感想日記

演劇とかの感想を書きなぐってます。ネタバレはしまくってるのでぜひ気をつけてください。

最近観たNTLiveのちょっとした感想

タイトルまんまです。この間連続で更新してた感想の番外編として『レオポルトシュタット』『かもめ』の感想書きます。

ちなみに『かもめ』日本橋で観たんですけど(そしてそのまま上野から青森に帰った)、めちゃくちゃ満席でビビりました。『レオポルトシュタット』はいつも通り池袋でした。なので案の定ガラガラでした。

 

 

『レオポルトシュタット』

シネ・リーブル池袋(2023年1月12日、14時5分)

 

みんな思っててもTwitterとかでは言いにくいから言ってないだけだ、と確信しているので言うけど、この上映を観ると、新国立劇場での上演はマジで駄目だったとしか思えない。変に敬語が混じっていない字幕も、セリフをきちんと理解している俳優も、当時のオーストリアらしいシンメトリーな舞台美術も、抑制のきいた演出も、何もかもが(当たり前だけど)新国立劇場での上演を上回っていた。元の戯曲の素晴らしさが損なわれずに上演されているものを観ている、という幸福感のある上映だった。

本当にNTLiveの上映が新国での上演に先立ってなくてよかったね、と(全く皮肉ではなく)言いたくなるレベルの差だった。

 

ただNTL版では幕で区切る演出だったのだけど、新国版の方は盆が回ることでわりとシームレスかつダイナミックに舞台転換していたことを思い出して、それは結構エモくて好きだったんだな、という発見があった(ただ後にも書くけど、この「エモさ」は結構問題な部分でもある)。一族の話なのに、幕でブツブツ「区切る」のはちょっとなんだかな、と思ったし、あとその幕に当時の写真とか映像とかを投影していたのは、あんまり効果的だったとは思えない。

効果的だったとは思えない演出はもう1つあって、冒頭、1955年のローザ、ナータン、レオが薄暗い中、舞台前面に立っている演出。その後ろに1899年の人物たちが出てきて、1899年の人物たちが第一幕を開始すると、前の3人は名残惜しそうな感じでハケていく(ローザだけは1899年の自分を結構長く見つめてからハケる)、という感じだった。正直、この演出は戯曲を読んでいるか、観るのが2回目以降の人しか分からない演出だし、1955年の場面に1900年の場面がなだれ込んでくる場面がもともと戯曲にあるので、同様のことを冒頭でやる意味がよく分からなかった。

確かにこの演出があると、全体が回想構造っぽくなるけれど、それ以降舞台上にいる(1955年以外の)人たちが「回想」の中の存在になってしまうので、それはちょっと戯曲がやりたかったこととはズレるのでは…?というのも疑問だった。

 

それとナチスの取り巻きみたいな人たちが何故かドイツ語で喋っていたので、「じゃあお前らの上司含めその他の英語で話している人達は一体何語を喋っているんだ…?」と普通に突っ込んでしまった(てか『レオポルトシュタット』のドイツ語上演は普通に観たい)。

 

あと、この上映を観る前後にペルシャン・レッスン 戦場の教室』を見ていたのでそのせいかもしれないけど、『レオポルトシュタット』も失われた名前と記憶を取り戻す物語なんだな、と納得した。登場人物がやけに多く、初見の観客はたぶん誰が誰だか分からないのも、「覚えていたいのに忘れてしまった」という感覚を観客に共有させることで、「覚えていなければいけないのに忘れてしまった」という1955年のレオの状態にある程度観客の心理を重ねる、作劇上の工夫なのだということがようやくわかった。

それと、最後ナータンを演じているのがルードヴィクを演じた俳優で、(見間違い、記憶違いでなければ)レオを演じるのがパーシーを演じた俳優だったというのも、「どんな形であっても家族なんだな」と思えて、エモいポイントだった。

 

ただ、もともとの戯曲もかなり感動的なつくりになっているし、だから演出でもエモいポイントを作りやすいのだと思うのだけど、そもそもホロコーストの話を感動的に(感動として「消費」できてしまう形に)ウェルメイドに描く倫理的な居心地の悪さが強かった。特にNTL版だと、その他に際立って指摘できるアラが全然ないため、新国版よりも強く感じた気がする。

当事者でない俳優が、まるで絶対になれない当事者に「なった」かのように「熱演」している(しかも心動かされるほど上手い)さまも、映像でこれだけの気持ち悪さを感じるのだから、生で観たら余計にそう思うだろうな、ということを思ってしまった。

ただまあ、劇作家自身の半自伝的作品、ということでなんとかギリギリセーフなのかな…たぶん…。この手の作品を「誠実」にやるのは、はっきり言ってかなり難しいんだと思う(実際えらい人たちも難しいって本で書いてるのを見かけたことがある)。

 

これだけ1つの「ドラマ」として完成しているのだから、そういう問題を観客に感じさせにくく、演劇よりも「ドラマ」を伝達するのがはるかに得意な映画でやった方がたぶん適切なのではないか…ということを思ってしまった(ちなみにすぐ「映画でやれば」と思うのは私の悪い癖)。

 

ただ、レオがイギリスの観客目の前に、変なイギリス自慢をするところのおかしさったらなかった。これは演劇ならではだと思う。あと全体的にもともとテクストにあるユーモアを殺してなかったのも(当たり前なんだけど)すごく良かったと思う。

 

『かもめ』

@TOHOシネマズ日本橋(2023年2月11日、11時)

 

現代設定の翻案ということで、かなり元のテクストからいじっている(ミニマムになっている)印象があった。あとTwitterの方でも書いてたように、ニーナの年齢が28歳になってたような気がして「さすがに28歳であの言動はイタすぎる…」と思ったのだけど、たぶん私の見間違いだと思うから気にしないことにした(ただ28という年齢は間違いなく出てきているので、なんで28??と謎だった。たしかソーリンが働いていた年数も28年だったとは思うけど…)。

 

演出はシラノ・ド・ベルジュラックに引き続き、近年のロイド演出らしい(私は最近のものしか知らないのだけど、前は逆にド派手で過激な演出が多かったらしい?)大変にミニマムなものだった。俳優は全員とてもラフな格好で裸足。舞台美術は三方囲まれた箱のような感じで、椅子が人数分。本当にこれだけ。かもめも出てこない。

ただ2回ある発砲シーンでは、結構な音とともに舞台全体が強烈なストロボで照らされたように激しく明滅するので、ショッキングな部分はわりとショッキングになってた。

 

椅子によるフォーメーションの変化はありつつも、基本的には等間隔に並べられた椅子に客席の方を向いて座って俳優たちが、映画みたいなリアルな発声で(もちろんマイクを使っているので余裕で聞こえる)セリフを喋っていた。正直シラノ・ド・ベルジュラックでも観たような演出だな、とも思ったのだけど、相手の話を聞いているんだか聞いていないんだか(おそらく相手の方を「向いて」いない)登場人物が多いチェーホフ劇にはぴったりの演出だと思った。

そして、余計なものを一切そぎ落としているからか、俳優が抜群に上手いからか、セリフが一言一言ものすごく響いてきた。なんでもないところのセリフですらこんなに「入って」くるのか、とものすごく感動した。

 

また、出番のない俳優は舞台奥とか脇とかの壁ぎわに椅子を持っていって座っていた。基本的に、ニーナを演じている俳優以外は、疲れ切ったうつろな目をして座っていた(微妙な個人差があって、これはおそらく演じている登場人物の心情を反映しているのだと思う)。結構前向きなことを言っている登場人物でも、結局は人生に疲れきっているんだ、ということがとてもはっきりと伝わってきた。本当にチェーホフ劇の登場人物はもれなく全員人生が詰んでいる。この雰囲気は最終幕でI'm so tired!と言い放つニーナのセリフのあたりで頂点に達していたと思う。

また、前半から中盤、明るい夢見るようなまなざしで座っているニーナが、周りのうつろな登場人物との対比もあり強烈に印象に残っていて、まるで、人生はきっとよくなる、自分は満足した何者かになれる、という希望を目だけでは見つめながらゆっくりと放物線を描きながら落下していくかもめだな、とその後のニーナが辿る境遇を知っている観客としては思った。

 

なお休憩前、戯曲だと第3幕おわり、トリゴーリンとアルカージナが島から出発するので、みんなが見送るためについていく感じになっていたのだけれど、その時コースチャ以外はみんな舞台を降りて、客席通路を通って出ていっていた(コースチャだけはずっと舞台上にいる)。そのせいで、三方を壁に囲まれた舞台が、閉塞的な島そのものに見えてきて、「うわこの演出めっちゃ効果的!」と感動した。

そして休憩に入ってもコースチャが舞台上に横たわってなにかしそうな雰囲気だったのだけど、膀胱の限界は突破できず、詳しくは知らない。一旦なにも無くなった舞台に、みんなが椅子持って集結してきて第4幕開始だったのは覚えている。

 

第4幕(休憩明け)ではちょっと舞台美術が変わっていて、舞台奥の壁が9割無くなっていた。たぶん閉塞的な島を、ニーナは物理的に、コースチャは(詳しいことはわからないけれど)知名度的に「飛び出した」からなんだろうな、と思った。

あとコースチャの分の椅子がなくて、コースチャが床座りしていて謎だったんだけど、最後のニーナとの邂逅の時に、ニーナと1つの椅子を半分こして座って話していて、にくい演出だなと思った。この時に至ってもなお、ニーナの心はトリゴーリンに向いていることを考えると、コースチャとニーナが肉体的に近ければ近いほど寒々しかった。

 

そして、最後の場面では椅子のフォーメーションが上から見るとゆるいV字、つまり空飛ぶかもめの形になっていた。その中央にニーナが座っていた。なおコースチャは幕切れまでずっと、つまり自殺したあとも、ニーナの前の床に、舞台から観客席に足を投げ出す形で座っていたと思う(正面から見るとニーナとコースチャが重なって見える)。

戯曲にあるかもめのはく製の話(以前に、コースチャが撃ち落としたものをトリゴーリンがシャムラーエフに頼んではく製にさせたという話)が原作以上に強調されているな(原作ではコースチャの自殺の前でその話は終わりなんだけど、自殺の後も続く)、と思ったら、突然ニーナに強く光があたり「それ(かもめのはく製)はコースチャのものだ」と誰かがセリフを言う。ニーナが痛々しく微笑んで、突如ぷつっと電球が切れるように真っ暗になって幕だった。

 

実は、言いたいことはわからないでもないのだけれど、この明らかにニーナ=かもめのはく製とし、なおかつそれがコースチャの「もの」であるという表現は、ちょっとニーナという女性をトロフィーみたいに「もの」扱いしているみたいで、やや引っかかった。

もちろん、ニーナとコースチャは正面から見れば重なっているし、実際にかもめのように撃ち落されたのはコースチャで(そして自殺の後は、それこそはく製のように微動だにしない)、ニーナは命からがら逃げ切っているので、コースチャ=かもめのはく製=ニーナと見ようと思えば見れなくもないけれど、にしたってやっぱりニーナばっかりに光が当たってたので厳しいな、と思った。

個人的には、トリゴーリンからもコースチャからも撃ち落されずに(死なずに)ボロボロでも逃げきり、そしてそんな状態でも希望を失わずに生きていくのだろうなと思わせる、ニーナの強さをたたえるバージョンの演出とかもあってもいいんじゃないかな、と思った。

 

あととにかく俳優が当たり前にみんな上手かったのだけど、アルカージナを演じていた俳優の大女優っぷりと、マーシャを演じていた俳優の卑屈っぷりが最高にキュートだった。それと、トリゴーリンをかなり若い俳優が演じていたのも、突然の成功に戸惑う若者感があって、妙に説得力があった。とにかくユーモアたっぷりに笑えたのも、チェーホフ原作として最高だと思った。

 

あとは愚痴です。

『かもめ』観に行った時にとなりにカップルが座ってたんですけど、彼氏の方が彼女の方に向かってNTLiveたくさん観ている自慢とか、海外の配信とか日本の小劇場系の演劇めちゃ観ている自慢とか、この『かもめ』はエンタメ寄りではないから(彼女にとっては)楽しくないかもうんちくとかを上映前と休憩中に繰り広げていて、まあそれは「彼女さん大変だろうなあ…」と私が余計なお世話を感じたくらいで別に良いんですけど、全部終わったあとに「なんでコースチャ役にわざわざ障がいのある俳優使ってんだろ。変なの。なんか特別な意図とかあるのかな。俺的には演出意図的に特に意味なさそうだし普通の俳優使えばいいのに」(大分オブラートに包んでこの言い方)とか彼女に向かって気取っていて、心の中でめちゃムカついていました。

特別な意図とかなくても普通にその俳優さんが今回のコースチャ役にぴったりだと演出家が思ったら障がいのあるなしとか関係なく起用していいんです~、てめ~ぜって~演劇そんなに観てね~だろそんなんで詳しいふりするんじゃねえよ(怒怒怒)(にっこり)。

 

「障がいのある俳優さんでもいいんだ!」というポジティブな驚きなら「初めて観たんだな。日本のメインストリームの演劇だと悲しいことにあまり見かけないからあの人の世界が広がって良かったな」と超おせっかいなこと思って終わりだったんですけど、「普通の俳優使えばいいのに」にはちょっとかなりキレましたね。私もコースチャ役の俳優さん初めて観たけど普通に(というかその辺の日本で活躍している俳優さんより)上手い俳優さんでしたけど???(圧)

 

とにかく愚痴が止まらないんですけど、『レオポルトシュタット』『かもめ』も叫ばない/がならないだけでもう高評価を押したくなりました。こういう演劇が日本でもたくさん生で観られればいいのに…。

 

てなわけで、またしばらくブログは休止状態に入ります。もしかしたら4月上旬に更新するかもしないけれど、しないかもしれないです。

あと、例の賞のやつが主演のファンの方々に見つかったようで、発表ツイートがえらいのびててビビりました。発売されたときに「自分が思ってたのと違う!こんなの間違っている!批判してやる!!」ってなられて批判されたら豆腐メンタルなので耐えられる自信がない…と今からちょっと心配してます…。エゴサはしないと心に決めた…(まさかこんな心配をしなければならないとは聞いていないぞ先生…)。