感想日記

演劇とかの感想を書きなぐってます。ネタバレはしまくってるのでぜひ気をつけてください。

『いざ最悪の方へ』@PARA 神保町

ベケットの短編小説を演劇にする、ということで「ベケット著作権が厳しいのに、よく『小説』の形式の作品を『演劇』の形式でやることにOKもらえたな…」と思って観に行ったら、まさかのこけら落とし公演でびっくりしました。なんと。

ついでに先生も観に来てて、よりびっくりしました。学部のゼミの人たちと劇場で会うことはついぞなかったんですが、院のゼミの先輩と先生にはよく遭遇するようになりました。みんな行動パターンが似てくるんですね…。

 

そういえば一応一人芝居でした。一応は。

 

『いざ最悪の方へ』感想

@PARA 神保町(2023年1月28日、14時)

 

内容とは直接関係ないのだけれど、初めて行く劇場だった。劇場というよりビルのワンフロアをぶち抜いたみたいな場所だった。基本的に観客席は、(うろ覚えの)下図の舞台1を観ている形だけれど、舞台2も使用しているから、(私は背もたれのない丸椅子に座って観ていたので)結構ぐるぐると周りながら観る感じだった。

あと思ったより本当に普通のビルで、上演中俳優が窓から何度も繰り返しかなり身を乗り出したり、大声を出したり、ドアや窓をドンドン叩いたり、ドタバタと争っているような騒音を立てるので、通報されずに上演が終わって良かったなと思ったことを覚えている。

 

 

ところで『いざ最悪の方へ』のテキストなんだけど、80頁ぐらいの短いものだったので読んでから行った。小説において「何者」にもならないまま、「何事」も意味せずに語り手が「語る」ことが可能か、ということを実験した、かなりとんがった作品なのではないかと思う。

結果としては、「何者」にもならないようにしてもぼんやりとした「何者」にかはなってしまうし、「何事」も意味しないようにしても、やはりぼんやりとは「何事」かを意味してしまう(つまり「失敗」してしまう)。それならばせめて「もっと良く」「失敗する」ことを求め続けることしかできない。つまり一般的な感覚(小説は、少なくとも「何事」かを「語る」ものであるという認識とか?)からすると「もっと悪い」方へ、「最悪」の方へ向かい続けることしかできない…、ということを延々と語り続けているのではないのかなと感じた。

 

まあ、ブレヒトの作品を生で観るのは初めてだし、読んだ作品も10本程度なので、上に書いたこと全部間違っているかもしれないのだけれど、テキストが表現していることの大まかな骨組みはこんな感じだろう、という認識で私は上演に臨んだ。

正直、読んでもよく分からないテキストで(ただベケットの作品は明確な論理構成を持っているはずなので、理解できないのは私が100%悪い)、とりあえずどういう風に理解したかは明記しておいた方がいいのではないか、と思ったので書いておく。

 

つまり、「演劇」(生身の俳優という存在を基本的に前提としているので、「小説」よりも「何者」かが「何事」かを説得力を持たせて語ってしまう形式)は、結構このテキストの表していることと相性が悪いのではないか…と思っていた。そもそもベケットは形式と内容の一致みたいなことにすごく神経を使っているはずなので、この作品を「小説」として発表したからには、この内容と「小説」という形式はものすごく密接に結びついているはずなのだ。

それを崩してまで何をしたいのか…?と結構疑問に思っていたのだけれど、当日パンフレットに「小説として書かれた作品なんだけれども、これは演劇なんじゃないか……と思って手に取った」と演出家が寄せていて、これ以上の説明はなかったので、その方面での面白さは諦めた。

そしてやっぱり、上演も、なんとなく最後の方はエモくはあったのだけど、全体的によく分からないテキストを、なんとなく感覚的に訳の分からないまま演出していた印象がぬぐえなかった。正直「ベケットの作品はよく分からないもの」として「分からないことをやっている私たち、高尚なことやっていてかっこいい」的な日本演劇のスタンス(私の言い方が悪いのは自覚しているけれど、ほかに上手い言い方が思いつかない)はちょっとどうかと思うところがないわけではない。海外のベケットは結構「分かる」ことが多いだけ、なおさらだ。

 

もちろん演出家が本当に分かっていないわけではなく、おそらく分かってはいるんだろうなという部分も散見された。

たとえば、テクストが、ほとんど先ほどの図のドアの辺りに投影されること。俳優は投影される前にテクストを喋ったり、逆に投影されるテクストを観て「ああ」とか「うん」とかあいまいな言葉を発したりしていた。たぶんこれは俳優1人に集約されがちなテクストの語りの「主体(何者か)」をあえてぼかすために行っている演出なのだと思う。

同じような試みとして、後半DJの人が舞台1に立ちキーボードの音階でテクストを演奏し(例えば「わたし」というテクストがあるならば3音演奏する、といったように)、舞台2でマイクを持った俳優がテクストを歌うということを交互に行って、最後には2人でテクストを演奏し/歌い、互いにサムズアップしてその場面は終了、という謎にエモい歌舞伎みたいな演出をしていたのも、(出演者は1人と銘打っているのに2人出てくる段階からしても)「主体」を拡散する意図があったのだと思う。実際に観客も、図でも分かるように左右に視界を分裂させながら観る羽目になるので、この試みは結構面白かったと思う。

ただ、ドアの方の演出の方では、相槌をうっている俳優がドアをドンドンと激しくノックしてしまうので、「主体」がぼかされる/拡散されるというよりは、ドアの向こうに、より高次の確立した「主体」がいるように見えてしまったので、ドアを叩くのだけはやめた方が良かったのではないかと思う。

 

あとこのテクスト、原文でも比較級が頻出して、日本語でも「もっと」「もっと」が頻出するのだけど、その「も」をひたすら強調して言うことで、だんだんフランス語のmot(語、単語、言葉)っぽく聞こえてきたのも、考えすぎかなとも思ったけど、たぶんベケットのやろうとしていたことを理解していないわけではないんだろうな、という判断材料になった。なっただけで、効果的だとはとても思えなかったけれど。

 

それと俳優も、DJもなぜか作業着みたいなつなぎのような衣裳を着ていたのも結構謎だった。ただこの俳優さん(矢野昌幸)は、いい意味でとても得体のしれない不気味な印象のある人で、身体能力も高く演技も上手くて、こういう「何者」かと「何事」かをぼかすような感じのテクストにはぴったりの人なんじゃないか…と、キャスティングに関してはとても的確だったように思う。

 

それにしてもやっぱり「いま」「なぜ」「このテクストを」「この場所で」「この形式で」上演するのかの答え(めいたものでもいい)が、上演を通してあまり分からないのは結構問題なのではないか…と感じた。別に「デカい劇場でスターを使ってド派手な演出のエンタメで観客全員をとことん楽しませたい」とかでもまっとうな目的だと思うし、実際に例えばホリプロのハリポタなんかはそんな感じの目的を持ってやっているから最高だと思うし、しかも今回はこけら落とし公演で、いろいろすり合わせる時間もいっぱいあったと思うので、もう少し劇場のスタンスというか、立ち位置を明確にするべきではないのかと思う。

特に会場となった場所の特性は、比較的演出に反映されていた(利用されていた)分、なんだかなあ、と残念に思ってしまう気持ちが止められなかった。

 

次は『わが町』の感想書きます。

それにしても、途中10分くらい、手渡された『いざ最悪の方へ』の抜粋テクストを観客自身で黙読する謎な時間が上演中にあったんですけど、その時、すりガラスの向こう側にマイクもった俳優さんがへばりついていて(しかも結構早い段階でそれに気が付いてしまって)、私の席の位置的にへばりついた俳優さんをすりガラス越しに観る(というかすりガラス越しにばっちり目が合う)という摩訶不思議な体験をしてしまい、とにかく大変に不気味でした。あとあんまり私が後ろをじっと観ているものだから、周りの人も徐々に気づき始めたのが「視線が伝播している…!!」と、楽しかったです。

 

『わが町』の感想は、調子よかったら今日書きますが、もしかしたら明日になるかもしれないです。