感想日記

演劇とかの感想を書きなぐってます。ネタバレはしまくってるのでぜひ気をつけてください。

上手ければ上手いほどモヤモヤしてしまった『マーキュリー・ファー Mercury Fur』

2022/02/05

世田谷パブリックシアター 13:00

f:id:monsa_sm:20220208145151p:plain

劇場前にポスター掲示してないとかそんなトラップありですか…?

 

 

超プレミアの舞台、観に行ってきました。

初めからA席狙いだったのが功を奏したのかもしれません。

世田谷パブリックシアターが転売の取り締まりに本気出してるので、全国各地の劇場にぜひ同じような取り組みが広がればいいなと思います。

 

今回はすごくモヤモヤしてます。感想も後半はポジティブなんだかネガティブなんだか自分でも分かんない状態なので、読まれる方は注意してください。

 

パンフレットを早くしっかり読みたいのでさっさと自分なりの感想まとめるぞ…!!

 

※当然ネタバレしまくりです。ほんとに注意してください。

 

 

公式(舞台写真も見られる)とWikipedia

setagaya-pt.jp

en.wikipedia.org

 

Wikipediaの方には、初演のエリオットがなんとみんな大好きベン・ウィショーだったこととか、そもそも戯曲が出版拒否られたこととか、ローラはトランスジェンダーであることをフィリップ・リドリーがインタビューを受けて明言していることとか、上演だと思わなかった近隣の人が劇中の暴力シーンをガチだと思って通報して警察沙汰になったこととか、批評家同士の不毛だけど不毛じゃないバトルとか結構面白いことが書いてありました。

 

あと戯曲、というか2015年の公演の際の上演台本は、早稲田大学演劇博物館で普通に読めます。ただ配信もあるみたいなんで、入試で博物館もそろそろ閉まるしそっち観た方が早いかも、です。割と安いし。

 

配信に関してはチケットもぎ取ったあとに発表されたので、「それなら配信で観たのに…!」と、ちょっと申し訳ない気持ちで観に行ってきました。主演のファンの方とかに対して…。

『青天を衝け』総集編しか観てないのに『アルトゥロ・ウイの興隆』(レポート課題に使ってしまったので3月に成績出てからブログは纏めます)と『マーキュリー・ファー』を観に行けてしまったというのもなんか微妙に申し訳ない…。

 

とりあえずオペラグラスで顔面の整い方はじっくり観てきました。エリオットがダレンの口にバタフライ突っ込むところとか…。

「バタフライ突っ込まれたダレン役の人、この後どうするんだろう…?」と戯曲読んだ時に思ってたんですけどその後すぐにハケるので、たぶんその時にペッしてるんだな、と舞台観て分かりました。本当のところは知りません。

 

TVと全然変わんないすごい…。顔がハッキリしてるから遠い席からでもすごく見やすい…。

神様って不公平だ…。泣いちゃう…。

 

内容について

雑なあらすじ(というか箇条書き)

ロンドンのイーストエンド。紛争中か戦争中といった感じで荒廃している。

バタフライっていうドラッグ(なんかアヘンみたいだけど)でみんな正気を麻痺させつつなんとか生きてる。副作用は記憶をどんどん忘れていくこと。

このバタフライ、ある日突然砂とともに降ってきたというのでますますアヘンっぽいなとは思う。イギリスが中国に無理矢理売りつけたみたいな強制感が…。まああれは中国側の管理もちょっと甘かったらしいけど…。

 

エリオットとダレンは兄弟で、エリオットはバタフライの売買をしている様子。ダレンはバタフライ漬けで記憶があいまいな部分がある。スピンクスとローラの兄妹(ローラはトランスジェンダー)と共になんだかいかがわしい仕事をして生計を立てている。

 

今回は「パーティゲスト」のために「パーティプレゼント」を用意して「パーティ」を開催する様子。エリオットとダレンは場所確保のために廃墟の部屋に入って準備している(劇はこの2人が廃墟に入ってくるところから始まる)。途中、バタフライ欲しさにナズという少年も手伝いに加わる。ゲストの要求でパーティが早まったらしく、プレゼントにメイクアップを施す役割のローラも含めバタバタしてる。

 

パーティプレゼントはどっかからさらってきた子供のことで、パーティとはゲストがプレゼントを、興奮(性的興奮かな)のためになぶり殺しにすることがこの辺でなんとなく分かる。

 

スピンクスが来るはずのないお姫さまをパーティ会場に連れてきて一同混乱するが、なんとかパーティの準備を終えて、ゲストも到着しパーティを開始する。(お姫さまは実はエリオットとダレンのお母さん)

 

パーティゲストは、外国のお偉いさんみたい。近々彼みたいな外国人はエリオット達のいるところから脱出するらしいがその理由は公的には明かされていない。でもこのゲスト、スピンクス達が、人をなぶり殺すという自分の「超ドスケベな夢」を叶えてくれるパーティをやってるのを何かしらで知って、この国にはもうすぐ3日間の集中爆撃が始まること、全部終わったら兵士が「助けに来る」という名目で全てを奪いに来ること、その前に逃げることの出来る安全な場所をスピンクス達に教えるという約束でパーティ開催を取り付けた。

 

でも途中でプレゼントが死んじゃって、ナズが代わりに選ばれて半殺しにされるけど、結局エリオットとダレンとかが止めにはいって、もみ合ったすえ、ゲストはダレンに射殺されてしまう。

ちなみに、ナズがパーティの準備に加わるときに、エリオットがピラミッドの話をする。ピラミッドを作るのを手伝った人たちはファラオと一緒に埋葬されてしまう、という内容の話なので、パーティの準備を手伝ったら下手するとナズも死ぬんだろうか、と観客に思わせる効果がある。だから、別にこの展開は驚くべきことではなく、「だよねえ」と言った感じ。

 

逃げる先も聞き出せず、みんな落ち込む。とりあえずナズの手当てをして、エリオットとダレン(とゲストの死体)だけ部屋に残してみんな外の庭にでる。

 

ダレンがエリオットを励ますためなのか、「自分たちは今宇宙探検をしている」という設定でこのパーティを行う取り決めだったと思い出し、そのことを兄に語る。

ダレンの記憶はあいまいだけど、劇中でどんどん色んなことを思い出していく。冒頭ではエリオットとダレンでは完全にエリオットが主導権を握っていたが、ここでは完全に逆転しているように見える。兄弟モノとかでよく見る、頼れる兄と頼りない弟の逆の面が物語の最後で見えてくるパターン。ダレンが成長したと捉えてもいいのかも。

 

ダレン:俺たちはいま探検してる、この……新しい星を。人間が生きていける場所かどうかみるために。な、兄貴?でもだめ。だよな、エル(エリオットのこと)?別の星を探さなきゃ。な、兄貴?もっとやさしくてあったかい星を、な、兄貴?俺たちはそれを探すんだ、エル。聞いてるの?星ならまだいっぱいあるよ、兄貴。一個くらい、ぜったい。

 

みたいなことをダレンが喋る。「もっとやさしくてあったかい星」の部分にたぶんタイトルのMercury Furが引っかかってるはず。

水星は太陽に最も近いし毛皮はふわふわであったかい。

 

外から爆撃音が聞こえて、エリオットが拳銃をダレンに向ける。ダレンは抱きつきながら制止を試みるがエリオットは何度も何度もダレンの頭に拳銃を向ける。ダレンの声が聞こえないぐらいの爆撃音が外から聞こえた時、舞台の後方部分が下方に降下して(世田パブではこんなこともできるのかと驚いた)、まるで2人のいる廃墟が爆撃のせいで崩落するのかと思った瞬間に真っ暗に。生死は不明である。

 

サウンド・オブ・ミュージックでおなじみのClimb Every Mountainが最後にかかる。これで幕だった気がする。

この曲選はたぶん演出…。戯曲にそんなこと書いてないし…。

 

 

以下はこまごました書き洩らし。

 

・お姫さま→エリオットとダレンのお母さん。お父さんは以前「愛しているから」家族で心中しようとしたらしいが3人は生き残った様子。ダレンの頭にもその時の傷が残っている。お母さんは殴られた後遺症からか、自分はお姫さまであるという幻想に浸ってる様子。時々サウンド・オブ・ミュージックの主人公と自分自身がごっちゃになっているみたい。

 

・エリオット→バタフライはお父さんに止められて最初の1回しかやってないので他の人に比べて記憶力抜群。だから「いい思い出が俺を苦しめる」ので、常にイライラしている。

 

・スピンクス→エリオット、ダレン、お母さん(お姫さま)が入院していた病院に襲撃があった際、逃げ出したエリオットの代わりに2回も戻ってダレンとお母さんを助けてくれた。ちなみにエリオットはその事をトラウマレベルで後悔している様子。


・ローラ→スピンクスの妹。エリオットと付き合ってるのかな。エリオットが入院中に襲撃受けて逃げた時に出会ったっぽい。

 

・ナズ→ギリ生き残ってるかなと思いたいが、正直あの出血量で生きてるとは思えない。


・パーティプレゼント→どっかからかっぱらってきた少年。妹がいたらしいが頭が吹っ飛んで死んだ様子。

 

特徴

最初は、なんだかよく訳が分からない2人が廃墟に入ってきて突然パーティの準備をしだすんですけど、劇が進むにしたがって、上に書いたようなことが徐々に分かってきて、登場人物たちの像がハッキリしてきます。

 

そういう意味ではミステリ要素が結構多いです。

そもそもミステリ(謎解き)要素がない物語はほぼ絶対ないとは思うけれど…。

 

舞台上で進行する時間と客席で進行する時間にズレがない(劇中で突然16年とか時間が飛んだりしない)作品なので、本当は時計とかあるとそれがハッキリ分かるんですが、廃墟なので時計が舞台セットに組み込めないのが残念…。

でもその代わり窓から差し込んでくる光が刻一刻と変化していくので、それはそれで綺麗でした。

あの悪名高い三単一の法則をちゃんと守っているとも言える気が…。

 

過激な暴力シーンはすべて奥の寝室で行われる(見せない)ので、ギリシア悲劇とかの伝統に則っていて、内容の政治的な隠喩とかはともかく、結構正統派なつくりの劇なんじゃないかな?と思いました。

 

テーマについてまとめてもしょうがないとは思うけど…

「愛するものを守るためにあなたはどこまでやれますか?」っていうことだと思います。

 

エリオットのセリフにも

 

だから俺、ダレンに約束したんだ。お前らが傷つく前に俺がこの手で殺すって。

 

っていうのがあるけど基本これな感じ。

 

加えて、極限状態の中で弱って追い詰められた人たちが、権力者に言われる通りに、さらに弱いものを犠牲にしていかねばならない状況の提示もされているので、コロナ禍での上演はかなり差し迫ったものがあると思います。

初演時は初演時でたぶんシャルリー・エブド襲撃事件のあとじゃない?それはそれでやべえ…。

 

サウンド・オブ・ミュージックとの関連は謎と言えば謎なんですけど、あれはあれで最後は、ナチスドイツという権力側からの強制に従うように見せつつ逆らって、愛する家族と共に併合されてしまったオーストリアから何とか脱出する話(完全に成功したのかは謎)なので、状況的には『マーキュリー・ファー』の方が大分終末的な世界観にはなってますけど、類似と言えば類似しています。

 

Climb Every Mountainにしたって、超要約すると「困難が来るたびに乗り越えなさい。あなたの生きている限りの全ての愛と日々を費やしてもいいと思える夢を見つけるまで」っていう歌詞なので、まあラストに流した演出大分えぐい…という感じです。

これ読みようによっては、「自分がしっかりと生きるためには何かを心から愛することが必要」って歌詞じゃん…。しかもそのすべてが最終的には夢に集約されるって…。『マーキュリー・ファー』のラストに組み込まれて文脈変わると、繰り返しになるんですがマジでえっぐいです…。

 

ものすごく愛してる だからお前をつかむんだ

 

って一連の詩的なセリフがあるんですがそういうことかよ…。

結局は皆自分が生きるために相手のことをつかんでいて、大切な人を守りたいのは自分のことを守りたいからで、それが他の人によって自分の制御不可の状態で失われるぐらいなら「自分で決める」と…。

エリオットとダレンのお父さんの行動も、エリオットのラストの行動もそういう論理みたいに見えた。

 

愛=執着と理解している派なんですけど愛=生への執着と読み替えるか…。

人間所詮獣だよ!感が半端ねえ戯曲ですね。

演出もそれ理解しすぎだろ…。白井さんの演出毎回メンタルにくるよ好き…。

 

演出と演技についての殴り書き

演出(というか舞台美術)

舞台が最沈下してて、客席17席ぐらいが舞台上にのってるみたいな形になっていました。

その17席は椅子も、舞台上の廃墟に投げ捨てられている椅子と似たようなデザインになっていて、意図的かなと思いました。

上手脇側にも舞台美術が伸びてて、登場人物の廃墟の一室への入退場は全部そこから行われていました。上手の観客の方はラッキー?です。

 

たぶん客席が舞台に食い込み気味なのは、時間感覚を客席と共有している作品だから、空間も、ってことだったんだろうなと思っています。

ただ3階席からだとあんまりその効果みたいなのは感じなかったです。

トラムみたいな小さい空間だと強制的にそうなったんだろうけど…。残念です。

 

でも客席が舞台にやや食い込んでいて、その分アクティングスペースがやや後方になっていたので、3階席の手すりにも俳優さんがあまり被らず、かなり観やすかったです。

 

あと劇の最初にも飛行機とかサイレンの音とかが入っていて、「なんかやばいところだ…!」というのが分かって、好きでした。それと、最後に、舞台を下げることで崩落を示唆するやつなんて今まで観たことなくて「す、すごい…!!」となりました。

白井さんすごい一生ついていくというか今年は白井さん追いかけてみようと思います。『アンチポデス』では演者ですか楽しみですね…えへへ…。

 

演技

ド素人なので演技に関しては全然分かんないんですがこれだけは書かせてください。

 

吉沢亮さん、高橋一生さんに声似すぎ…

というか寄せすぎじゃない!?!

 

私、初演観てないけど、高橋一生さんなら何回か舞台で観たことあるので、もうなんかエリオットというよりは高橋一生さん演じるエリオットを1回トレースしたんか??と思うぐらい声の出し方とか似てました。なんだあれ。逆に怖い。

 

北村匠海さんは、ダレンが途中で歌歌うんですけど、明らかにそんじょそこらのギャングのレベルではない上手さで「…ダレン…謎の宝の持ち腐れ…」と奇妙な感情になりました。

 

兄(低)と弟(高)で声の高さを使い分けていたのが音声的に面白かったです。

初演のキャストもそんな感じな気がする…。

 

あとダレンが蝋燭に火をつける場面で、ライターがつかないハプニングがあったんですけど、スピンクスとかと一緒に蝋燭同士で火をつけたりとスムーズに対処していて、一瞬そういう演出なのかと疑ったくらいでした。

これで初舞台とかすごいよダレン。衝撃だよ…。

あと舞台上で、蝋燭1本つけるのも確か消防に届けが必要だったはず(たぶん)だから、舞台で火を見ると「手続きおつです…!!」と謎の感情が湧き上がる…。

 

声も全員マイクなしで聞き取りやすかったし、聞き取れない公演がままあることを考えると平均的にすごい良かったんじゃないかなと思います。

 

ただ、以下に書く点から私はその「上手いねえ…」という点が超モヤモヤするというか…。

 

現実に実際起きていることなので…

細かい指摘はめんどくさいのでしないんですが、劇中の時代が不明で政治的な立場もめちゃくちゃはっきり読み取れないこともあって、9.11とかイラク戦争とか、あとさっきも書いたけどアヘン戦争とか、それと第二次世界大戦の併合とか、とにかく色々な時代に(もちろん今も)起きている争い、紛争、戦争と簡単にリンクしてしまいます。

 

実際に、こういう残酷で残虐で理不尽なことが今もどこかで、なんならこの劇を上演している今もどこかで起きていることに簡単に気が付いてしまう、ってことなんですけれど…。

 

だから、劇場の中で、血のりまみれになって、俳優さんたちがどったんばったんその様子を一生懸命身体はって上手に演じているんですが、この瞬間もどこかしらでこのひどい状況を、フィクションじゃなく現実として味わっている人がいる、ということを常に思ってしまいました。

上手く書けないんですけど、舞台で一生懸命リアルな感情をこめて、上手に演じている俳優さんたちを見ても、本当に怪我してるわけでもないことは分かっているので、本当っぽく見えれば見えるほど「でも嘘じゃん…もしかしたら今この瞬間に本当にこういう風に死んでいる人がいるのに何一生懸命それを演じているの…?」と醒めてしまう…という摩訶不思議だけど、演劇では割とありがちな現象に遭遇しました。

 

フィクションって究極「嘘をつくこと」なので、そこには「実際にそういうことを経験した何ものか」への不遜さが含まれてしまうのは、ごく当たり前なんですけど、とりわけこういう暴力とか生死にかかわるものに関しては、現代に時代設定が近いように見えれば見えるほど、当事者のことを考えてしまい、その不遜さが倫理的にアウトなんじゃないかというレベルに見えちゃう時があって…。

美学的な視点に基づいて上手く物語にまとめること、当事者でもない俳優さんがそれをあたかも当事者であるように演じることにものすごい暴力性を感じてしまい、もう自分でもどうしようもないというか…。

『マーキュリー・ファー』は完全にフィクションで直接の当事者とかはいないとは思うんですけど、ちょっと寓話的な部分もあって、さっきも書いたように簡単に色々な現実を連想してしまうので、そこが結構きつかったです。

 

『フェイクスピア』の時にも似たようなイラつきとモヤつきは感じました。

 

monsa-sm.hatenablog.com

 

結局は何に一番モヤついてイラついているのかというと、それを観て感動しちゃったり「こういう切り口できたのか…これは面白い手法だ!」とか思っちゃってる自分に対してなので性質悪いんです。

 

現代においての政治とか社会的な問題に直接的にしろ、間接的にしろ、何らかの形で結びつく問題を扱った演劇を観て、それがどれほど巧みにその問題をさばいているか、どれほど妥当か、俳優はどれほど巧みに演じているか、演出はどういう意図で構成しているのか、それは成功しているのかしていないのか、というのをみんなで劇場で確認して、良かったら拍手を送って忘れて帰る、という行為が、よくよく考えると気持ち悪すぎませんか?(私だけかな…)

映画とかだと演劇よりはリアリティがあるのであまりこういう醒め方はしないんですが…。

【追記】Twitterの方にあげたやつ、一応こっちにもはっとく。

f:id:monsa_sm:20220209001452j:plain

 

純粋に感動した方の気分を害したいわけではないんですけど、やっぱりあれ見て「感動した!」とかは胸張って言えないです…。社会問題系感動ポルノとして観ました!言っているようなもんなんで…。

 

あくまでPLAY(あそび)である・があることを意識して感じさせてほしいみたいな気持ちが個人的にあります...。

 

たぶんイギリスがアメリカと仲良くお手手つないでイラクに戦争仕掛けた時にイギリスで観たらまた違った感想なんだろうけど...。

 

確かに疲れる劇だった

上に書いたような居心地の悪さが半端じゃないので。まさかそれが狙いか?

 

でも、たぶん愛とか以前に

 

テセウスミノタウロスと話せたかもしれないだろ。ミノタウロスだって絶対ラビリンスから出たかったと思うんだ。そしたら一緒に糸をたどって出て行けた。

 

って、ダレンが言う印象的なセリフがあるんですけど、この一言を言いたいがためにこの劇作ったんじゃないかな…、と思いました。

 

人間も所詮獣かもしんないけど言葉があるだろ言葉が!ってことですかね…。

その言葉もある種の暴力ではあるんだけどキリがなくなるのでやめます。

 

あとまああれかな…ちょっと舞台暗めだったかな…。私はああいう暗さ好きですが、やや目を凝らした瞬間が何回かあって疲れました。

主演のファンの方のこととかも考えるともうちょっと明るくした方がいいのかなあ…と漠然と思います。

 

もしかしたら配信の方が素直に感動できたかもしれません。世田谷パブリックシアターの配信は観たことないけど、たぶん、準映画、みたいな感じになってると思うので。

役者さんたちは良かったけど、なんか熱量不足かなと思った『泥人魚』

2021/12/12

シアターコクーン 13:30

f:id:monsa_sm:20220204140532p:plain

 

 

去年観た演劇の感想を年度末までに片付けよう第2弾です。

第1弾はこれ☟

 

monsa-sm.hatenablog.com

 

あんまり褒めてないので、この公演が好きだった方とかは、当時レポート地獄でメンタルブレイクしながら観に行った可哀そうなヤツの勘違いだと思って是非スルーしてください。

 

 

公式

www.bunkamura.co.jp

 

唐十郎の芝居のあらすじをまとめるのなんて、たぶん研究者の大学の先生とかでも難しいと思うので、気になる人は戯曲読んでみてください。たぶん読んでも訳が分からないと思うし、私も完全には分かっていないんですけど、ざっくり言うと資本主義経済の大きい流れになすすべもなくからめとられた人達の、失われた過去への思いとか哀しみとか懐かしさとか、それでも今も生きているしんどさとか、かつて仲間だったのにそのしんどさを共有できない虚しさとか、とにかくそういうどでかい感情を、叙情たっぷりにごった煮にしたみたいな戯曲だと思いました。

 

ちなみにS席は1万円超えています。

観客も資本主義経済にどんどん飲み込まれています。お財布君が号泣寸前。

「なんの皮肉だ。河原乞食は一体どこに消えたんだ…」とチケット買うときに思いましたが、母のおかげで、なにかしらの優待を利用してちょっとは安く買えたので飲み込んでおきます。

 

役者さんたちは良かったんじゃないかと思う

可もなく不可もなく…、といった感じ。

というか私、宮沢りえさんの見た目がドストライクすぎて毎回「好き…!!(思考停止)」とならないように気を付けて観ているので、よく分からなくなると言う方が正しいかもしれないです。

ただ今回のヘアメイク、もっと宮沢りえさんの良さを引き立てるようにしてくれても…、と思いかけたんですけど、これは私の好みの問題か。すみません。

 

愛希れいかさんも初めて拝見したんですが、すっごい人間離れした頭身で目が惹きつけられて、宝塚はやっぱり怖いぜ、と思いました。

 

あとは本当にめっちゃ上手・下手とかいう印象に残っている人が少ないです。

磯村勇斗さんは、「喉大丈夫?」とちょっと冒頭不安になったけど、最後まで好印象な感じでした。

 

イマイチわくわくできなかった

ただ、テント公演(コロナになってから全然行けてないけど)とかで観る唐十郎の芝居の役者さんたちの、あのギラギラしてて「なんかこの人達ヤバい…!!(めっちゃ面白いことしてくれそう!!)」みたいな引っかかりがなくて、その辺りになにか強烈な違和感を感じてしまって、イマイチ芝居の冒頭から気持ちがノらなかったです。

 

後半にある、泥水入った水槽にみんなでばっしゃんばっしゃん入るのも、「え~~!?入るの?!?入っちゃうの!?!(ばっしゃーん)ああああ入っちゃったよマジで!!」とかいうどよめきみたいなのも客席になくて、内輪ノリしんど、みたいな風に感じてしまいました。

 

…素人意見なんですが、これは唐十郎の芝居で完全にアウトじゃないか??

 

シアターコクーンが、でっかすぎというのもあるとは思うんですけど、『唐版 風の又三郎の時は特にそういう違和感みたいなのを感じなかったので…、って今過去の感想確認したら「なんか劇場の雰囲気が気持ち寒かった」って書いてました。なんてこった。詰んだ。

 

最後のシーンは結構好きだった

ブリキで作った鱗のドレスみたいなのを身に着けたやすみ(宮沢りえ)と蛍一(磯村勇斗)が手を取り合って、舞台の奥にある仕切りの向こうに歩いていくんですけど、若干橋みたいになっている2人が歩くその道が、細かい電飾でデコレーションされていて、暗い劇場内で見ると、夜、月明かりとか街から漏れてくる明かりを水面が反射したみたいな感じに見えて、綺麗だなあ、と思いました。

 

あと感想のメモに「なんか2人の結婚式みたいだった」と書いてます。なんか分かる気もするけどこの一文だけだと全然分からないぞ過去の私。もうちょい頑張って。

 

またテント公演行ってみようかなあ…

観に行って大後悔したかと言われると「いや全然?」という感じなんですが、やっぱり大きい劇場で唐十郎の芝居を観るとコレジャナイ感が半端ないです。

 

もうちょっとコロナと、あと私の潔癖症が落ち着いたら、テント公演に足を運んでみようと思います(安いしね。圧倒的に)。

舞台とか観たことない人にもおすすめできそうなNTLive『ロミオとジュリエット』ROMEO & JULIET

2022/01/31

シネ・リーブル池袋 13:40

f:id:monsa_sm:20220201163844p:plain

 

 

こんな書き方すると語弊でしかないんですが、ティボルトが立ちションするシーンにめちゃくちゃ感動しました。

これだけだと単なる変態でしかないので、なんでそこに感動したのかということも、なんとか書いていけたらいいなと思います。ただちょっと上手く言い表せなくてごちゃごちゃとした感じになっちゃってると思います。

 

あとこの作品、映画なのか演劇なのかピンときていないので、カテゴリにはどっちも入れておきました。個人的な感覚としては「映像作品」という感じがします。

 

 

あらすじとトレーラー

 

 

全体通しての感想

全体的には、演劇(虚)と映画(実)の使い分けが面白いなあ、と思いました。

この書き方はかなり便宜的なんですが他によさげな書き方が思いつきませんでした…。力不足…。

演劇観てたらいつの間にか完全にイリュージョンに巻き込まれてしまって、その完全なイリュージョン部分が映画的に表現されてたというか…。

 

100分なので、かなり大胆にカットされているんですが、変につまった感じとかはなくて、コンパクトで観やすかったです。

 

それに、カットした部分のつじつま合わせの仕方がまた効果的で、原作知っていても(観たことあっても)「そうなるのか!」と面白いし、全然知らなくて「シェイクスピアとか難しそう…」とか思っている人でも観やすいし、「そんなことないよ!ほら最近の映画より短いし観てみてよ!」と勧めやすいんじゃないかなあ、と思いました。

ところで最近の映画って普通に3時間越えたりしてるけど、みんなトイレどうしてんの…?休憩は映画だとたぶんないんだよね…??

 

演劇(虚)と映画(実)

見出しの書き分けの意味が、自分でもちょっと「これでいいのか…?」と不安になっているんですが、舞台上で人が刺されて「うッ…(倒れる)」って死んだ時、そこでマジで人が死んだなんて誰も思わないけど、映画だと、映像に映っていることが全てになるので、それよりはほんとに刺されて死んでしまった感があるよね、ということです。

『スペインの悲劇』とかあとパッと思いつくので『女中たち』とかもかな…。こういうのでは劇中劇とかでほんとに死んじゃうけど…。でもこれ劇中劇の登場人物を演じていた劇中の人物が死ぬだけで別に俳優さんが死ぬわけではない…。

 

単純に映画の方が本当っぽく見えるってことです。

同化、でもいいし、完全なイリュージョン、でもいいけど…。

 

トレーラーにもあるんですが、しっかり衣裳着てかなり映画っぽい部分と、これから公演がある舞台のドキュメンタリー作品なのかな、ぐらいの稽古着&稽古場な感じの部分の2つの層があって、結構意図的に使い分けられていたなあ、という印象がありました。

 

冒頭は本当に、初顔合わせ~みたいなノリでみんなヌルっとステージ上にコの字型で座った状態でスタートしてました。舞台上というよりは稽古場、という印象です。

口上はたしか中央に座ってたエイドリアン・レスターだったかな?

大公も演じてたけど贅沢なキャスティング…!

 

とにかく舞台制作密着ドキュメンタリーみたいな雰囲気の冒頭。

 

で、その後、原作通りに突然ケンカが始まって、最初はなんか棒っきれを剣に見立ててワーワーやってたんですけど(もちろん全然怪我なんてしない)、キャピュレット側が突然リアルな短剣を抜いてベンヴォーリオに斬りつけて、そしたらベンヴォーリオがマジで手から血を流して、その続く場面で手当てしてもらってたんです。

 

「…??あれ…??ベンヴォーリオほんとに怪我してるね??」

 

と、ここでかなり不思議な気持ちになりました。さっきまでザ・演劇!みたいな見立てをしてたのに…。

演劇観てる時に俳優さんが役として怪我したと同時に本当に怪我してたらビビるよね。なんかそんな感じです。

 

この冒頭の怪我の部分で、稽古場の雰囲気から、一気に映画的な本当っぽさを持ったロミジュリの世界に足を踏み入れていく感覚がありました。

 

そのあともしばらく演劇の稽古場的な感じの雰囲気で続くんですけど、舞踏会のシーンとかは、ロミオとジュリエットが完全に二人きりの世界に没入するからなのか、めちゃくちゃ作りこまれているし、撮影の仕方もあって、「もうこれ完全に映画じゃん…!」となりました。

その舞踏会の場は舞台上にかなり作りこまれているんですけど、なんか舞台袖?みたいな部分とは可動式の壁で区切られて、舞踏会に忍び込むロミオたちはその袖、というかなんというか、とにかく稽古場の雰囲気残してる場所から壁の隙間を通って結構ドラマチックに侵入していくので、一気に「世界に色がついた!」みたいな感覚になって面白かったです。

演劇でもすごく上手くてめちゃくちゃ没入して観ると、舞台上にないはずのものが見えたりするけどあの感覚に近いです。

 

あとマキューシオとベンヴォ―リオが舞踏会から帰る際に、その隙間から脱出してきて稽古場の雰囲気残ってる場所に戻ってくるのはちょっとコミカルでした。映画の世界に没入していたのが、突然演劇的に異化されたというか、とにかくニヤッと笑ってしまいました。

ちなみにこのマキューシオとベンヴォーリオは恋人設定みたいです。舞踏会でのロミオとジュリエットのハイライトでもあるキスシーンと、マキューシオとベンヴォーリオのキスがクロスカッティング(用語あってる?)されて強調されてたので…。そしてこの設定も後から効いてくる…。すごい…。

 

そんな感じで、とにかく、映画的に作りこまれていてリアリティありまくりで没入して観られる部分と、ちょっと演劇的に引いて(「演技なのは分かってるよ!」って常に意識できてる感じで)観られる稽古場の雰囲気の部分を、行ったり来たりして虚実が(要は映画として観ればいいのか、演劇として観ればいいのか)ふわふわする感じで、かなり面白かったんです。

しかもちょうどマキューシオが殺されるあたり(つまり悲劇に方向転換する部分)で完全に「映画として観てね!(というわけで没入して観てね!没入して感情移入とかしてくれないと悲劇になんないから!)」という表現があってマジで最高だったんですけど、それが例のティボルトの立ちションだったという…。

ふざけてないです。真面目に感動しました。そもそも飲食も排泄も、別にしたくなきゃする必要がない映画とか演劇の世界で、そういう表現があった時は絶対意図しかないもん…。

 

稽古場の雰囲気残してた殺風景な舞台上?というかやっぱりちょっと袖みたいなとこで、マキューシオとベンヴォーリオがいちゃついてんですけどリア充爆発しろ)、そこに突然ティボルトが来て、たぶん嫌がらせだと思うんですけど、すぐそばで立ちションするんですよね。映画的に。

 

いままで稽古場の雰囲気残して、映画のリアリティとは別の次元です、って顔していた場所が、その立ちションを境に突然、なんかあんまり治安がよろしくない路地裏に見えだした(映画的なリアリティが形成された)んですよね…。

だって稽古場の壁に、俳優が立ちションはありえなさすぎる…。ここに来て演劇としての観方を放棄することを立ちションで迫るとか…。サイモン・ゴドウィン…こわい…。

 

まじで立ちションで感動する日が来ると思わなかったし、ブログでこんなに立ちション立ちション書きまくる日が来るとは思いませんでした。ほんとに。

 

とにかくこの短剣での怪我→舞踏会の場面→立ちションを頂点に、一気全体が映画的なリアリティ持った映像になってました。

 

ただ、演劇的な部分(映画的なリアリティだとちょっと違和感が残る部分)が完全に排除されている訳ではなくて、例えばロミオが追放されるときに搬入口かな?という場所に追放されたりしてました。劇場内に繋がってはいるんだけど、シャッターみたいなので遮断されている場所。

ちなみに連絡役は今回の作品ではベンヴォーリオになってました。

 

だから「ヴェローナ(劇場内とか舞台上とか)の外に世界はない!」ってロミオが叫ぶ時のメタ感がすごいです。確かに舞台上とか劇場内から追放されちゃうと、俳優さんとしては絶望しかないんで…。

 

あとは、ジュリエットが仮死状態になるための薬を飲むために逡巡する場面とか。

 

ジュリエットは映画的に作りこまれた部屋のなかにいるんですが、やっぱり怖くなって乳母を呼び戻しに、何枚ものドアを開けて行って部屋から出ていくんです。そしてついに「その向こうにロミオいるんじゃね?」というむき出しのコンクリの壁まできて、突然思い直したように「この恐ろしい場面は独りで演じなければ」って決意して、さっきとは逆方向に舞台上に戻っていきます。

それでジュリエットが舞台上に戻ると俳優さんたちみんなが、さっきとは打って変わって殺風景な舞台上に置かれたジュリエットの寝台をコの字型に囲んでいて、稽古場の、というか演劇の層がまた微妙に復活するという。

 

この囲んでいる俳優さんたち、ジュリエットがセリフの中で怖がっている納骨堂の亡霊を表していると同時に「ジュリエットが演技している」ということを強調する役割だと思うんですが、それに加えて映画的なリアリティをも一旦ここで破棄して「演技している」ということをさらに強調するのには「すごすぎる…!!」とアホみたいな感想しか出てきませんでした。

ちなみに薬を飲み終わって朝になるとまた映画的に作りこまれた感じに背景とかは戻っています…確信犯…。

 

あとその「ジュリエットが死んだ!」って言う知らせを、ベンヴォーリオがマキューシオが亡くなった「路地裏」に花を手向けて死を悼んでいるときにたまたま聞いてしまって、劇場の外に追放されてるロミオに伝える、という感じになっていました。

両者、恋人を亡くしたもの同士(ロミオは勘違いだけど)の不思議な共感みたいなのがあって、「このシーン、こんな感じにもできるのか…」とびっくり。

あ、ロミオはロレンス神父がたまたま調合していた毒薬を、「追放されるぐらいなら自殺してやる~~!!」ってダダこねてた時にくすねたみたいです。大分すっきり上手くまとめている…。ただ「毒を売るのは僕だ、お前ではない」みたいな薬屋とのやり取りで出てくるロミオのセリフは結構好きなので、編集の巧拙とかじゃなく個人的な好みとして残念でした。

にしてもロレンス神父、パリスにお茶淹れてたりするシーンもあったので、頼れる喫茶店ハーブティー専門)のマスターみたいに見えてきたぞ…。

 

その後、ジュリエットの上でロミオが死ぬ時、微妙にジュリエットが動いてるようにも見えたので、「とりあえずディカプリオのやつ観ないと...!!」と思い出したのは私だけではないはず…。

 

ジュリエットが短剣で勇ましく死んだあとは、2人の抜粋映像が、時間を徐々に遡る形で編集されていました。最初の稽古場ドキュメンタリー風な部分で仲良さそうな部分まで遡るので、途中からロミオとジュリエットなのか、ジョシュ・オコナーとジェシー・バックリーなのかちょっと分からなくなる。

ラストも、大公の言葉に合わせて、映画的なリアリティ(ちゃんとした衣裳とセット)の中で2人の死を嘆き悲しんでる人々の映像の後に、稽古場的な場所・稽古着的なラフな衣裳で、でも全く同じ構図で2人の死を悼んでいる映像が入って終わるので、なんかほんとに最初から全部ひっくるめて、ロミオとジュリエットなのか、ジョシュ・オコナーとジェシー・バックリーなのか混乱しました。

 

すごく単純に書いちゃえば、ジョシュ・オコナーとジェシー・バックリーが『ロミオとジュリエット』を演じていて、徐々に本当にロミオとジュリエットとして存在しているようになるのに合わせて(あるいはそういう錯覚、イリュージョンを意図的に引きおこすために)、映像内での映画的なリアリティが増していった、ってことなんだろうけど…。

 

もちろん映画にしろ演劇にしろ、突き詰めればほとんど本当じゃないんですけど、両者の違い、というか、観客として観る時にどういう風に受容の姿勢に違いが生まれているのか、というようなことが結構整理された形で体験できた気がしたので、とにかく作品の完成度は言うまでもなく、その辺りがすごく面白かったです。

 

タムシン・グレイグ(キャピュレット夫人)…良き…

キャピュレット氏のセリフを(たぶんほぼ)全部キャピュレット夫人に言わせていた、っていうのがこの作品のデカい特徴の1つだと思います。

 

たとえば「パリスと結婚しないなら親子の縁を切る」というのを、原作通り、キャピュレット氏の方が言う場面って「家父長制エグ…」とか、あと現代的な演出とかだと「時代錯誤なパパ…うへえ…ジュリエット可哀そう…」みたいでドン引きして観ることがほとんどだったんですけど、夫人の方が言うと、家父長制とかいうより、母と娘、親と子って感じの構図に見えて、現代的な視点から見ても全然違和感なくスッと受け入れられる感じになってました。

毒親とか支配的な親の問題、今なんてとくに溢れかえってるし…。

 

タムシン・グレイグって言うのも最高ですよね…。確かにこの人がお母さんなら、お父さんの方は結構尻に敷かれてて、お母さんの方が支配権握ってそう…と思わせちゃうあの圧倒的な感じ…。

 

でもそういう強い母って感じだったので、ジュリエットが死んだ(仮死)シーンで「たった一人のいとしい子だったのに!!」って泣き崩れているのを見ると、一人娘がゆえどうしても幸せになって欲しいがための、あの抑圧的な態度だったんだろうなと思ってしまって、結構しんどかったです。愛してないわけではないんだよね…。難しい…。あと絶対現代にもごろごろ転がってるぞこういう問題…。

 

それとあんまり関係ないんですけど、パリスとキャピュレット夫人の怪しい雰囲気は何なんでしょう。「お母さんと結婚すればええじゃないか」と私の心の中のライサンダーが叫んでいるよ…。

 

観に行って良かった

正直ロミオとジュリエットは、個人的に別にそこまでテンション上がる話でもないんでテンション低めに観に行ったんですけど、帰りはテンション爆上がりで帰りました。観に行って良かったです。

 

フラッシュフォワード的な(映画の用語は詳しくないので細かいとこは見逃してください)映像編集とかもガッツリ使っていたし、全体的に撮り方もザ・映画!という感じだったんですけど、演劇的に面白い部分もめちゃくちゃあって、すごいぞサイモン・ゴドウィン!!と友人感覚で拍手喝采してました。

 

ところで一応映画ってことは円盤化をついに期待してもいいんでしょうか。NTLiveさん。

 

首をながーーーーーーーーくして待ってますね?(圧)