感想日記

演劇とかの感想を書きなぐってます。ネタバレはしまくってるのでぜひ気をつけてください。

『少女仮面』(ようやく感想)

2020/02/09
シアタートラム
13:00から C列14
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感想をまとめあげるのに
こんなに時間がかかったのは
唐十郎のやつだからです!私は悪くない(はず)
この、いわゆるアングラとか小劇場運動とか
そういう系の活動が活発になった
1960年代あたりの演劇関係の人の
頭の中って一体全体どうなってるんだ!
と思うことが多いですが
唐十郎は群を抜いて酷い。
最早"理解"を拒絶してるようにも感じます。
というわけで今回は
とんでもなく支離滅裂の長文になるか
めっちゃ短くて語彙力皆無の記事になること
100%間違いなしです。
マリコさんも風丘先生もびっくりの確率です。
助けて土門さん!
それにしてもほんとに唐十郎の作品は
めっちゃ良くて、6割の理解が限界です。
平均すると4割...いくかな。
東大含め上位大学の入試の方が
まともにやればまだ点数とれますね。
はっきり言って詰んでます。
そもそも唐十郎とかの作品を言語解釈する方が
無理です!(ついに逆ギレ)
あ!あと、みなさん受験お疲れ様です!
頑張ればいける!大丈夫!私でもいけた!

そろそろ言い訳も程々にして
頑張ってみようかと思います。
!マーク多めでのお届けですね。多分。

最初に客席に入ってびっくりしたのは
前から二列目だったことです!
久しぶりにこんな前列に座りました。
いつも安い席だし
ファンクラブとかにも入ってないので
こんな近いのは珍しいですね。ラッキー。
小さめの劇場なので首が痛くなることも無い。
大劇場だと2列目とかだとちょっと痛いです。
大きいハコだと、余程のファンじゃない限り
10列目以降が全体を観やすいと思います。
舞台のセットは、もう見えている状態でした。
最近は幕が降りてる事の方が珍しい気がします。
なんだか工事現場みたいなセットでした。
といっても妙に生活感があるセットというか...。
掃除機とかテーブルセットとかが
脇に置いてあったからかもしれないです。
アジトとか、飲食店密集地の路地裏とか
あるいは海辺の倉庫の中に
ひとつくらいはありそうな
雑然とした感じですね。
刑事ドラマとかでヤクザが取引してそうです。
...刑事ドラマ...科捜研...( ¯꒳¯ )
(わかる方だけ察してください)
ただなんとなく
路地裏が1番近いのではないかな、と思います。
というのも、せっかくのこのセット
開演ちょっと前に
全身黒づくめの不審者みたいな(失礼)
スタッフさん兼役者さん達が
ガタガタ片付け&掃除しだしたんです。
ものを寄せて、スペースを作って
色が禿げてるところ塗り直して
掃除機かけて綺麗にして...みたいな。

ちょっと脱線するんですが
海外とかだと割と、あえて治安の悪い路地裏とか
そういうところで舞台やったりするらしいです。
サミュエル・ベケットの作品とか多い。
ゴドーを待ちながら』のあの人です。
それは確か、"格差社会における社会的弱者の〜"
とかうんたらかんたら先生が言ってたんですが
そういうことを思い出して(偉いぞ自分)
路地裏が1番近い表現だと思いました。
"薄汚いような所にあえて演じる場を作っている"
という意味において、ということです。
ベケットの方はたしか
その時の劇の話の内容に直接関係があると言うより
そういう場所に観客を連れ込んで
パフォーマンスすることで
劇そのものに新しい色を加えるっていう
(戯曲やト書はいじらないで)
演出の一部だったようなんですが...。

今回もそれに似たような事だったのかなあ
と思います。
もともとゲリラ公演で機動隊出動とか
寺山修司とのいざこざで劇団殴り込み
(からの警察沙汰。)
とかハチャメチャな武勇伝には
事欠かない劇作家さんですし
紅テント公演とかがメインな印象があります。
どうも野外劇場みたいな印象が強い。
戯曲もどう考えても、小綺麗な舞台で、
空調しっかり効いた空間で、
カフカの観客席に座って観劇するような、
そんなやさしい感じのものではない。
まあ、"やさしい劇"ってないですけどね。
(「劇」は「虎と猪が戦う」という成り立ちです)
1回だけ紅テント公演を
観に行ったことがあるんですが
板の間に座って
隣の人とギュウギュウになりながら
狭い空間で観る芝居って
劇場に慣れていると、とても新鮮です。
多分あの紅テントのなかにほんのり残ってる
学生運動とかがあったような時代の
奇妙な熱気と、雑多で不潔な都会の雰囲気とかを
少しでも観客に感じさせるために
こういう風に戯曲に付け足したのかなあ
と思います。

付け足したと言っても
もともと短めなこともあってか
ほとんど戯曲にカット無しで、フル上演ですね。
それでも2時間弱ぐらい。
内容ざっくり言うと
"処女の心を持ったまま
老いた女の肉体を持つ宝塚の男役スターの葛藤"
って感じですかね...。
なんかもう既に題材としてショッキングです。
この主人公の春日野八千代って方
実在の宝塚の方です。
戯曲、1969年なので、普通にご存命の時に
しかも現役団員(生徒?)の時に書かれてます。
...さすが唐十郎アウトローがやばい。
女性の年齢はいじったらいけません!
(そういうことではない)
それを若村麻由美さんが演じられるので
ショッキングにショッキングを上塗りです。
『シャーロック』第5話の母親役
本当に凄みがあって、主役を完全食ってましたが
舞台だと生なので鳥肌モノの演技でした。
私、あんまり宝塚の知識がないので
客席から春日野(若村麻由美さん)が
男役スターらしい格好して
颯爽と登場したとき
"あれ、この人宝塚出身だったけ...?"
ってなってました。馬鹿丸出しですね。
宝塚ファンの方に対して
今まで理解はできても共感できずにいたんですが
ちょっと惚れそうになりました。危ない...!
他の俳優さん方もまさに粒ぞろい!
って感じで、最高でしたね。
あのぐらいリリックなセリフを
血肉感もって語れるのは凄いです。

言葉は間違ってないつもりです。血肉感。
今回は経血が1つ、少女と女の境目的に
メタファーとして劇中に現れるので
(演出では、滴る水音として表現されてました。
それだけで床に零れた経血が見えるので
若村さんが凄いやら演出がそれにぴったりやら)
血、を加えたんですが
なんとなく唐十郎の作品には
この血"肉感"が必要な気がします。
しかも清潔な肉感ではなくて、汚い肉感。
煤で汚れたかような、太陽の下に焦げ付くような
そんな感じの、肉の感じ...
臭い、っていってもいいかもしれないです。

実際、唐十郎の作品には
三島由紀夫の『弱法師』のラストよろしく
一面の焼け野原の描写がよく出てきます。
今回もありましたね。
昭和の劇作家には、こういう原風景が
多い気がします。勝手にですが。
多分、話の内容は、たとえ伝わらなくても
こういう雰囲気を出すことが出来ただけで
舞台としてはある意味大成功なんだと思います。
(だからここからはどっちかと言うと
演出とかよりも戯曲解釈に近いです。)
火、あるいは炎と肉体は、
大戦の焼け野原のイメージでも
関東大震災のイメージでもいいんですが
実はそれ以前から繋がっているようなんです。
それはシェイクスピア時代の
体質の4つの分類のうちの「胆汁質」に
当てはまるとかそういうことではなく
(この辺は河合祥一郎
ハムレットは太っていた!』に詳しく。
すっごく面白い本です。おすすめ)
もっと人類の最初の方です。
バシュラールの火についての考察の一部が
有名なんじゃないかと思います。
性交と火はほとんどイコールだった
っていうあれです。もうちょい言うと

身体を擦り合わせると熱くなるという延長から
人間は火をおこしたんだよ!
雷が木に落ちる瞬間?んなの見れるわけねえよ!
ちょっとは頭使って考えろよ(°Д° )バーカバーカ
(ここまで酷くはない)

ってやつです。
こういうこと、考えると
特権的肉体論』という訳わかんない本で
俳優の肉体と中原中也(なぜ)について
徹底的に意味不明な事書いた
劇作家の原風景が、一面の炎であることに
なんだか腑に落ちる感じがします。
まあ、実際のところはわかんないので
あくまでも理解の一例ですね...(´-` )

この、唐十郎の『特権的肉体論』は意味不明で
ほとんど読めた試しがないんですが
(いつか理解できたら...良いな....!)
それを落とし込んだのがこの『少女仮面』ですね。
多分。おそらく。きっと...(自信ない)
冒頭になぜか人形腹話術師がでるんですが
これは多分わかりやすい例だからだと思います。
どういうことかというと、まず
人形腹話術師は、人形を操って喋らせます。
観客が見るのはその人形であって
決して腹話術師本人ではない。
喫茶<肉体>に訪れた人形腹話術師に対して
マスターが「存在の非存在」と呼びかけるのは
「(観客にとって)存在
(しているのは人形であって、その意味では
それを後ろで操る貴方は、その人形)の非存在」
と言える、ということだと思います。
だから、観客という立場からは
絶対に腹話術師本人のことは
生きている肉体としては認識できない。
こちら側(観客としての私たち)から
生きている肉体として認識出来るのは
あくまでも舞台という空間で
喋って動いている(ように見える)人形です。
だから、「開眼<第二場>」で
咽頭癌の腹話術師は人形に取って代わられる。
それまでの内容も含め、
また腹話術師が吐血して
持っていた白薔薇が赤く染まるので
ちょっと狂気的な場面でもありますが
見方を変えると
たとえ死んでも
俳優(腹話術師)というフィルターを通して
形成された役(人形)が
更に観客(私たち)というフィルターを通して
形成された特権的肉体(超、人形)という、
ある観念として記憶に残るって事です。
まあざっくり言うと
舞台の上ではめちゃくちゃイケメンなんだけど
舞台降りるとそうでも無い!
っていうあれです。多分(酷い説明)
ちなみに唐十郎の『ビニールの城』にも
人形腹話術師の登場人物が出てくるので
そういう面込みで人形腹話術師というものに
何か惹かれるところがあったのかなあ
と、勝手に思っています。

春日野(若村麻由美さん)の悲劇は
そこのところをごちゃごちゃにしてしまった
そんな所から起きているような気もします。
単純に言うと
役と自分の境目が酷く曖昧になるほど
「過剰没入」してしまった、ということですね。
だから、熱狂する若い娘たち
演出家たちが求めているのが
自分を通して立ちあがるイメージとしての役
だということを理解出来ず
自分自身そのものだと感じてしまった。
これは、ヅカガールになりたくて
春日野のところへ弟子入りみたいに来た少女、貝
(この名前は女性器の比喩ですね、
苗字に確か"緑"も入っているので
若さの象徴でもあります)
のセリフと対照するように表されています。

春日野:そのドレス、ぬれて冷たいだろう?
ぬぎたまえ。
貝 :でも、ぬぐと、あたし、キャサリン
なくなっちまうわ。
春日野:貝、おまえは俺の永遠のキャサリンさ。

ここのセリフだけでも、
若い貝と年老いた春日野の
考え方の違いのようなものがみえます。
(キャサリンは、『嵐が丘』の登場人物
春日野はその恋人ヒースクリッフを演じる)
老いと若さの対比としても使われていますが
私には根本の考え方の差のほうが強調されて
聞こえてきました。
若村麻由美さんが余裕で綺麗だったせいも
絶対ありますね。
近くでみても超綺麗!麗しい(男装なので)
まあ、それは置いておいて
今風に言うなら春日野は憑依型の俳優だった
ということになる...のかな、多分。
でも少しニュアンスが違うような気もします。
難しい。
常に夢見る少女たちの"ために"
役を演じていくうちに
だんだん役=自分自身を
常に他人に差し出しているような
自分の肉体が自分のものでないような
「自分自身とはぐれた」ような
虚無感を抱えていたのだと思います。
だから、老いてきて、"引退"の2文字が
ちらつき始めた時に
"請われるままに差し出してきた
自分の肉体を返して欲しい"
"「私」自身はどこにあるんだろう"
もっと噛み砕いて分かりやすく言うと
"今、自分が引退して、観客を取り上げられて
差し出してきた自分自身とほとんど同じ役も
観客と共に取り上げられたら
一体全体何が残るんだろう?"
こんな不安でいっぱいになったんだと思います。
...もし現役の女優さんとかが見たら
どんなにゾッとする芝居かと思います。

そして最後は、精神病棟然とした場面に
回収されていきます。
春日野が話していた人々は
実は「人形」だった...みたいなオチです。
(御本人が生きているのにこの筋...
さすが伊達にアングラ言ってませんね...)
ただ、綺麗にオチきっていないので
そこが不思議でらしいといえばらしい...。
現実と虚構の境目がすごく曖昧な感じです。
『唐版 風の又三郎』もそんな感じでした。
2019/03/01に観劇。窪田正孝さん出演で
かなり話題になっていましたね。
もう一年か...早い...大学受かって浮かれてました。
...軌道修正します!
で、そこに3人の春日野のファンが
(何故か春日野のお面を付けている、らしいです
ただ戯曲に書いてあるだけで、
公演でどうだったかはあやふや...残念)
"肉体を返しに来た"といって訪れます。
春日野はもちろん狂喜!です。
でも蓋を開けてみると返されたのは
右足の靴、片そで、毛
だけでした。しかも、自分が役をやっていた時の。
多分、春日野はここで重大な思い違いに
初めて気がついたんだと思います。
自分と役は舞台の上以外では完全に別物であり
観客が貪っていたのは、
自分が演じていた一種の観念(特権的肉体?)で、
決して本当の自分、本当の肉体では
無かったということに、です。

春日野:何も欲しくない、愛も肉体も。
......あたしを一人にして。あたしはもう、
(肉体の)亡霊でも乞食でもないんだ!
あたしは、もう自分の貌(かお)なんか
欲しくない。
あたしは何でもないんだ!

色んな感想を読むと
なんだかこの最後を、絶望の絶叫として
解釈してる方が多いんですが
実際、セリフとして、
しかも飛び抜けて上手い人のセリフとして聞くと
なんか、絶望でもあるんだけど
希望も含まれているような
複雑な感じに聞こえます。
「あたし」自身は「何でもな」くて
貪られていたのは単なるイメージで
自分自身は最初から自分のもので
というよりむしろ、「何でもない」ので
誰かに所有されるということも無く
何者にも汚されても奪われていないことに対する
安堵の溜息にも似た響きがありました。
もちろん、"奪われてきたと思っていた"肉体を
探すことだけに腐心してきた
長年を徒労として捉えてしまうような
絶望も含まれてはいたんですが。
自覚した、だけハッピーエンドのような印象を
私は感じました。

いやあそれにしても、
若村麻由美さん、えげつない。
男役として振る舞う時と
「あたし」として、女として振舞う時
その間に揺れる微妙な心理状態が
遠くにいても近くに見える...。
まあ、実際近いんですが...それにしても
手に取るように感じられる。
映画じゃないけど、クローズアップかよっ
て感じです。
凄すぎて、終わったあとしばらく
はーっ(放心)ってなってました。
貝役の木崎ゆりあさんも、全然負けてない!
さっきも書いたけどすんごい役者陣でした。
人形役の人とか身体どうなってるんでしょう。
マジでやばい。
演出も唐十郎の世界観を邪魔しないよう
でも少し現代にも通じるようにアレンジしてあって
最高に良かったです。
ギリシャ悲劇の詰め込み舞台『グリークス』とか
演出されているので
叙情たっぷりのセリフまわしにも
対応出来たのかなあと思います。
何事も古典は大事って事ですか...。
そもそも唐十郎作品が
そろそろ古典になりだしている(By教授)
らしいです。
芸術の分野は動きが速いです。

というわけでようやく感想まとまりました!
いやー長かった。
なんとか支離滅裂は避けられた...と思います!
感想書く書く詐欺も
もう、しなくて済みそうです。
詐欺、ダメ、絶対!\( 'ω')/



あと、蛇足なんですが、これ書いている途中に
ねじまき鳥クロニクル』公演中止のお知らせが
メールで来ました。
あああ早目に観れて良かったあ...!
でも中止で観られなかった方のために
動画配信とかなんかして頂けると最高ですね...。
ついにコロナウイルスに対して
大手のホリプロが動きましたね...。
国立劇場はちょっと前から中止でしたが...。
これは軒並み中止に流れ込みそう...。
ただでさえ演劇界は他に比べて
経済的にちょっと弱いところがありがちなので
あんまり打撃にならないうちに
収束して欲しいですね...。
俳優さんやスタッフさんの体調もありますし
難しいとは思うんですが
なるべく中止とかは少なく済むと良いなあ
と思っています。