感想日記

演劇とかの感想を書きなぐってます。ネタバレはしまくってるのでぜひ気をつけてください。

『おやすみ、お母さん』@シアター風姿花伝

毎日更新チャレンジとかさっきの記事で書いていたんですが、調子よかったので2本目書けちゃいました。相変わらずあんまり褒めてないので、読まれる方は気を付けてください。

 

あらすじもたぶん他の方が書かれていると思うし、たしかこれも邦訳出てたはずなので、ぜひみんなで戯曲を読みましょう(私もまだ読んでいないですが…)!

 

『おやすみ、お母さん』感想

@シアター風姿花伝(2023年1月24日、14時)

 

雑なあらすじをまとめると、てんかんを患っているバツイチ子持ちのジェシーが、10年ぐらい前から考えていた自殺をいよいよ決行するにあたって、母セシルに「今から2時間後にベッドルームに鍵かけてパパの拳銃で自殺する」と伝え、そこからぐちゃぐちゃと今までのこととかこれからのこととかを2時間弱ぐらい母と娘で話し合って、結局娘が自殺する話。

 

那須佐代子と那須凛という「本物」の親子でやる、というのが目玉の公演だったと思うのだけど、私はむしろ「本物」の親子でやることによって、結局は舞台上で起きていることは「偽物(虚構)」でしかないことが強調されてしまったように感じて、いまいち入り込めなかった。

特に最後の自殺の場面で、バンッっと大きな銃声が寝室からして母セシルが泣き崩れる描写があるのだけれど、「本物」の親子であるためにどうしても「いやでも本当にあなた(那須佐代子)の娘さん(那須凛)が死んだわけではないからな…」と妙に冷めてしまった。

どこかの偉いフランス人あたりが(アルトーとかコクトーあたり?)、舞台上でタバコに火をつけてはいけない(観客席のレベルと同じ「リアリティ」のものを舞台上に持ち込むと、観客席とは違うレベルのイリュージョンとして舞台上で形成される「リアリティ」が崩れ去る、的なことだと思う)とかなんとか言っていたようなことを授業で聞いたような気もするけど、なるほどこういうことか…と納得してしまった。

おそらく、演出としてもその決定的な齟齬に気が付いて、少しでもその特別な「本物」を薄めるために、舞台美術をさまざまな「本物」で埋め尽くしたのだろうか…とも考えたりした。実際にキッチンからはガチで水が出るし、お菓子も食べられるし、家具も本当に使えるし…といった感じで「本物」だった。ただ「本物」で埋め尽くせば埋め尽くすほど、決定的な役割を果たす拳銃がやっぱり「偽物(虚構)」でしかないことが、あんまり良くない形で際立ってしまったような感じがした。

 

それと舞台美術にかなり謎が多かった。すごく現代日本っぽかった。キッチンは二口コンロを置いて使用するタイプだったし、固定電話は押しボタン式だし、テレビは妙に新しい薄型だしで、全然アメリカ感がなかった。演出の小川絵梨子さんはアメリカに留学していたはずなので(アメリカっぽい家の様子が分かっているはずなので)あえて日本風にしているのだろう。ただセリフに出てくる戯曲が書かれた時代(1982年)的な要素は「中国共産党」ぐらいなもので、全体的な設定としては、いつでもどこでもこういう母と娘はいるだろうな、と思わせるものでもある。だからもし物語に没入しやすいように、日本の観客向けに日本風にしているのだとしたら、余計なお世話というか、観客を馬鹿にしすぎじゃないかとちょっと思った。

 

あと結構間取りも謎だった。一応覚えている感じではこんな感じ。

おそらく玄関は観客席からは見えない矢印の方向にあるのだろう、といった感じだったのだけど、そうすると玄関の真上あたりに物置部屋の階段がくることになるので、いったいどんなつくりの家なんだ…?と混乱していた。

あと混乱ついでなんだけれど、私が観た日、この洗濯かごの後ろあたりから、上演中ずっと加湿器みたいな小さなスモークが出ていて、「なんだあれ…?」とずっと考えてしまって結構気が散ってしまった。なんだったんだろう、あのスモーク。誰か知っている方いたら教えてください。

 

演技に関しても結構不満が多かった。まず母も娘もがなる/叫ぶのをやめて欲しい。夜8時からだいたい10時ぐらいまでの設定でしょ?いくらアメリカの田舎だろうとそこまで叫ぶと周りから苦情くるのでは??というくらい叫んでいた。

もしかしたら地下の部屋なのかもしれないけれど、イギリスならともかくアメリカの田舎で地下にキッチンとリビングがある家ってどんな家だよ、とセルフツッコミしてしまった。

あとシアター風姿花伝ぐらいの大きさなら、たとえささやいても聞こえるよ…と思った。

 

加えて、娘の方がまるで躁鬱の躁状態のようなテンションの演技だったのがめちゃくちゃに引っかかってしまった。

私はこの戯曲を読んでいないけれど、演技を無視してセリフだけを聞くと、

 

・娘は10年ぐらい前から自殺を考えていた。もう心は決まっている。母がどういう手順で通報し、どういう手順で葬儀を行うかまでの計画も練ってある。

・決行するための準備はほとんど終わっていて、あとはやれたらやりたかった些末なことをしている状態。とにかく母に自殺の事情を説明して説得して納得してもらい、母の作るココアとキャラメルアップル(キャラメルアップルは結局作られないけれど)なんかを一緒に心穏やかに食べるつもりだった様子(てかキャラメルアップルの響きがおいしそうすぎてめちゃ食べたくなった)。

・娘は「何も達成できない」自分でも確実に達成できる希望として自殺をとらえている。

 

と、娘が躁状態のように終始エネルギッシュにバタバタする要素はあまり見受けられないように思う。なのに那須凛があまりにエネルギッシュすぎて「そんだけバタバタ手際よく動けるならたぶんこれからも元気に生きていけるって…」とか「絶対躁状態で興奮しての行動なんだろうから、これじゃあお母さんの方も『薬飲んで寝ろ』って言うよ…全ッ然説得されねえ…」とか思ってしまった。

正直、こんだけ興奮状態の娘が「自殺する!」っていきまいたらどんな母親も説得されねえよ…とゲンナリしてしまった。

たぶん本来なら、非常に冷静な思考で「自殺は希望である」ことを聞き手である母、および観客に納得させて決行することで、自殺礼賛とも捉えられかねない危険な共感を生み出す可能性のある作品だったのだと思うのだけれど、那須凛の演技に全く説得されないので、良いのか悪いのかは分からないけれど、そういう共感は全く起きなかった。まあ私自身かなり鬱っぽくて自殺願望が全くないわけではないので、こんなに元気な人でも自殺したくなることがあるんだなあ、という新鮮な驚きはあったように思う。

それにしてもこんな状態で、ママに罪悪感を感じさせないために自殺することを前もって話したの、とか娘が母に言っても、ただの興奮状態の人による当てつけ、八つ当たりにしか思えず、母のセリフにもあったように「死ぬなら黙って死ねよ…」と思わず言ってしまう、思ってしまう気持ちが分からんでもない、と感じた。

 

「おやすみ、お母さん!」と大声で言い捨て、ドアをバタン!と勢いよく閉じ、その数秒後に銃声がする、となんともアグレッシブかつ突発的な自殺だな、という印象が全体的にあったのが、たぶん戯曲の描きたかったこととかなり齟齬があるのではないか…という印象がぬぐえない上演だった。

 

明日は『いざ最悪の方へ』の感想書きます。

あんまり本筋には関係ないんですけど、いつでも銃で簡単に自殺できる安心感があるので、わたしは案外銃社会の方が自殺願望抱かないかもな…とどうでもいいことを思いました。

 

明日は『いざ最悪の方へ』の感想を書こうと思います。たぶん。