感想日記

演劇とかの感想を書きなぐってます。ネタバレはしまくってるのでぜひ気をつけてください。

木ノ下歌舞伎『桜姫東文章』@あうるすぽっと

たぶん2月8日かな、そのあたりに演出が変更されたらしいと聞きました。どうもその他の情報からも、私が観た時からラストが変更されたのは確からしいです。

若手の俳優さんとかがロングラン公演で後半めっちゃ上手くなるのとか、アドリブの客いじりが毎回違うのとか、怪我したのでちょっとそれに合わせて演出変えるのとかはライブ・エンタテインメントとしての楽しみでもあり、しょうがないところでもあるな、と思っているので別にいいんですけど、こういう風に(おそらく俳優さんが怪我したわけでもないのに)演出までもが「進化&深化」されると、「そういう試行錯誤は初日までにやっておくのが『お仕事』なんじゃあないですかねえ…」とか意地の悪いこと思ってしまいます。

 

しかも初日にやってみて客の反応観て変えるならまだしも(それならプレビュー公演やれよ、とは思いますが)、東京公演も後半になってから変えるってどういうこと?客(消費者)なめてんのか?なんである程度のクオリティ保ったものを求めてチケット買っているのに、その一定のクオリティの柱である演出を前半と後半で大幅に変えてくるの?

そんなんじゃ新規客離れてくの当たり前じゃない?!

 

と、モヤつきとイラつきが止まらないんですけど、個人的には観ていて久しぶりに楽しかったし、岡田利規さん(例の「世界のオカダ」!には笑いましたが)の演劇は好きだなあ、と改めて思いました。なのでイライラするのはここまでにします。たぶん。

 

木ノ下歌舞伎『桜姫東文章』感想

@あうるすぽっと(2023年2月6日、12時半)

 

舞台の上に舞台がある感じになっていて、どうもあるプロダクションというか劇団が桜姫東文章を上演している、といった設定の上演のようだった。

 

 

私の描く図がかなり雑なのはおいておくとして、清玄の幽霊だけは誇張じゃない、というかかなり上手く描けたという自信がある。色も白黒でまさにこんな感じで、我ながら上出来だと思う。映画『NOPE』の後半で大活躍する、下から空気を送り込んで成形するアレである。出てきた瞬間吹き出した。最高。

 

劇団員と思しき俳優たちが舞台の準備をしはじめることで、ぬるっと上演がスタートしていた。あと舞台奥の上手寄りにDJがいて、この辺も歌舞伎っぽい(歌舞伎、というか古典芸能だとよく演奏者が見える状態で演奏する)なと思った。基本的に劇中劇である桜姫東文章に出番のない俳優たちは、休憩スペースで座ったり、衣裳を替えたり、寝そべったり、水飲んだり、お菓子を食べたり、目薬をさしたり、とかなり自由に過ごしていた。

ただ複数回観た方からの情報によると、自由に見せているだけで、実際は細かく動きが決まっていそうな様子だったとのこと。というか岡田利規の舞台で俳優が自由に動くのは考えづらいから、たぶん振り付けとして固定はされているのだと思う。

 

そういう風に自由に過ごしながら、舞台上で演技している仲間に向かって架空の大向こうをかけていた。なお大向こうの対応表が出演者のTwitterに載せられていた。

 

 

番外編としては「にこいち」「まってました」「ひさしぶり」などがあった。この架空の屋号と、大向こうが聞いていて結構面白かった。

全然関係ないけど、私はカレーが大好きなので、自分だったら「かれーや」がいいなと思った。

 

また、いわゆるブレヒト的に、それぞれの場面が始まる前に、舞台奥に投影した字幕で場面の要約を説明していたのだけれど、少なくとも異化効果はなかった気がする。そもそも俳優の演技自体がかなりチェルフィッチュ的なため、あえてブレヒト的な異化の手法を持ち込む必要もないし、演出意図としても「結構人物関係ややこしいから説明するね」ぐらいのものだったのではないかと思う。

そもそもブレヒト的な字幕が、現代においてどのくらい異化の手法として成立するか、という根本的なあれもあるけど…。

 

そしてたぶんなのだけれど、私が今回の上演が楽しかったのは、このチェルフィッチュ的な演技を生で観られて、結構デトックスができた気がしたからだと思う。というのも1月とかに観ていた演劇がわりとメインストリーム寄りで、熱演するし、叫ぶしで、かなりぐったりしていたのだ。なんでぐったりするのかは、岡田利規自身が結構言語化してくれていて(「アレルギー」という語の使用には「アレルギー」持ちとしては引っかかるところがあるのだけれど)、おおむねこういうことなんじゃないかな、となんとなく思っている。

book.asahi.com

 

特に非人たちを1人で演じていた石倉来輝と、松井源吾を演じていた板橋優里、あとお十を演じていた安倍萌が最高に良かった(全員他の役も演じていたけれど特にこの役を演じていた時が本当に良かった)。前の2人は「『三月の5日間』リクリエーション」に出演していたらしいし、安倍萌はダンサーだし(すごく身体のラインが綺麗だったので、あとで当日パンフでダンサーだということを知って納得した)で、たぶんチェルフィッチュ的な演技が相当上手かったのだと思う。

逆にこの3人以外の俳優はそこまで強くチェルフィッチュ的な感じはしなくて、チェルフィッチュ的な演技をする人としない人で分けていたのかどうなのか、すこし気になる。

 

このチェルフィッチュ的な演技、つまり言葉と仕草のズレが激しい演技(ズレが大きくなればなるほど、その言葉と仕草のひとつの源になる「イメージ」=「シニフィエ」がどんどん拡散していき、結局俳優の身体が表すのはその拡散しきってぼんやりした「イメージ」であり、突き詰めると何も表現しないままの身体が舞台上に投げ出されている状態になる演技)は、個人的にかなり好きで、それを生で観られた、というこの1点だけで、結構楽しかった。こういう場合、俳優は「役を演じる」のではなく基本的にはその「イメージ」を豊かにしているだけであるから、上手く言えないのだけれど「ぶっちゃけ本当のところはよく分からないんだけど、まあとりあえずは、そういうことってことで!」というものとして受け取るしかないこの「ユルい」演技、というのが、個人的には観ていてとても楽で、それこそブレヒトの言うように「くつろいだ」状態で観客席に座っていられるので、やっぱり好きだなあ、と思った(あと正直、登場人物の行動論理が明確に組み立てられず、今の感覚からすると「常軌を逸して」いるようなこういう作品だと、この手法はわりと俳優的にも観客的にも便利なのではないかとなんとなく感じた。受け取る側としても「うん、分かった。了解!」以外特に思えないので)。

 

ただ、こういうのが好き!と明確に言えるってことは、それが苦手な方もいるわけで、だからこの「ユルさ」と「ユルい」テンポが苦手な方は1幕(休憩前)結構辛かったんではないかな、とも思う。逆に休憩後は、いわゆる「役を演じる」演技の割合がどんどん増えてくるし、歌舞伎の型をトレースしたような身体表現も増えるので、1幕が苦手だった方は、2幕はわりと楽しかったんではないかな、とも思う。私も「にざたま本家で観たぞ、あの型!」みたいに思う場面が結構あって、楽しかった。

ただ個人的には、全体的に2幕は、チェルフィッチュ的な演技が鳴りを潜めた感じがして残念だった。あとこれはそういう(チェルフィッチュ的な演技をやめようとする)演出なのか、単に俳優の手癖(どうしても「役を演じ」てしまう)なのかは気になるところではあった。

 

あと、当たり前なんだけれど、フェミニズム的な観点からもきちんとテコ入れされた上演で、そこは良かったなと思った。

具体的には、まず権助と桜姫が再会する場面。歌舞伎だとそのあとの性行為に及ぶ段階で「久しぶりだの」と言って帯をほどくのは権助の方なんだけれど、今回の上演では、一瞬権助が主導権を握ったの留める形で桜姫の方が主導権を握り直し、桜姫の方が「ひさしぶりだなあ」とかっこかわいく言って、権助の服も自分の服も脱がせる/脱ぐ感じだった。こんな風に性行為の場面において、女性主体になっていた。

加えて、最後の方でお十が桜姫の身代わりになる場面も、テコ入れされていた。歌舞伎の方だと結構喜び勇んで身代わりになる感じなんだけれど、今回の上演ではお十は終始不満そうにしていて、勝手に話を進める権助を筆頭とする男たちを横目に「またモノ扱い」とか「勝手に決めんな」と観客に向かって怒りをあらわにしているのが良かった。

こういう補助線があった上で、最後は、桜姫が権助と子供を殺して、お家再興ができる都鳥を取り返したのにも関わらず、桜姫(を演じる俳優)が都鳥を自身でぶん投げてしまう。それを舞台後方から観ていたお十(を演じた俳優)が「はれるや!」と大向こうをかけて終了だった。何が「はれるや!」とめでたいことなのかというと、家父長制とか家的なものとか、それに付属する女性差別を象徴する都鳥をぶん投げた(NOを突き付けた)こと。それを桜姫の意思表示ととるか、メタ的な意味で桜姫を演じた俳優が桜姫東文章の世界観そのものにNOを突き付けたととるかは分からないけれど、とにかく作品の要所要所で、女性の主体性とか「怒り」とかにフォーカスを当てていて、ラストまでその姿勢を一貫していたのは、とても良かったと思う。

ちなみにプルカレーテ版の桜姫東文章もとい『スカーレット・プリンセス』でも、やはり都鳥はぶん投げられていた。プルカレーテ版ではそのあと一応歌舞伎っぽい華やかな大団円のパレードになるのだけれど、どうもパレードの参加者は死んでいるっぽくて、無常観がただよう虚無的な華やかさだったのは覚えている。

 

なお、変更された演出というのはこのラストの部分で、色々聞いた感じ、桜姫が都鳥を取り返し、お十(を演じた俳優)にしっかりと手渡してお十(を演じた俳優)が都鳥を投げ、小雛(を演じた俳優。通常小雛のエピソードと非人たちの会話は歌舞伎上演だとカットされるのだけど、今回の上演ではどちらも入っていて驚いた)が「はれるや!」と大向こうをかけるらしい。

つまり、このラストには、桜姫東文章の中に出てくる主な女性たち、およびそれを演じた女性の俳優たち全員が関わることになっている。よりシスターフッドみを感じる演出になっていたっぽい。実際に観ていないので全部想像なのだが、「女たちの物語」としての姿勢がより強固に感じられる演出になっていたのではないのかと思う。

ただ主な女性の登場人物としての長浦を演じていたのは男性の俳優であり(長浦は喜劇的な要素が多い人物だからだろう)、もちろんこのラストにも長浦の影はあまりないのだろうと予想される。たぶんだけど、長浦が辿る境遇は、家父長制とか家的なこととか女性差別的なことから影響を受けている部分が比較的少ないからなんだと思う。あとこれはなんとなくなんだけど、長浦はそういう差別のある社会で、その差別を利用して上手くやっていってしまいそうな雰囲気があるな、と思っている。

 

それと、小雛のエピソードを入れたものを初めて観たことで気がついたのは、桜姫東文章って結構「傘」のモチーフが多いな、ということ。たぶんこれは上下に行ったり来たりする「水」のモチーフが作品中に頻出するから、その関連なんだろうなあと思った。

あと桜姫の身代わりにするために、小雛の父が小雛の首をとったことを、誰か(ド忘れ。石倉来輝)が松井源吾に報告するシーンで、「そういうとこ、常軌を逸してますよね、歌舞伎って」と岡田利規のコメントでも代弁しているのかと思うような感じのことを流れるように言い放つので、笑ってしまった。たぶんこれを入れたいがために小雛のエピソードを入れたんじゃないかとも思った。

 

ちなみに、おそらくこれもフェミニズム的な観点からのテコ入れなんだろうけれど、清玄がとても気持ち悪くなっているのも特徴的だった。忘れられないのとしては、非人として共に打ち据えられたあと、清玄が桜姫に夫婦(肉体)関係を迫る時、「あなたね、こんなに、私の"キャリア"?、をこんなにしておいて、それに対してはなんもないんですか?とりま、1回ヤらせてもらうまでは離さないから」と言い切る場面。控えめに言ってマジ最低だった。しかも演じるのが成河だから、地獄の底までストーカーしてきそうな気持ち悪さが倍増してた(褒めてる)。

あとは「死ぬのがやならヤらせて」と包丁を逆手(元高僧のわりには殺意が半端なくて笑った)に持って桜姫に心中を迫るのも非常に気持ち悪かったし、清玄が死ぬ間際、下手側の椅子の上に立ち「私を殺すか。[どすの効いた声で]女の分際で」(歌舞伎台本:「こりゃ大胆な。女の身で我を殺すか」と、もうちょっと驚きの方が強い感じ)と言い放つシーンでも、「女の分際で」と言うのに合わせて、上手側の照明が激しく明滅したり、など、とにかく女性差別的な思想や発言が、清玄だけに限らず意図的にくっきりと表現されていたのも結構特徴的だった。たぶん現代語にするにあたって、古語でオブラートに包まれていたものがあからさまになったことも大きかったんだとは思うのだけど、それにしたって随分あからさまな言い回しになっていたから、やっぱり意図的だと思う。

 

現代語になったことでなによりも分かりやすくなったし、なのに時代設定とかは変えてないので突然その時代の人がカタカナ語や若者言葉を喋る滑稽さとか、最初に描いた清玄の幽霊とかの遊び心ある演出とか、岡田利規のコメント的ツッコミのようなセリフ(覚えているのは、残月が清玄を毒殺した後に言い放った「コスパの悪い殺人しちゃったしなきゃよかった」みたいなセリフ)など、とにかく笑いが多い上演だったのも楽しかった。

 

ただ、楽しかったのだけれど、別に桜姫東文章じゃなくても、こういう風に上演すればどんな歌舞伎作品でも楽しいだろうな、という印象があった。だから「すっごい面白かった!!」とは言い切れないのが、なんとなく残念ではあった。どうしても同じく古典に取材した『未練の幽霊と怪物―「挫波」「敦賀」―』の鋭い批評性を思い出してしまって、比べてしまった。

『未練の幽霊と怪物』は、①オリンピック直前に、②東京から批判的な「距離」がとれるKAATで、③東京で起きかけていたオリンピック・ナショナリズム的「熱狂」に「水をさ」すための内容を、④現代/現在からも「距離」をとった古典の手法で上演することに意味がある、という①いつ、②どこで、③なぜその内容を、④その形式でやることに意味があるのか、というのをすべて満たしたすごい公演だったので、比べるのも酷といえば酷なんだけど、同じ演出家なのでまあ比べるよね…。

 

次はピーピング・トム『マザー』の感想書きます。

以下はどうでもいい感想群なんですけど、とにかく石橋静河さんが美しすぎました。ずっと岡田利規演出の衣裳がダサいと思ってたんですけど、石橋さんのような方が着ると、とってもかっこよかったので、あれたぶん海外セレブとかがよくSNSにあげたりしている、一般人には理解できないし着られないハイセンスなオシャレだったんだ…!ということにようやく気が付きました。特に石橋さんの靴が可愛かったです。靴だけなら真似できそうなのでどこで買ったのか教えて欲しい…。

そういえば石橋静河さんの権助がとても観たい欲求を抑えながらの観劇だったので、唯一そこは辛かったです。でも別に成河さんの桜姫は観たくない(失礼)ジレンマ…。

 

あと残月と長浦の住んでいた家のドア観て、ものすごくハイバイの上演を思い出してしまったんですが、これって私だけですかね…。てかそんなにハイバイの上演観てはないんですが…なんとなく…。

 

そして赤ちゃんの泣き声(電子加工された俳優さんの声)は、なんだか着信音みたいで未だに頭の中で鳴り響いています。とっても弊害。

あとDJさんがかけていた音楽もなんだかとっても良い感じでとっても眠くなりました…(楽しかったので、寝ませんでしたが)。

マイクの拡声具合もすごく自然で、全体的に音響面はかなり好きな上演でした。

 

それと、3時間15分というそこそこの長丁場だったので、俳優さんたちが大向こうかけながら飲み食いしながら観ているのを観て、「いいなあ私も大向こうかけながら飲み食いしながら観たい…」と思いました。いっそアリーナ型の舞台というか、観客席と舞台をフラットにして、観客席で大向こうかけるのも、飲食もOKの状態で観たら、また特別に楽しかっただろうなあ…でもコロナじゃ無理かあ…、なんて思ったりしてました。

 

あと意外と歌舞伎に忠実な構成の作品だったので、歌舞伎の予習としてもありだなこれ…と感じました。現代語で観やすいし。

 

というわけで以上、うまくまとめられなかったどうでもいい感想群でした。どうせここから地方公演でガンガン演出が「進化&深化」していくんでしょうから(にっこり)、あとはTwitterとかで地方公演観られた方の感想を楽しみに読むことにします!

 

次はピーピング・トム『マザー』の感想書きます。7000字も書いて疲れたので、たぶん明日になると思います。