感想日記

演劇とかの感想を書きなぐってます。ネタバレはしまくってるのでぜひ気をつけてください。

最近観たNTLiveのちょっとした感想

タイトルまんまです。この間連続で更新してた感想の番外編として『レオポルトシュタット』『かもめ』の感想書きます。

ちなみに『かもめ』日本橋で観たんですけど(そしてそのまま上野から青森に帰った)、めちゃくちゃ満席でビビりました。『レオポルトシュタット』はいつも通り池袋でした。なので案の定ガラガラでした。

 

 

『レオポルトシュタット』

シネ・リーブル池袋(2023年1月12日、14時5分)

 

みんな思っててもTwitterとかでは言いにくいから言ってないだけだ、と確信しているので言うけど、この上映を観ると、新国立劇場での上演はマジで駄目だったとしか思えない。変に敬語が混じっていない字幕も、セリフをきちんと理解している俳優も、当時のオーストリアらしいシンメトリーな舞台美術も、抑制のきいた演出も、何もかもが(当たり前だけど)新国立劇場での上演を上回っていた。元の戯曲の素晴らしさが損なわれずに上演されているものを観ている、という幸福感のある上映だった。

本当にNTLiveの上映が新国での上演に先立ってなくてよかったね、と(全く皮肉ではなく)言いたくなるレベルの差だった。

 

ただNTL版では幕で区切る演出だったのだけど、新国版の方は盆が回ることでわりとシームレスかつダイナミックに舞台転換していたことを思い出して、それは結構エモくて好きだったんだな、という発見があった(ただ後にも書くけど、この「エモさ」は結構問題な部分でもある)。一族の話なのに、幕でブツブツ「区切る」のはちょっとなんだかな、と思ったし、あとその幕に当時の写真とか映像とかを投影していたのは、あんまり効果的だったとは思えない。

効果的だったとは思えない演出はもう1つあって、冒頭、1955年のローザ、ナータン、レオが薄暗い中、舞台前面に立っている演出。その後ろに1899年の人物たちが出てきて、1899年の人物たちが第一幕を開始すると、前の3人は名残惜しそうな感じでハケていく(ローザだけは1899年の自分を結構長く見つめてからハケる)、という感じだった。正直、この演出は戯曲を読んでいるか、観るのが2回目以降の人しか分からない演出だし、1955年の場面に1900年の場面がなだれ込んでくる場面がもともと戯曲にあるので、同様のことを冒頭でやる意味がよく分からなかった。

確かにこの演出があると、全体が回想構造っぽくなるけれど、それ以降舞台上にいる(1955年以外の)人たちが「回想」の中の存在になってしまうので、それはちょっと戯曲がやりたかったこととはズレるのでは…?というのも疑問だった。

 

それとナチスの取り巻きみたいな人たちが何故かドイツ語で喋っていたので、「じゃあお前らの上司含めその他の英語で話している人達は一体何語を喋っているんだ…?」と普通に突っ込んでしまった(てか『レオポルトシュタット』のドイツ語上演は普通に観たい)。

 

あと、この上映を観る前後にペルシャン・レッスン 戦場の教室』を見ていたのでそのせいかもしれないけど、『レオポルトシュタット』も失われた名前と記憶を取り戻す物語なんだな、と納得した。登場人物がやけに多く、初見の観客はたぶん誰が誰だか分からないのも、「覚えていたいのに忘れてしまった」という感覚を観客に共有させることで、「覚えていなければいけないのに忘れてしまった」という1955年のレオの状態にある程度観客の心理を重ねる、作劇上の工夫なのだということがようやくわかった。

それと、最後ナータンを演じているのがルードヴィクを演じた俳優で、(見間違い、記憶違いでなければ)レオを演じるのがパーシーを演じた俳優だったというのも、「どんな形であっても家族なんだな」と思えて、エモいポイントだった。

 

ただ、もともとの戯曲もかなり感動的なつくりになっているし、だから演出でもエモいポイントを作りやすいのだと思うのだけど、そもそもホロコーストの話を感動的に(感動として「消費」できてしまう形に)ウェルメイドに描く倫理的な居心地の悪さが強かった。特にNTL版だと、その他に際立って指摘できるアラが全然ないため、新国版よりも強く感じた気がする。

当事者でない俳優が、まるで絶対になれない当事者に「なった」かのように「熱演」している(しかも心動かされるほど上手い)さまも、映像でこれだけの気持ち悪さを感じるのだから、生で観たら余計にそう思うだろうな、ということを思ってしまった。

ただまあ、劇作家自身の半自伝的作品、ということでなんとかギリギリセーフなのかな…たぶん…。この手の作品を「誠実」にやるのは、はっきり言ってかなり難しいんだと思う(実際えらい人たちも難しいって本で書いてるのを見かけたことがある)。

 

これだけ1つの「ドラマ」として完成しているのだから、そういう問題を観客に感じさせにくく、演劇よりも「ドラマ」を伝達するのがはるかに得意な映画でやった方がたぶん適切なのではないか…ということを思ってしまった(ちなみにすぐ「映画でやれば」と思うのは私の悪い癖)。

 

ただ、レオがイギリスの観客目の前に、変なイギリス自慢をするところのおかしさったらなかった。これは演劇ならではだと思う。あと全体的にもともとテクストにあるユーモアを殺してなかったのも(当たり前なんだけど)すごく良かったと思う。

 

『かもめ』

@TOHOシネマズ日本橋(2023年2月11日、11時)

 

現代設定の翻案ということで、かなり元のテクストからいじっている(ミニマムになっている)印象があった。あとTwitterの方でも書いてたように、ニーナの年齢が28歳になってたような気がして「さすがに28歳であの言動はイタすぎる…」と思ったのだけど、たぶん私の見間違いだと思うから気にしないことにした(ただ28という年齢は間違いなく出てきているので、なんで28??と謎だった。たしかソーリンが働いていた年数も28年だったとは思うけど…)。

 

演出はシラノ・ド・ベルジュラックに引き続き、近年のロイド演出らしい(私は最近のものしか知らないのだけど、前は逆にド派手で過激な演出が多かったらしい?)大変にミニマムなものだった。俳優は全員とてもラフな格好で裸足。舞台美術は三方囲まれた箱のような感じで、椅子が人数分。本当にこれだけ。かもめも出てこない。

ただ2回ある発砲シーンでは、結構な音とともに舞台全体が強烈なストロボで照らされたように激しく明滅するので、ショッキングな部分はわりとショッキングになってた。

 

椅子によるフォーメーションの変化はありつつも、基本的には等間隔に並べられた椅子に客席の方を向いて座って俳優たちが、映画みたいなリアルな発声で(もちろんマイクを使っているので余裕で聞こえる)セリフを喋っていた。正直シラノ・ド・ベルジュラックでも観たような演出だな、とも思ったのだけど、相手の話を聞いているんだか聞いていないんだか(おそらく相手の方を「向いて」いない)登場人物が多いチェーホフ劇にはぴったりの演出だと思った。

そして、余計なものを一切そぎ落としているからか、俳優が抜群に上手いからか、セリフが一言一言ものすごく響いてきた。なんでもないところのセリフですらこんなに「入って」くるのか、とものすごく感動した。

 

また、出番のない俳優は舞台奥とか脇とかの壁ぎわに椅子を持っていって座っていた。基本的に、ニーナを演じている俳優以外は、疲れ切ったうつろな目をして座っていた(微妙な個人差があって、これはおそらく演じている登場人物の心情を反映しているのだと思う)。結構前向きなことを言っている登場人物でも、結局は人生に疲れきっているんだ、ということがとてもはっきりと伝わってきた。本当にチェーホフ劇の登場人物はもれなく全員人生が詰んでいる。この雰囲気は最終幕でI'm so tired!と言い放つニーナのセリフのあたりで頂点に達していたと思う。

また、前半から中盤、明るい夢見るようなまなざしで座っているニーナが、周りのうつろな登場人物との対比もあり強烈に印象に残っていて、まるで、人生はきっとよくなる、自分は満足した何者かになれる、という希望を目だけでは見つめながらゆっくりと放物線を描きながら落下していくかもめだな、とその後のニーナが辿る境遇を知っている観客としては思った。

 

なお休憩前、戯曲だと第3幕おわり、トリゴーリンとアルカージナが島から出発するので、みんなが見送るためについていく感じになっていたのだけれど、その時コースチャ以外はみんな舞台を降りて、客席通路を通って出ていっていた(コースチャだけはずっと舞台上にいる)。そのせいで、三方を壁に囲まれた舞台が、閉塞的な島そのものに見えてきて、「うわこの演出めっちゃ効果的!」と感動した。

そして休憩に入ってもコースチャが舞台上に横たわってなにかしそうな雰囲気だったのだけど、膀胱の限界は突破できず、詳しくは知らない。一旦なにも無くなった舞台に、みんなが椅子持って集結してきて第4幕開始だったのは覚えている。

 

第4幕(休憩明け)ではちょっと舞台美術が変わっていて、舞台奥の壁が9割無くなっていた。たぶん閉塞的な島を、ニーナは物理的に、コースチャは(詳しいことはわからないけれど)知名度的に「飛び出した」からなんだろうな、と思った。

あとコースチャの分の椅子がなくて、コースチャが床座りしていて謎だったんだけど、最後のニーナとの邂逅の時に、ニーナと1つの椅子を半分こして座って話していて、にくい演出だなと思った。この時に至ってもなお、ニーナの心はトリゴーリンに向いていることを考えると、コースチャとニーナが肉体的に近ければ近いほど寒々しかった。

 

そして、最後の場面では椅子のフォーメーションが上から見るとゆるいV字、つまり空飛ぶかもめの形になっていた。その中央にニーナが座っていた。なおコースチャは幕切れまでずっと、つまり自殺したあとも、ニーナの前の床に、舞台から観客席に足を投げ出す形で座っていたと思う(正面から見るとニーナとコースチャが重なって見える)。

戯曲にあるかもめのはく製の話(以前に、コースチャが撃ち落としたものをトリゴーリンがシャムラーエフに頼んではく製にさせたという話)が原作以上に強調されているな(原作ではコースチャの自殺の前でその話は終わりなんだけど、自殺の後も続く)、と思ったら、突然ニーナに強く光があたり「それ(かもめのはく製)はコースチャのものだ」と誰かがセリフを言う。ニーナが痛々しく微笑んで、突如ぷつっと電球が切れるように真っ暗になって幕だった。

 

実は、言いたいことはわからないでもないのだけれど、この明らかにニーナ=かもめのはく製とし、なおかつそれがコースチャの「もの」であるという表現は、ちょっとニーナという女性をトロフィーみたいに「もの」扱いしているみたいで、やや引っかかった。

もちろん、ニーナとコースチャは正面から見れば重なっているし、実際にかもめのように撃ち落されたのはコースチャで(そして自殺の後は、それこそはく製のように微動だにしない)、ニーナは命からがら逃げ切っているので、コースチャ=かもめのはく製=ニーナと見ようと思えば見れなくもないけれど、にしたってやっぱりニーナばっかりに光が当たってたので厳しいな、と思った。

個人的には、トリゴーリンからもコースチャからも撃ち落されずに(死なずに)ボロボロでも逃げきり、そしてそんな状態でも希望を失わずに生きていくのだろうなと思わせる、ニーナの強さをたたえるバージョンの演出とかもあってもいいんじゃないかな、と思った。

 

あととにかく俳優が当たり前にみんな上手かったのだけど、アルカージナを演じていた俳優の大女優っぷりと、マーシャを演じていた俳優の卑屈っぷりが最高にキュートだった。それと、トリゴーリンをかなり若い俳優が演じていたのも、突然の成功に戸惑う若者感があって、妙に説得力があった。とにかくユーモアたっぷりに笑えたのも、チェーホフ原作として最高だと思った。

 

あとは愚痴です。

『かもめ』観に行った時にとなりにカップルが座ってたんですけど、彼氏の方が彼女の方に向かってNTLiveたくさん観ている自慢とか、海外の配信とか日本の小劇場系の演劇めちゃ観ている自慢とか、この『かもめ』はエンタメ寄りではないから(彼女にとっては)楽しくないかもうんちくとかを上映前と休憩中に繰り広げていて、まあそれは「彼女さん大変だろうなあ…」と私が余計なお世話を感じたくらいで別に良いんですけど、全部終わったあとに「なんでコースチャ役にわざわざ障がいのある俳優使ってんだろ。変なの。なんか特別な意図とかあるのかな。俺的には演出意図的に特に意味なさそうだし普通の俳優使えばいいのに」(大分オブラートに包んでこの言い方)とか彼女に向かって気取っていて、心の中でめちゃムカついていました。

特別な意図とかなくても普通にその俳優さんが今回のコースチャ役にぴったりだと演出家が思ったら障がいのあるなしとか関係なく起用していいんです~、てめ~ぜって~演劇そんなに観てね~だろそんなんで詳しいふりするんじゃねえよ(怒怒怒)(にっこり)。

 

「障がいのある俳優さんでもいいんだ!」というポジティブな驚きなら「初めて観たんだな。日本のメインストリームの演劇だと悲しいことにあまり見かけないからあの人の世界が広がって良かったな」と超おせっかいなこと思って終わりだったんですけど、「普通の俳優使えばいいのに」にはちょっとかなりキレましたね。私もコースチャ役の俳優さん初めて観たけど普通に(というかその辺の日本で活躍している俳優さんより)上手い俳優さんでしたけど???(圧)

 

とにかく愚痴が止まらないんですけど、『レオポルトシュタット』『かもめ』も叫ばない/がならないだけでもう高評価を押したくなりました。こういう演劇が日本でもたくさん生で観られればいいのに…。

 

てなわけで、またしばらくブログは休止状態に入ります。もしかしたら4月上旬に更新するかもしないけれど、しないかもしれないです。

あと、例の賞のやつが主演のファンの方々に見つかったようで、発表ツイートがえらいのびててビビりました。発売されたときに「自分が思ってたのと違う!こんなの間違っている!批判してやる!!」ってなられて批判されたら豆腐メンタルなので耐えられる自信がない…と今からちょっと心配してます…。エゴサはしないと心に決めた…(まさかこんな心配をしなければならないとは聞いていないぞ先生…)。

ピーピング・トム『マザー』@世田谷パブリックシアター

木ノ下歌舞伎『桜姫東文章の感想を書いて力つき、昨日は更新できませんでした。毎日更新チャレンジは失敗です。残念。

 

今回は、夜公演しかやっていなくて、夜は家にこもっていたいパーソンからすると「どうして昼公演を1回でいいからやってくれないんだ…」とうめきながら観に行ったピーピング・トム『マザー』の感想を書きます。

感想書きます、と書いておいてあれなんですが、コンテンポラリー・ダンスはようやく両手かな?程度の回数しか観たことないんで、毎回観る度に「???」となっています。今回ももれなくなったので、超短い感想です。

 

ピーピング・トム『マザー』感想

世田谷パブリックシアター(2023年2月6日、19時半)

 

どうも家族経営の美術館みたいな、でも病室でもあり、私室でもある不可思議な空間で、お母さんの葬式とか、出産とか、出産にまつわる不安とか、子供の病気とか、そういう、言われてみれば「マザー」に関わるかな?みたいな場面がダンサーによって展開されていく。

意外と普通の演技のパートも多くて、笑いどころの多い作品だったのでちょっと驚いた。

 

物語も一応あるみたい。英語のセリフも一応全部事前に配布された資料で確認はした。ただ理解力が及ばず、終始意味が分からなかった。

あと物語が進むにつれて、壁にかかっている絵が、どんどん「お父さん」の若いころの肖像画にかけかえられていくのは、結構謎だった。

 

全体的に、美術館という設定もあってか、シュルレアリスムの絵画が動いているような印象を個人的には受けた。

 

まるで軟体動物のように動くダンサーの身体能力と、「怒り」とか「不安」とか「焦燥感」といった感情が舞台上からダイレクトに伝わってくるのが、さすがダンス!すごいなあ!と感動はしたのだけれど、やっぱりダンスをあまり観慣れていないし、ダンスを批評的に観ることも積極的にしてこなかったので「よく分かんなかったけどなんかすごかった」としか言えない…。

 

やる気があったら今度最近観たNTLの感想も書きます。

あと隣に座ったおじさんの呼吸音が、劇場全体に響き渡るくらい大きくて、終始気が散ってしまったのも、こんなほんわりした感想になってしまった原因な気がします。

それと、ダンサーの方がかなり全裸に近い状態になる場面があるんだけど、何故かふんどしみたいなパンツは履いていて「あれもしかして海外での(たとえばドイツとか、ジャーマンとか!!)公演だときちんと全裸なんじゃないだろうか…」と余計なこと考えてしまったのもおじさんの呼吸音のせいな気がします(ひどい)。

ドイツの舞台はとにかくすぐ脱ぐ。ほんとにすぐ全裸になる。

 

ダンス公演、観るのはわりと好きなんですが、毎回「結局なんだったんだ…?」となってる気がします。反省。

木ノ下歌舞伎『桜姫東文章』@あうるすぽっと

たぶん2月8日かな、そのあたりに演出が変更されたらしいと聞きました。どうもその他の情報からも、私が観た時からラストが変更されたのは確からしいです。

若手の俳優さんとかがロングラン公演で後半めっちゃ上手くなるのとか、アドリブの客いじりが毎回違うのとか、怪我したのでちょっとそれに合わせて演出変えるのとかはライブ・エンタテインメントとしての楽しみでもあり、しょうがないところでもあるな、と思っているので別にいいんですけど、こういう風に(おそらく俳優さんが怪我したわけでもないのに)演出までもが「進化&深化」されると、「そういう試行錯誤は初日までにやっておくのが『お仕事』なんじゃあないですかねえ…」とか意地の悪いこと思ってしまいます。

 

しかも初日にやってみて客の反応観て変えるならまだしも(それならプレビュー公演やれよ、とは思いますが)、東京公演も後半になってから変えるってどういうこと?客(消費者)なめてんのか?なんである程度のクオリティ保ったものを求めてチケット買っているのに、その一定のクオリティの柱である演出を前半と後半で大幅に変えてくるの?

そんなんじゃ新規客離れてくの当たり前じゃない?!

 

と、モヤつきとイラつきが止まらないんですけど、個人的には観ていて久しぶりに楽しかったし、岡田利規さん(例の「世界のオカダ」!には笑いましたが)の演劇は好きだなあ、と改めて思いました。なのでイライラするのはここまでにします。たぶん。

 

木ノ下歌舞伎『桜姫東文章』感想

@あうるすぽっと(2023年2月6日、12時半)

 

舞台の上に舞台がある感じになっていて、どうもあるプロダクションというか劇団が桜姫東文章を上演している、といった設定の上演のようだった。

 

 

私の描く図がかなり雑なのはおいておくとして、清玄の幽霊だけは誇張じゃない、というかかなり上手く描けたという自信がある。色も白黒でまさにこんな感じで、我ながら上出来だと思う。映画『NOPE』の後半で大活躍する、下から空気を送り込んで成形するアレである。出てきた瞬間吹き出した。最高。

 

劇団員と思しき俳優たちが舞台の準備をしはじめることで、ぬるっと上演がスタートしていた。あと舞台奥の上手寄りにDJがいて、この辺も歌舞伎っぽい(歌舞伎、というか古典芸能だとよく演奏者が見える状態で演奏する)なと思った。基本的に劇中劇である桜姫東文章に出番のない俳優たちは、休憩スペースで座ったり、衣裳を替えたり、寝そべったり、水飲んだり、お菓子を食べたり、目薬をさしたり、とかなり自由に過ごしていた。

ただ複数回観た方からの情報によると、自由に見せているだけで、実際は細かく動きが決まっていそうな様子だったとのこと。というか岡田利規の舞台で俳優が自由に動くのは考えづらいから、たぶん振り付けとして固定はされているのだと思う。

 

そういう風に自由に過ごしながら、舞台上で演技している仲間に向かって架空の大向こうをかけていた。なお大向こうの対応表が出演者のTwitterに載せられていた。

 

 

番外編としては「にこいち」「まってました」「ひさしぶり」などがあった。この架空の屋号と、大向こうが聞いていて結構面白かった。

全然関係ないけど、私はカレーが大好きなので、自分だったら「かれーや」がいいなと思った。

 

また、いわゆるブレヒト的に、それぞれの場面が始まる前に、舞台奥に投影した字幕で場面の要約を説明していたのだけれど、少なくとも異化効果はなかった気がする。そもそも俳優の演技自体がかなりチェルフィッチュ的なため、あえてブレヒト的な異化の手法を持ち込む必要もないし、演出意図としても「結構人物関係ややこしいから説明するね」ぐらいのものだったのではないかと思う。

そもそもブレヒト的な字幕が、現代においてどのくらい異化の手法として成立するか、という根本的なあれもあるけど…。

 

そしてたぶんなのだけれど、私が今回の上演が楽しかったのは、このチェルフィッチュ的な演技を生で観られて、結構デトックスができた気がしたからだと思う。というのも1月とかに観ていた演劇がわりとメインストリーム寄りで、熱演するし、叫ぶしで、かなりぐったりしていたのだ。なんでぐったりするのかは、岡田利規自身が結構言語化してくれていて(「アレルギー」という語の使用には「アレルギー」持ちとしては引っかかるところがあるのだけれど)、おおむねこういうことなんじゃないかな、となんとなく思っている。

book.asahi.com

 

特に非人たちを1人で演じていた石倉来輝と、松井源吾を演じていた板橋優里、あとお十を演じていた安倍萌が最高に良かった(全員他の役も演じていたけれど特にこの役を演じていた時が本当に良かった)。前の2人は「『三月の5日間』リクリエーション」に出演していたらしいし、安倍萌はダンサーだし(すごく身体のラインが綺麗だったので、あとで当日パンフでダンサーだということを知って納得した)で、たぶんチェルフィッチュ的な演技が相当上手かったのだと思う。

逆にこの3人以外の俳優はそこまで強くチェルフィッチュ的な感じはしなくて、チェルフィッチュ的な演技をする人としない人で分けていたのかどうなのか、すこし気になる。

 

このチェルフィッチュ的な演技、つまり言葉と仕草のズレが激しい演技(ズレが大きくなればなるほど、その言葉と仕草のひとつの源になる「イメージ」=「シニフィエ」がどんどん拡散していき、結局俳優の身体が表すのはその拡散しきってぼんやりした「イメージ」であり、突き詰めると何も表現しないままの身体が舞台上に投げ出されている状態になる演技)は、個人的にかなり好きで、それを生で観られた、というこの1点だけで、結構楽しかった。こういう場合、俳優は「役を演じる」のではなく基本的にはその「イメージ」を豊かにしているだけであるから、上手く言えないのだけれど「ぶっちゃけ本当のところはよく分からないんだけど、まあとりあえずは、そういうことってことで!」というものとして受け取るしかないこの「ユルい」演技、というのが、個人的には観ていてとても楽で、それこそブレヒトの言うように「くつろいだ」状態で観客席に座っていられるので、やっぱり好きだなあ、と思った(あと正直、登場人物の行動論理が明確に組み立てられず、今の感覚からすると「常軌を逸して」いるようなこういう作品だと、この手法はわりと俳優的にも観客的にも便利なのではないかとなんとなく感じた。受け取る側としても「うん、分かった。了解!」以外特に思えないので)。

 

ただ、こういうのが好き!と明確に言えるってことは、それが苦手な方もいるわけで、だからこの「ユルさ」と「ユルい」テンポが苦手な方は1幕(休憩前)結構辛かったんではないかな、とも思う。逆に休憩後は、いわゆる「役を演じる」演技の割合がどんどん増えてくるし、歌舞伎の型をトレースしたような身体表現も増えるので、1幕が苦手だった方は、2幕はわりと楽しかったんではないかな、とも思う。私も「にざたま本家で観たぞ、あの型!」みたいに思う場面が結構あって、楽しかった。

ただ個人的には、全体的に2幕は、チェルフィッチュ的な演技が鳴りを潜めた感じがして残念だった。あとこれはそういう(チェルフィッチュ的な演技をやめようとする)演出なのか、単に俳優の手癖(どうしても「役を演じ」てしまう)なのかは気になるところではあった。

 

あと、当たり前なんだけれど、フェミニズム的な観点からもきちんとテコ入れされた上演で、そこは良かったなと思った。

具体的には、まず権助と桜姫が再会する場面。歌舞伎だとそのあとの性行為に及ぶ段階で「久しぶりだの」と言って帯をほどくのは権助の方なんだけれど、今回の上演では、一瞬権助が主導権を握ったの留める形で桜姫の方が主導権を握り直し、桜姫の方が「ひさしぶりだなあ」とかっこかわいく言って、権助の服も自分の服も脱がせる/脱ぐ感じだった。こんな風に性行為の場面において、女性主体になっていた。

加えて、最後の方でお十が桜姫の身代わりになる場面も、テコ入れされていた。歌舞伎の方だと結構喜び勇んで身代わりになる感じなんだけれど、今回の上演ではお十は終始不満そうにしていて、勝手に話を進める権助を筆頭とする男たちを横目に「またモノ扱い」とか「勝手に決めんな」と観客に向かって怒りをあらわにしているのが良かった。

こういう補助線があった上で、最後は、桜姫が権助と子供を殺して、お家再興ができる都鳥を取り返したのにも関わらず、桜姫(を演じる俳優)が都鳥を自身でぶん投げてしまう。それを舞台後方から観ていたお十(を演じた俳優)が「はれるや!」と大向こうをかけて終了だった。何が「はれるや!」とめでたいことなのかというと、家父長制とか家的なものとか、それに付属する女性差別を象徴する都鳥をぶん投げた(NOを突き付けた)こと。それを桜姫の意思表示ととるか、メタ的な意味で桜姫を演じた俳優が桜姫東文章の世界観そのものにNOを突き付けたととるかは分からないけれど、とにかく作品の要所要所で、女性の主体性とか「怒り」とかにフォーカスを当てていて、ラストまでその姿勢を一貫していたのは、とても良かったと思う。

ちなみにプルカレーテ版の桜姫東文章もとい『スカーレット・プリンセス』でも、やはり都鳥はぶん投げられていた。プルカレーテ版ではそのあと一応歌舞伎っぽい華やかな大団円のパレードになるのだけれど、どうもパレードの参加者は死んでいるっぽくて、無常観がただよう虚無的な華やかさだったのは覚えている。

 

なお、変更された演出というのはこのラストの部分で、色々聞いた感じ、桜姫が都鳥を取り返し、お十(を演じた俳優)にしっかりと手渡してお十(を演じた俳優)が都鳥を投げ、小雛(を演じた俳優。通常小雛のエピソードと非人たちの会話は歌舞伎上演だとカットされるのだけど、今回の上演ではどちらも入っていて驚いた)が「はれるや!」と大向こうをかけるらしい。

つまり、このラストには、桜姫東文章の中に出てくる主な女性たち、およびそれを演じた女性の俳優たち全員が関わることになっている。よりシスターフッドみを感じる演出になっていたっぽい。実際に観ていないので全部想像なのだが、「女たちの物語」としての姿勢がより強固に感じられる演出になっていたのではないのかと思う。

ただ主な女性の登場人物としての長浦を演じていたのは男性の俳優であり(長浦は喜劇的な要素が多い人物だからだろう)、もちろんこのラストにも長浦の影はあまりないのだろうと予想される。たぶんだけど、長浦が辿る境遇は、家父長制とか家的なこととか女性差別的なことから影響を受けている部分が比較的少ないからなんだと思う。あとこれはなんとなくなんだけど、長浦はそういう差別のある社会で、その差別を利用して上手くやっていってしまいそうな雰囲気があるな、と思っている。

 

それと、小雛のエピソードを入れたものを初めて観たことで気がついたのは、桜姫東文章って結構「傘」のモチーフが多いな、ということ。たぶんこれは上下に行ったり来たりする「水」のモチーフが作品中に頻出するから、その関連なんだろうなあと思った。

あと桜姫の身代わりにするために、小雛の父が小雛の首をとったことを、誰か(ド忘れ。石倉来輝)が松井源吾に報告するシーンで、「そういうとこ、常軌を逸してますよね、歌舞伎って」と岡田利規のコメントでも代弁しているのかと思うような感じのことを流れるように言い放つので、笑ってしまった。たぶんこれを入れたいがために小雛のエピソードを入れたんじゃないかとも思った。

 

ちなみに、おそらくこれもフェミニズム的な観点からのテコ入れなんだろうけれど、清玄がとても気持ち悪くなっているのも特徴的だった。忘れられないのとしては、非人として共に打ち据えられたあと、清玄が桜姫に夫婦(肉体)関係を迫る時、「あなたね、こんなに、私の"キャリア"?、をこんなにしておいて、それに対してはなんもないんですか?とりま、1回ヤらせてもらうまでは離さないから」と言い切る場面。控えめに言ってマジ最低だった。しかも演じるのが成河だから、地獄の底までストーカーしてきそうな気持ち悪さが倍増してた(褒めてる)。

あとは「死ぬのがやならヤらせて」と包丁を逆手(元高僧のわりには殺意が半端なくて笑った)に持って桜姫に心中を迫るのも非常に気持ち悪かったし、清玄が死ぬ間際、下手側の椅子の上に立ち「私を殺すか。[どすの効いた声で]女の分際で」(歌舞伎台本:「こりゃ大胆な。女の身で我を殺すか」と、もうちょっと驚きの方が強い感じ)と言い放つシーンでも、「女の分際で」と言うのに合わせて、上手側の照明が激しく明滅したり、など、とにかく女性差別的な思想や発言が、清玄だけに限らず意図的にくっきりと表現されていたのも結構特徴的だった。たぶん現代語にするにあたって、古語でオブラートに包まれていたものがあからさまになったことも大きかったんだとは思うのだけど、それにしたって随分あからさまな言い回しになっていたから、やっぱり意図的だと思う。

 

現代語になったことでなによりも分かりやすくなったし、なのに時代設定とかは変えてないので突然その時代の人がカタカナ語や若者言葉を喋る滑稽さとか、最初に描いた清玄の幽霊とかの遊び心ある演出とか、岡田利規のコメント的ツッコミのようなセリフ(覚えているのは、残月が清玄を毒殺した後に言い放った「コスパの悪い殺人しちゃったしなきゃよかった」みたいなセリフ)など、とにかく笑いが多い上演だったのも楽しかった。

 

ただ、楽しかったのだけれど、別に桜姫東文章じゃなくても、こういう風に上演すればどんな歌舞伎作品でも楽しいだろうな、という印象があった。だから「すっごい面白かった!!」とは言い切れないのが、なんとなく残念ではあった。どうしても同じく古典に取材した『未練の幽霊と怪物―「挫波」「敦賀」―』の鋭い批評性を思い出してしまって、比べてしまった。

『未練の幽霊と怪物』は、①オリンピック直前に、②東京から批判的な「距離」がとれるKAATで、③東京で起きかけていたオリンピック・ナショナリズム的「熱狂」に「水をさ」すための内容を、④現代/現在からも「距離」をとった古典の手法で上演することに意味がある、という①いつ、②どこで、③なぜその内容を、④その形式でやることに意味があるのか、というのをすべて満たしたすごい公演だったので、比べるのも酷といえば酷なんだけど、同じ演出家なのでまあ比べるよね…。

 

次はピーピング・トム『マザー』の感想書きます。

以下はどうでもいい感想群なんですけど、とにかく石橋静河さんが美しすぎました。ずっと岡田利規演出の衣裳がダサいと思ってたんですけど、石橋さんのような方が着ると、とってもかっこよかったので、あれたぶん海外セレブとかがよくSNSにあげたりしている、一般人には理解できないし着られないハイセンスなオシャレだったんだ…!ということにようやく気が付きました。特に石橋さんの靴が可愛かったです。靴だけなら真似できそうなのでどこで買ったのか教えて欲しい…。

そういえば石橋静河さんの権助がとても観たい欲求を抑えながらの観劇だったので、唯一そこは辛かったです。でも別に成河さんの桜姫は観たくない(失礼)ジレンマ…。

 

あと残月と長浦の住んでいた家のドア観て、ものすごくハイバイの上演を思い出してしまったんですが、これって私だけですかね…。てかそんなにハイバイの上演観てはないんですが…なんとなく…。

 

そして赤ちゃんの泣き声(電子加工された俳優さんの声)は、なんだか着信音みたいで未だに頭の中で鳴り響いています。とっても弊害。

あとDJさんがかけていた音楽もなんだかとっても良い感じでとっても眠くなりました…(楽しかったので、寝ませんでしたが)。

マイクの拡声具合もすごく自然で、全体的に音響面はかなり好きな上演でした。

 

それと、3時間15分というそこそこの長丁場だったので、俳優さんたちが大向こうかけながら飲み食いしながら観ているのを観て、「いいなあ私も大向こうかけながら飲み食いしながら観たい…」と思いました。いっそアリーナ型の舞台というか、観客席と舞台をフラットにして、観客席で大向こうかけるのも、飲食もOKの状態で観たら、また特別に楽しかっただろうなあ…でもコロナじゃ無理かあ…、なんて思ったりしてました。

 

あと意外と歌舞伎に忠実な構成の作品だったので、歌舞伎の予習としてもありだなこれ…と感じました。現代語で観やすいし。

 

というわけで以上、うまくまとめられなかったどうでもいい感想群でした。どうせここから地方公演でガンガン演出が「進化&深化」していくんでしょうから(にっこり)、あとはTwitterとかで地方公演観られた方の感想を楽しみに読むことにします!

 

次はピーピング・トム『マザー』の感想書きます。7000字も書いて疲れたので、たぶん明日になると思います。