲学的な内容なので、以下の記事に書いてある通り「哲学的コント」と言うのが的確なような気がする。

niewmedia.com

 

そのコントのなかで語られている内容は、たしかに『ありか』よりはまとまりがあるのだけれど、じゃあ説明しろ、と言われて説明できるほど私の語彙力はない…というのが本音。ただ何か特定のメッセージがあるというよりは、語りと動きでコント(バトル)ができないか?という試みの途中経過みたいなものを感じた(ここが二番煎じっぽいと言えばぽい)。上手く言えないけれどワークインプログレス的なあれ…(語彙力)。公演ごとにセリフとか内容が大幅に変更されていたとしても別に大して驚きはしないな、と感じた。

 

ただなんか『ありか』でも感じたんだけれど、あんまりこの2人、マッチしている感じがしなくて、異質なもののぶつけ合いによる化学反応を毎度楽しんでいる感じがする。あとこの主に環ROYが担当する言語表現と、主に島地が担当する身体表現の、なんとも言えないマッチしてなさ、かみ合ってなさこそ、この作中で結構な尺をとって語られる意識(言語表現)と身体(身体表現)の関係性に対する1つの解釈なのかもしれない、と感じた。

でも、結構ぐるぐる頭でっかちに考えないと、上に書いたようなことにすら辿りつけないと思うので、普通のダンス作品を楽しむ心積もりでいた人がうっかり観てしまってキレたとしても私は驚かない。あとコントということで笑いを取るシーンが結構あったんだけれど、正直笑いのレベルは低かったと思う。まだ普通の芸人のコントの方が面白い。

 

それにしても環ROY岡田利規『掃除機』で観た時も思ったのだけれど、絶対に下手に刺激して怒らせたらヤバい人感がとにかくヤバい。なんであんなにヤバい雰囲気持ってるんだろうあの人。

あと単純にラップとダンスのソロパートは、それぞれの本領発揮という感じで観ていて楽しかった。

舞台美術に関しては、基本何にもない感じだったんだけど、真っ白なホリゾント幕に、照明のせいで3色に分裂した2人の影が映りこむ瞬間が多くて、その影の重なり合いはとても綺麗だった。

 

『Can’t-Sleeper』

女性ダンサー2人による「不眠症」をテーマにしたコンテンポラリーダンス作品。『あいのて』と比べるとかなりオーソドックスな印象があるが、眠れない夜の、心の中はぼんやりしているのに、意識だけ妙にはっきりしてしまった覚醒状態の質感が、非常に良く表現されている作品だと感じた。

特に、横で誰かが眠ってしまった時、1人ぽつねんと残される表現があったのだけれど、「うわ~誰かと暮したことある人なら絶対経験あるやつ~!!」と妙にテンションが上がってしまうくらい、その表現によって醸し出される夜の雰囲気が秀逸だった。

 

最後、休憩中に観客からアンケートを取った(「眠れない夜はどう過ごしますか?」という質問内容)回答を読み上げて、徐々にその声がフェードアウトしていく感じで終わりだった。アンケートを取った瞬間から、まあこういう使い方をするんだろうな、という予想通りの使い方だったけれど、「眠り」とか「不眠」の「共同性」を表現するのには結構良い感じに働いていて、別に尖った作品ではないけれど、優しくて繊細な作品だな、と感じた。

 

結論:セレクションだったにしても、なんでこんな系統が違う2作品をまとめてやろうと思ったのかが、マジで謎。マジでなんで???

 

太陽劇団『金夢島 L'ILE D'OR Kanemu-Jima』

東京芸術劇場 プレイハウス(25日、14時)

 

なんだか、とても朗らかで余裕のある上演だと感じた。夢の話なせいもあってかなり詩的に展開してくので正直引っかかる部分ありまくりなんだけれど、どんな人間がどんな人間を演じても良くて、文化とは誰か特定の人のものではなくて文字通りみんなのものである!という、ある意味ユートピア的な演劇観に支えられた上演だったと思う。この嫌味のない無邪気さ、朗らかさ、余裕さと比べてしまうと、なんだか色んな演劇作品の上演って、とっても窮屈そうだな、と感じた。

 

ただ、扱っている内容としては、コロナのこととか、イスラエルの戦争のこととか、特攻隊のこととか、本来あんまり軽く扱ってはいけないと社会的にはされていることを、ものすごくサラっと無邪気に扱っているように見えてしまう部分もあるにはあるので、この辺が無理で受け入れられない人は絶対にいるだろうな、というのも同時に感じた。

 

細かいところで言えば、裸の場面で、裸を模した全身タイツを着ているのが頭いいと感じた。全部モロ見えなんだけれど、全部隠れていて、もう裸の場面みんなこれでいいじゃないかと感じた。

あと能舞台らしきものが多様されるのは、夢の話だからか、世阿弥が流されたのが佐渡(金夢島)だからかは謎だった。ただ覚えている限りでは、屋島』『隅田川』『羽衣』の謡も、場面に合わせる形で使用されていたので、能を知っていると(少なくともこの3作品の内容を知っていると)たぶんちょっと作品の解像度が上がると思う。

 

全体的に舞台美術のサイズ感がプレイハウスにぴったりで、なおかつ海外招聘公演の中ではかなり字幕が読みやすく、まあ今後太陽劇団なんて観る機会があるかも分らんし、観られて良かったかな、とは思う。

 

一足先に2023年振り返り(今年はもう生観劇しないので)

今年の生観劇数は31本でした!休学中で、実家の青森にいる期間の方が長い割には、まあ観られた方なんじゃないかと思います。倉田翠と村川拓也の新作が観られないことだけが心残りですが、まあしょうがない、今は休もう!!(言い聞かせる)きっと来年またなんか面白いのやるさ!!

 

今年の個人的ワースト作品はぶっちぎりで4月『帰ってきたマイ・ブラザーでした。マジで右京さん(水谷豊)がこの世に存在したことを確認できた以上の収穫がない。あまりのつまらなさにあなたも椅子から立ち上がれず途中退場すらままならないこと請け負いです☆

 

個人的ベスト作品はぶっちぎりで5月『虹む街の果て』。理由はただ1つ。ぶっちぎりで変だったから(なのに妙な満足感があったから)。未だに思い出して反芻している。場面場面で何をしているのかは分かるけれど、全体で見ると未だに何が何やらさっぱりの作品です。素敵すぎる。こういうのがもっと観たい。

あとは次点に2月木ノ下歌舞伎『桜姫東文章と同じく9月木ノ下歌舞伎『勧進帳と3月岡田利規『掃除機』が横並びしている感じです。

 

あとは番外編として、妙に頭に残ったで賞!3月『ジキル&ハイド』!私の頭の中でクソデカ換気扇ミュージカルとして燦然と輝いています。何の話か分からない人はぜひ以下の該当部分を読んでみてください。

 

monsa-sm.hatenablog.com

 

 

そんなこんなで2023年でした(落ち着いたら今度NTLiveのちょっとした感想記事もあげる予定ですが、あれはあくまで番外編なので…)

来年は復学する予定なのでもっといっぱい観られたらいいな!と思います。来たれ修論に値する作品!!

あと今年も演劇界でクソみたいなニュースが続きまくってるけど、めげずに頑張ろうね!!観劇勢!!