感想日記

演劇とかの感想を書きなぐってます。ネタバレはしまくってるのでぜひ気をつけてください。

『The Encounter』

2020/05/20
Youtube
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(※配信期間は日本時間5/26午前6時まで延長)




一昨日頑張って、というかむしろ日付変わっても
何とか何とか粘って観終わって、
(辞書片手にとぎれとぎれで1回、通しで1回)
とんでもない達成感とともに昨日の朝起きたら
まさかの延長決定!でなんとなく拍子抜けです。
まあ楽しかったからいいんですけどね...。
英語もそこまで難易度高くなかったし...。
アメリカのアクセントの時も
字幕がイギリス英語だったから、
そこは違和感ありまくりだったけど...。

劇の内容を頑張って説明すると、
未開の部族の写真を撮ろう、
彼らが望むなら政府に援助も掛け合おう、
みたいなノリでアマゾンの奥地に行った
写真家のローレン・マッケンタイア
マヨルナ族(Cat people)との出会い、
の話をサイモン・マクバーニーさんが録音する、
みたいな感じでした。

最初に目につく物語的なテーマとしては
やっぱ文明/野蛮ですかね。
...文化心性/原始心性って言った方が、
ニュアンス的には正しいんだろうけど...。
日本語は正しく使おう、ということで
ちょっと整理したいと思います。
いつか後で自分で読んだ時に
こいつまじ何言ってんの?ってなんないように。

"原始心性"ってのはざっくり言うと
未開人の精神的特質です。
そこでは"融即(ゆうそく)"って法則が働きます。
(英語だとparticipation)
めちゃくちゃに乱暴に言うと、

"AはAであると同時に
A以外のものでもありえる"

みたいな、まあなんか結構呪術的で
今で言うスピリチュアル?みたいな考え方です。

それと、"文化心性"は文明人の考え方。

"発展とか技術とかマジかっけえ最高!"

っていう精神的な特質です。
(学術的には、人間にはこの2つが
対になって備わってるらしいけど、
そこまで踏み込むと私が混乱するので
置いておきます。あとはもうググれ自分よ笑)

で、この話は全体的に、
文明側のローレンが、
マヨルナ族との色々な経験を通して、
"融即"じみたことを体験しちゃう話。
マヨルナ族の長とのテレパシーとか
めちゃくちゃわかりやすい例ですね。

近代西洋の実体主義的な考え方からすると
この内容は限りなく衝撃的だとは思うんですが、
こと日本人に対しては
"へえー"って納得しやすい感じがあります。

えっと...日本はもともとアニミズム的だし、
そもそも今ですら、八百万の神々を
信じてはいないにしろ知ってるので、
たとえば唐突に、

"全てのものが何かしらの
神秘的な力で繋がってるぜ!
物事に境界なんて存在しないし、
だからなんでも出来るよ!やったね!
自然って最高じゃん!ひゃっほー!"

って言われても、まあ無くはないかな、
って納得しやすい感じが個人的にはします。


また、この劇に施されている仕掛けによって
そういうような劇の主題(だと思ってます)を
より分かりやすくされているのも、
そういう風にすんなり納得できる
原因かなあと思います。

まずはサイモン・マクバーニーさんが
最初から最後まで、一応は、
本人として舞台に上がっていることがデカい。
本を読みあげて録音するみたいな名目で
劇が進行していきます。
こうなると役と本人の境目が
非常に曖昧になります。
何が虚構で何がリアルなのか、
どこからがお話で、どこからが現実なのか、
っていう部分がかなりふわふわする感じです。
(そもそも話の中のマヨルナ族にしても
最後からすると実在するっぽいですし。
ローレンはどうなんだろう...分からん。)

個人的には、誰かに現実を伝えるために、
内容を取捨選択して、
自分の所属する社会の言葉で構成する段階で
(そしてその外側にも、
全く違う社会があることなんかは
あんまり想像できないのが人間)
ある意味では虚構だと思っているんですが、
なんと最初にそういう風な事まで言っちゃう。

いやまじで、飛び上がって、
両手をあげて"大賛成!"ってなりました。
気持ち的にはハグとキスの嵐です。
色んな方面の方に怒られそうですが笑。

ヘッドフォンを使用したのも、
没入型演劇にして、写真家のローレンが
未開人の精神を理解していくにつれて、
観客もそういう世界があることを
疑似体験しやすくするのが理由のひとつかな
と思っています。
ちょっと催眠効果に近いような
そんな印象もありました。
少なくとも、今まで演劇では
経験したことないような新しさ...。
ほんとに凄い没入感でした。
劇場だとさらに凄そうです。
なんせ頭の中で声が響くので
"自分と他の誰かが同一であるような"
そんな感覚があります。

もうひとつとしては
音声メディアの技術をふんだんに利用して、
みんなが割と信頼している
人間の体の感覚というものが
どんなに頼りないかを説明する、って意味も
あると思います。
いやほんと、耳にフーってやられるのとかは
ちょっとまじでくすぐったかったです笑。

それで、こういう風に人間の感覚が
イマイチ頼れないなら、(騙されやすいなら)
その人間が作り上げてきた文明ってものも
必然的に頼りないものである、
ってことになっちゃうわけです。

"(略)law, justice, human rights,
but none of these things exist
outside of our common imaginations."
(法律とか、公正さとか、人権とか、
そういうもんって、俺らの共通認識の外には
実は存在してないんだぜ)

...めっちゃ分かる...!超わかる...!
もっとざっくばらんに言うと、
社会自体が虚構であるってことです。
"集合表象"って言っちゃうと、
実体化しちゃうので正確ではないんですが、
それに近い感じです。
また社会って言うのは
線引きをする団体なので
つまりありとあらゆる区別が
虚構であるってことです。
これは物理学的に言うと、
宇宙は熱エネルギーの差異でしかない
ってこととも通じるかなあと思います。
あるのは"違い"だけで、"境界"では無い。
そしてその違いを認識する人間の感覚器官も、
社会的に歪められた理性(もしあるなら)も、
どこまで信じていいのか分かったもんじゃない。
なにそれ怖すぎ。正直考えたくない。
三島由紀夫の『午後の曳行』にも
似た一節があったような...。
(天才少年登くんのワクワク殺人計画の話です。)

また録音媒体としてのメディア、というか、
これはありとあらゆるメディアに
言えることなんですが、
メディアは簡単に時空を超えてしまいます。
だから現在と、6か月前と、1年半前の音声が
"今この劇場で"同時空間にある、
っていう例がとても分かりやすくて、

"So we are living three times if you like. "
(だから、考えようによっちゃ、
今3つの時間を生きてるんだよ?すごくない?)

って言われると、"ああ確かに"って納得します。

したがって、その後の、次元論的な
時間は円環である、っていう
小難しい話も(『永遠と一日』の感想に似てる!)

"Time itself is a fiction."
(時間ってのは虚構なんだよ)

っていうのも結構すんなり納得しちゃいます。
(時間はローレンのお話の中で、
かなり重要な立ち位置を占めています)

そういう風に、ローレンのお話が始まる前に
サイモンさんが丁寧に丁寧に
"今まで当たり前だと思っていたことが
実は全然当たり前じゃないし、
なんなら全部嘘で、間違いかもしれない"
っていう導入をしてくれるので、
その後、ローレンとほとんど一体になって、
未開人の文化やら何やらを体験していくと、
なんか、ローレンがそうだったように、
"未開人の方がもっと自由で正しいんじゃね?"
みたいな気持ちになります。

実際のところはどっちも正しいか、
どっちも間違いのどちらかなんですが。
(なんせ正誤の境界すら、
今までの考えでいくなら存在しません。)

"I'm a modern man!"
(俺は現代人だ!)

って叫んでたローレンも最終的には

Nothing is forbidden.
(禁じられてるもんは何もない)

の境地に至ります。
Space(空間)もtime(時間)も
mind(精神)も元々は全てが融けあってて
continuum(連続体)であるならば、例えば
行こうと思えばどこでも行けるし、
死んでもずっと生きていられるし、
他人の考えも完全に共有できる、ってことです。
これ、完全に未開人の精神です。
あと、最初っから未開人未開人連呼してますが、
これはあくまで文明人の側から見た呼び方で、
(一応私は文明的な生活をしてるので笑)
未開人の方からしたら、
私たちの方が閉塞・制限人って言えるかもな、
って考えたりもしました。

ただこの劇、さっきも書いたんですけど、
体験としてはすっごくエキサイティングで、
唯一無二で、それだけで
もう文句無しに最高なんですが、
内容に限定してあえて言うならば、
西洋の観客が受ける衝撃には、
日本の観客は匹敵しないんじゃないかな、
なんて感じちゃったりもしました。

...未だにぼんやり残るアニミズム...恐るべし...。
だって私でも微妙に感じようと思えば
感じれるもん...根強すぎだよ...。

それはほっとくことにして、それにしても、
サイモン・マクバーニーさんの
本人としての役とローレンとしての役の
瞬時の切り替えが半端ないです。
後半に飢餓状態で食べ物を食べる時とか、
炎の中でほとんど発狂するシーンとかは、
本当に最初にジョーク飛ばしまくってた
茶目っ気たっぷりのおじさんと同一人物?
ってなります。俳優・役者こわあ。
そこから1秒単位でナレーションに
戻らなきゃ行けないとか何その神業。

ボキャ貧なので、天才かよ、
としか出てこないです。
1人芝居の新しい形を体験しました。
色んな有名な俳優さんが絶賛するのも
わかりみが深い...( ¯꒳¯ )。
この劇考えただけでも凄すぎるのに...。

あと、今回の記事なんかめちゃくちゃ
専門用語っぽいのが多いのは、
たまたまタイムリーに、ほぼ全ての授業で
"境界"攻めにあってるからです。辛すぎる。
どうしていつも授業を組むと、
全然違う専攻の先生の授業なのに、
全ての授業での共通項が出てくるんだろう...。
なんか先生同士で狙ってんのか(それはない)
それとも私が呪われてるのか...。

しかもこの『The Encounter』は、
""境界"について考えてみよう!"って、
言ってきた方がゴリ押しのやつっていう...。
"考えよう"って言ってくる割には
勧めてくる劇が""境界"なんてないよね"、
がテーマなのは解せません。
一体どうすればいいんでしょうか。
混乱してます。ま、じ、で。
"境界"に関して、"to be or not to be"状態です。
こんにちはハムレット。最近よく会うね。

...とりあえず、なんかわかんないなりにだけど、
せっかくぐだぐた色々考えたので
ちょっとぐらいは役に立つといいなと思います。