感想日記

演劇とかの感想を感情的に書きなぐってます。あくまでも「感想」だし、備忘録としてネタバレしまくりなのでぜひ気を付けてください。でもあらすじとかはあんまり綺麗にはまとめてないです。

Frankenstein『フランケンシュタイン』(両バージョン)

2020/05/02
Youtube
f:id:monsa_sm:20200503212349j:plain
(画像は公式Twitter@NationalTheatreから)




...両バージョンほぼ同時にあがってるってことは
比較してください、ってことですよね!
という謎のテンションで観ました。

実は前、テストに、

"ベジャールの『ボレロ』について、
ディスカ・シフォニス、ジョルジュ・ドン、
そしてシルヴィ・ギエム三者を比較せよ"

っていう鬼の難問が出たことがあって...。辛...。
(選択問題だったので実に華麗にスルー)

まあ、そんなこんながあったので、
せっかく比較できるようにあがってるし、
去年観た時に(5000円!)もやもやしたとこが
解消できるといいな、ってレベルで
自分のために頑張ってやってみようと思います。
今度テストとかで比較が出た時に
なんか役に立てばいいなという下心満載です。
...気楽にやります笑。

ただ両バージョン一気に感想書きたいので
こんがらがらないように、それぞれ名前を明記...
したいんですが...長い...なまえがながいよ!!

ベネディクト・カンバーバッチ
ジョニー・リー・ミラー

喧嘩売ってるんですか。長すぎだよ。
日本人なんて下手すりゃ漢字2文字なのに!
敬称は当然省略だよ!とにかく長い!(失礼)
しかも省略の仕方がいまいち不明。
...イニシャルでいっかな...多分。

ベネディクト・カンバーバッチ→BC
ジョニー・リー・ミラー →JLM

これで行きます。決定。
とりあえずざっくり全体について書いたあと、
個々の印象について詳しく書こうと思います。
目次をつけるなら...たぶんこうかな?

1.全体的な感想(主に演出と脚本)
2.JLM怪物版
3.BC怪物版

でも、ところどころ混ざると思うので...
そこはもう目をつぶろうと思います。
そのためのイニシャルです笑。
細かいことは気にしないでレッツスタート。
あと今回に限りデスマス調やめます。
とんでもなく長くなりそうなので...。
というわけで以下常体です。
いつもより箇条書きっぽいと思います。



【全体的な感想(主に演出と脚本)】

最初の鐘の音がまずは最高。
鐘といえばやっぱり教会のイメージなので
石造りの冷たくて高くそびえる感じが
どっしり重いゴシックホラー感を一気に演出。
また教会は葬式と結婚式もするので
そのどっちも関係してくるこの劇には最適。
もっと細かく想像すると、
ゴシックは元々"ゴート人の"って意味で
大聖堂とかの建築様式のことを表す。
そのゴシック建築にはグロテスクな意匠が
めっちゃ施されているので、
怪物への連想にもなる...かな。


原作と違う点は、博士視点ではなく
怪物視点を主軸にしていること。
最初20分ぐらいはほとんど怪物だけが舞台に。
必然的に観客は怪物に主軸を置かざるを得ない。
(ただ怪物への共感度合いは違う。
共感しやすさとしてはJLM怪物>BC怪物
詳しくはそれぞれの所で。)


怪物が生まれるシーンは赤い色の照明で、
舞台全体が真っ赤。
赤には色んなイメージがある。
正直あまりプラスのイメージはない。
ユダヤ人は赤い帽子を被ることを義務付けられ、
"Redskin"はネイティブアメリカンへの差別用語
ジャック・ザ・リッパーのせいで
娼婦のイメージもなくはない...かも。
赤い血はそれだけで忌むべき穢になるし。
差別される怪物がその後の場面で
しばらく赤いマントを被っているのも
おそらく差別対象の意味が大きいだろう。
あとは、内臓...多分子宮かな。
そんな感じがする。薄い膜のせいだと思う。
(子宮のイメージはBC怪物の時の方が強い)
また、舞台セットも
上からするする降りてくる家とか
唐突に垂れてくる橋とか、
突然壁から現れてくるボートとか、
とても自動的、機械的
舞台自体が一つの大きな意志を持つ
生き物のなかに存在するように、
というよりむしろ舞台そのものが
一つのでっかい生き物みたいで
ものすごく気味が悪い。
原作にもあるグロテスクさが満載!
だからその中で響く心拍音は効果が高い。
もちろん怪物の心拍音でもあるんだろうけれど
"何かの中にいてその何かの心拍音を
聞いている錯覚"にも陥るような、
胎児になったかのような感覚がする。
セリフの中にも、少なくとも

・老人との原罪についての対話
・博士と弟ウィリアムの対話

のなかで"womb"(子宮)って単語出てくるし、
弟の方は怪物の"生殖可能性"について語るので
イメージとして繋がってるといえるかな。
また、多分全世界の女性が頷く、
婚約者エリザベスの主張...

"But if you wanted to create life,
then why not just give me a child."
(でも、もし命を作りたかったなら、
どうして、私に子供をくれないの?)

っていうセリフとも呼応してなくもない。
そもそも生命を作ろうとした"男"の話だから
必要となる子宮のイメージに繋がるのは必然か。
(19世紀初頭にこういう風な、
人でないものに、命がある・吹き込む系の
物語が流行ったらしいけど、
大体にして暗い部屋に1人籠って
その作業するのは男性らしい。
何故か女性はそういう事しないみたい...。)


そしてなんといっても、出だしで最高なのが
あのえのきをひっくり返したような
えのきシャンデリア!(勝手に命名
これは様々な意味合いを持って輝くので、
前にも書いたけど一番好きな演出。

まずは"the actual spark of life"のイメージ。
これは博士が死んだはずの弟との
会話の中で言うセリフの中にある。

"Where dose the principle of life,
the actual spark of life itself,
where dose it come from"
(生命の原理はどこにあるのか、
本物の生命の電気火花のようなあの輝き、
それは一体どこから来るのか)

"Spark"ってまあスパークなんだけど、
電気による火花の意味が大きい。
博士は、電気と科学によって生命を、
まるで神のように作ろうとしているので
最高としか言いようのない演出。

その光と連動して怪物が痙攣するので
脳内の神経細胞の電気信号にも繋がる。
(個人的にその連動具合は
JLM怪物の方が上手いと感じた)

脳内の神経細胞がスパークするので
天才の博士の脳内の高速回転にも見えるし、
また博士が敬愛した錬金術師達が軌道を追った
魔術に満ちた星空にもなるし、
雷が明滅した時のシャンデリアの影なんか
嵐の夜の雨の軌跡にも見えて良かった。
こんなに顔を変える演出ってなかなかない。
この演出考えた人と結婚したい笑。

また"電気の神話"、電気(科学)によって
生命を作り出す話だと分かったら

正式のタイトル
『Frankenstein: or The Modern Prometheus』
フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス)

の意味も漸く分かった。
プロメテウスってのは、
オリュンポスから天上の火を盗んで
地上にもたらした英雄だけど、
同時にゼウスに背いた反逆者なので、
同じ構造でフランケンシュタイン博士も
命を生み出す自然の摂理を
自然から科学の領域にもぎ取って、
結果神に背いた反逆者と言える。なるほど。
ちなみにFrankensteinは博士の名前!
実は高校ぐらいまで怪物の名前かと思ってた。
ちょっと、いやかなり恥ずかしい笑。

その博士に関する印象については
それぞれで、書くけど、ちょっと比較しときたい
靴音についてだけここで少し。細かいけど笑。
博士がようやく登場する時、
最初靴音しか聞こえないんだけど、
ここで印象の4分の1ぐらいが決まる気がした。

・BC博士
靴音がクリアで高くてテンポがゆったり。
考え事をしているようなテンポ。
実験が一段落して休憩したあとのような、
ちょっと眠そうな躊躇うようなテンポ。
軽く"んーっ"て伸びもしているし、
ざっくりまとめると気を抜いている時の靴音。

・JLM博士
靴音が濁った低めの、ダンダンと荒っぽい
早めのテンポ。例えるなら...
イライラしている人の歩き方とか?
目的に向かって一直線に進むような印象。
文字通りの猪突猛進の印象で、
ざっくりまとめると気を張ってる時の靴音。

怪物に対して驚いて逃げるとき、
BC博士だけが"うわああっ"て
大絶叫しながら逃げるのは、
ちょっと気を抜いてたからかな。
だからBC博士は柔い印象がここでつく。
まだ心の表面が柔いのか根っこが柔いのか
いまいち判然とはしないけれど、
もっとざっくり言うとヘタレ感がある笑。

JLM博士もある程度は抜いているけれど。
まだJLM博士の方が肝が座ってる...というか。

だから精神年齢的な意味で
BC博士の方がJLM博士より
若い年齢にも見える。大人と言うより青年?
実際の撮影時の年齢知らないけど笑。


そして列車の登場がとにかく派手!
ここだけちょっとミュージカルっぽい。
パンクスチームな感じがする。近現代的。
蒸気機関が到来した時代って感じがする。
物語の時代軸が実際、産業革命だし。
でも、なんか、とても歪な形をしている。
産業革命に伴った機械化への
漠然とした不安感の表れでもあるんだろうけど、
この歪さも、両者違うように見える。

・JLM怪物版
怪物にものすごく共感しているから、
初めてこういう機械を見た怪物の目には
こういう風にうつっているのかなと感じる。

・BC怪物版
JLM怪物版よりは怪物への共感度低い上に、
むしろ怪物に恐怖を感じてしまう節がある。
だから原作のゴシックホラー感の強調に思える。


また、怪物がその列車の労働者たちから
差別と迫害を受けた後の一連のシーン...
日の出への感動とか、鳥たちとの出会いとか、
雨への驚きと理解、寒いという不快の感覚、
草木との戯れ、食べるということへの興味...
という、まるで神話や進化を辿るみたいな
自然そのものに対する純粋な喜びを
怪物が感じる様子はすごく見ていて
ニコニコしちゃう。ちょっと可愛いかもよ。

ただその後、言葉を喋ろうとしたり、
火への興味や道具の使用というシーンでは
一転して賛美歌的な音楽が止んで、
照明が暗くなるのが印象的だった。
知恵(リンゴ)をつけることは
やっぱり天上からの落下に繋がるみたい。
全体を通して本当に神話をなぞっていると思う。


それがより明確になるのが
次の老人の家のシーン。
今度はあからさまに神話的な絵が、
家の壁に描かれている。
1本の木と1組の男女(だと思う)が
描かれているので、おそらくあの田舎の一軒家は
エデンの園の象徴だったんだろう。
それで、怪物は老人から知識を得た後で、
"追い出された"。

この老人との対話の中で怪物が発する
"What is love?"っていう問いかけが
劇全体を貫いている。
電気の神話の話でもあるけれど、
それを最終的に愛の話まで落とし込んだから
この劇は感動的なものになったと思う。
前読んだ『極短小説』って本に
"傑作は大体にして愛と死について語ってる"
って書いてあったけどほんとその通り!
人生において重要視されるものを、
極限まで減らしていっても残る2つだから
人々の関心はいつまでも尽きない。
だから名作になるし、後世まで残る。


その愛について考え出した怪物が
女の怪物の夢を見た時、
女の怪物がダンスをしてたのは、
ダンス...舞踊の本質が情熱だからだろう。
「攻撃する男とやんわり抵抗する女、
あらゆる原初の踊りの主題はこれ」
ってテオフィル・ゴーティエも言ってるし!
総合芸術として舞台を演出したかったから
おそらくダンサーの女性をキャスティングした、
と思うんだけど...え、あの動きは絶対ダンサー。
ダンサーじゃなくても絶対踊れる人。
じゃないとあの動きは無理。多分無理。


また博士の手帳に書いてある
"生命体の構造をどうするか?"という問に対する
思考の切れ端のようなメモに

"A being like myself"
(自分のようにする)

って言葉があるのがちょっとゾッとする。
神様が人間を作った時もそうしたんだろうけど
そういう神話的なことを一旦脇に退けて
文字通りそのまま解釈すると、
博士は自分の分身を作ろうとしたことになる。
"人間のように"ではなく"自分のように"だし。
意識的にしろ無意識的にしろ、
もしそうだとしたら、それは近代的に、
というか19世紀的に物凄くおぞましいこと。
だって個人は完全に独立した個人であることを
求められた時代だったから。
実際に、特にJLM怪物版では、
博士と怪物のアイデンティティが混線する様が
割とハッキリと感じられる。
また脚本としても最後の北極へのシーンで
全てがあべこべになるので...(下で詳しく)
BC怪物版では混線こそあまり感じられないが
そことも繋がっていくのだと思う。

アイデンティティに関連してもうひとつ。
"名前のない"怪物目線に立たされる段階で
アイデンティティの探求は避けられないし、
("Who am l?"とか)
その怪物が自身の存在意義について、とか
"捨てられた"と思われる自分が
なんのために生きて行けばいいのか、とか
考え出すのはすごく当たり前のこと。
また、"死"というテーマについて考察することは
すなわち存在意義について考えることでもある。
だからアイデンティティ探求の物語でもある。
それを明確化するために
あえて主役2人のアイデンティティ
混ぜるような、つまり、正式名称知らないけど
2人で役を入れ替えることをしたのかもしれない。
そうするとどうあっても、
アイデンティティについて強調されるから。


死んだ弟ウィリアムと博士が会話するシーンも
割りとその向きがある。
もちろんフランケンシュタイン症候群の
引き金となる対話のシーンではあるけれど、
ここでのウィリアムは、同時に
博士が意図して押し込めた、
あるいは切り捨てた道徳観とか倫理観とか、
いわゆる"まともな感覚"の象徴として
現れてくるのではないかな、と思った。
演出的に明らかに博士の夢の中だと考えると
夢は無意識の表れであるから、
自分が怪物を作ってしまったことで
弟が死んだことに対する責任と後悔が
自責の意味を持ってウィリアム自身の姿をとって
出現してくるのだと思う。
(またその後に出てくる、父のセリフで
"幼い頃のヴィクター(博士)は
どこにいってしまったんだ"って
嘆息じみたセリフと合わせて見ると、
より一層、幼い弟の形をとった
自分の無意識と対話する雰囲気が感じられる。)


またこの後、直ぐに博士が
せっかく完璧に作った女の怪物を殺したのは
フランケンシュタイン症候群のせいなのは確か。
ただそれだけじゃあない気がする。
それだけだったらわざわざ怪物と
愛について論争を繰り広げたり、
一旦怪物に期待させておいてから
女の怪物を殺して、絶望にたたき落とすような
回りくどいことする必要性を感じない。
何かの怒りのような感情を感じる...。
ここからはほんとぼんやりした印象からだけど、
博士は多分、愛について
自分は今ひとつ掴みきれないのに、
怪物の方は完璧に"理解、実感していた"のが
ものすごく気に食わなかったのかな、と思った。

"What do you know of the power of love?
It is irrational, a pool of unreason!
It is anarchic, volatile, vertiginous, mad!
Above all, it is uncontrollable!"
(お前が愛の力について何を知ってるんだ!
愛なんて不合理で、無分別の溜まり場だ!
無政府的で、不安定で変わりやすく、狂ってる!
何より、制御不能だ!)

なんてブチ切れてるのもとても気になる。
過去に一体何があったフランケンシュタイン
...そういえばお母さん死んでるよね。
なんか愛に関連してお母さん関係で
なんかあった?とすら思った。
まあなんかあったと仮定したとすると、
それが原因で愛とか、
なんかそういう感情を拒絶するなら、
それを理解して受け止めている怪物に対して
無意識的な劣等感とそれに伴う嫉妬...?
を抱いたのかもしれない。
だから怒った。博士はプライド高いし。
だから、張り合うようにして
エリザベスとの結婚を突然急ぎ出すのかな。
もちろん怪物からエリザベスを
守るためでもあった...んだとは思うけど。
"I do love you"ってエリザベスに博士が言う時、
それと一言一句違わぬセリフを
怪物がちょっと前に言っているので
どうしても怪物に対抗しているように見える。


怪物によってエリザベスが壊された時に、
直ぐに怪物を殺せなかったのは、
それもあるんじゃないかなあ。
フランケンシュタイン症候群だけなら
多分ピストルでパーンって行けると思う笑。
そもそも最初に怪物に会ったときに
ナイフで殺そうとしてたし...。
多分、嫉妬するってとは執着するってことで
執着は憎しみと愛の間の感情だから、
そりゃ簡単には殺せないよね。
博士がそれに気づいてるかは怪しいけれど笑。

また、エリザベスが死んだ後、
"I failed"(失敗した)って父が言うんだけど、
これは、息子を育てるのに失敗した
っていう意味にも、また、広げると
博士が生命を"神のごとく正しく"作る
という意味でも失敗したっていう意味でも
響いてる気がしなくもない。
これは小説ではない感覚だと思う。
舞台だからこそ自然と、
ある一瞬がが他の部分と呼応すると、
個人的には...思ってる...(自信なくなってきた)


さっき、アイデンティティのところで
"北極へのシーンで全てがあべこべになる"
って書いたのは怪物のこのセリフから。

"The son becomes the father.
The master, the slave."
※多分、英語の省略が起こっていると考えると!
"The son becomes the father.
The master becomes the slave."
(息子が父となり、主人が奴隷となる。)

今まで差別対象だった怪物がちょっと
ちゃんとした上着を着ていたり、
博士が惨めに地面に這いつくばって
肉を食べていたり、
そもそも死体から作られた怪物がピンピンして
生きてるはずの博士の方が瀕死。
まるで北に北に進み続けると、
いつの間にか北極を通り越して
南極にまでたどり着くように、
ここではもはや何もかもがあべこべな印象。
でも、あべこべなんだけど、
それこそ、息子がやがて成長して
また自分の子の父親になるように、
ごく自然に、なるべくしてなったような
そんな奇妙な二重のイメージが重なる。
英語の面白いところだなあと思う。


英語、というかセリフ面白いといえば、

"I am different."
(自分は違う)

って言うセリフ。これも、なかなか耳に残る。
怪物と博士どっちも言っているセリフ。
怪物はこのラストで

"I have tried to be the same, but I am different."
(みんなと同じになろうとしたけど、
でも、やっぱり自分は違った。)

こういう文脈で言っているけど、
博士は怪物と女の怪物を作ることを取引する時、
"自分は凡人とは違う"と誇りを持って言ってる。

怪物が、花嫁を欲しがったのは
自分と"同じように"みんなと"違う"なら、
自分を受け入れてくれるのではないか?
と考えたからではあるけれど、
でもそれは博士によっておじゃんになった。

でも、気づいてみれば
"違う"という点に置いては、
含まれる意味合いはだいぶ違うけれど
博士と怪物は"似ていて"、
その意味では怪物が言うように、ほとんど

"You and I, we are one."
(お前と俺は、ひとつなんだ)

多分、コインの表と裏のイメージ。
アイデンティティの問題とも繋がるし、
心理学的にはペルソナになるのかな。
自身の社会に正面切って向けられない陰の部分、
それを怪物という形で生み出した...
と考えられなくもないけれど...
ちょっと心理学は勉強不足で
よくわかんないから、ここまで!笑。

そういう前提の元に、続く怪物の論理としては、
"だったら、もうはぐれ者同士、
お互いに思いやって、心通わせて、
愛し合うしかないじゃないか?"
ということなんだと思う。
それの前兆は、取引する時握手をする時の
握手の際に、怪物が博士のことを
自分の方に引っ張る時に既に現れている。
(もちろんここでの愛は親子愛に近いだろう。
正直ネグレクト問題に見えなくもないし。)

愛を心底理解している怪物からすれば、
自分の破壊のために生きるレベルで
自分に執着してくれる博士の感情は、
裏から見れば愛になる可能性があることに
ものすごく期待しているんだともう。
だからあんなにハイテンション。
ケーキを買ってもらう子供みたい。

でも博士は結局最後の最後まで
自分の内面の事象に気がつかない。
または、気づいていても、理解はできない。
ここで、せめて気づいていたら、きっと
怪物にとってはハッピーエンドだったけれど、
でも握手はかわされなかったので、
つまり、怪物の求める意味で、
心が繋がることはおそらく永遠にないという
完全な溝が明らかになる。

でも、少なくとも、"追う"と"追われる"
ということにおいては、言い換えると、
"Hatred"(憎しみ)ということにおいては
怪物と博士の間には
この上ない強い繋がりを保つことが出来るので、
"子供としての怪物"が"親としての博士"
に望んだ形からは、程遠い歪んだ形だけれど
最終的に怪物がそこで妥協してしまうのが
この劇が死と愛に関連したテーマを持ちながら
一層悲劇的に見える理由かな。

原作にあるように、近代科学の進歩に対する
警鐘を鳴らす意味合いはあまり感じないのは
ちょっと面白いなあと思う。
博士目線だけに立つと
その意味合いがものすごく大きくなるんだけど
やはり怪物目線にどうしてもたってしまうから。

あ、あとシンプルな舞台セットなのに、
色々な場面をものすごく綺麗に滑らかに
違和感なく繋げていたのは
さすが『スラムドッグ$ミリオネア』の監督。
舞台であろうと編集上手すぎ。かっけえ。

...そしてようやく一段落です。
ここまでで既に長い長い長い長い長い長い。
なんかもう笑えるくらい長いです。
...名前長いとか言ってすんませんでした...。

でもまだ続きます。というかここから本番です。
役が入れ替わった時に印象がどう変わるか!
比較してみてどう違うか!

と、いうわけで、ここからは、
というかここまでもなんですが、
ほんとに〈個人の見解です!〉笑。





ジョニー・リー・ミラー怪物版】

怪物が生まれ落ちてからの行動が
ものすごく赤ん坊っぽい。
ハイハイから歩いたり...とか。
また、動きに連動する以上に呻いたり叫ぶので
イメージ的には「おっととと..」って
頑張って身体を動かそうとしてるみたいな感じ。
だから見ていてちょっと応援したくなるし、
微笑ましい感じもする。母性本能かな笑。
無邪気な笑い声がBC怪物より多いのも理由。
怪物に対してよりプラスの感情を抱ける。

また、怪物は段階的に、しかし確実に成長する。

老人と話す時なんかは
なんか新しく覚えた言葉を
頑張って引っ張り出しているような
たどたどしくもどかしそうな様子。
上手く出てこないことに、もしかすると
ちょっとイラついているかもしれない。
でも、博士と取引する時になると、
幾分吃ることはあるものの、
だいぶ滑らかに思考と言葉が一致しているよう
話している。明らかに成長している。
行動自体に赤ん坊っぽさや
子供っぽさはもはやほとんど残っていなくて、
"普通の人間と同じように"
着実に成長しているので、
観てる側としては、異物としてというより
共感を抱ける対象として怪物を捉えやすい。

博士については、エリザベスに
"I do love you."って言う時に、
なんとかして愛を理解しようという
もがきが少し見えたりするように、
さっき、靴音のところで軽く触れたけれど
やっぱりJLM博士よりは柔らかい印象。
優しいという意味ではなくて、
情緒面に関して、青い、子供、というか。

それは博士のほとんど最後のセリフにも
ちらっと出ている。

"Every chance I had of love, I threw away.
Every shred of human warmth, I cut to pieces.
Hatred is what I know."
(僕は、愛を得る機会をいつも捨てていた。
人間の暖かみのどんな小さな欠片すら
ズタズタにしてしまった。
憎悪だけが僕が"知ってる"ものだ。)

後で書くけど、JLM博士は
"understand"("理解している")とここで言う。
セリフを意図的にどちらかが変えたのか、
演出として元々違うセリフだったのか、
それともどっちかが単純に間違えたのか、は
知る術もないけれど、
"understand"に対して"know"を使われると、
BC博士は、情緒の構造については、つまり
それが一体どんな味わいの気持ちであるか、
どういう原因で起こり、どういう結果を
最終的にもたらすかということなどを、
ほとんど全ての感情において理解するには至らず
唯一"ある"として認識している憎悪でさえ、
おそらく深く理解はしていないのだろう、
というニュアンスが感じられる。

だから感情や、愛とかそういうものは
博士の中には確かにあったんだけど、
命を作ることばっかりに熱中して
そういうことを知る機会を等閑にしていたから、
終に自分の内面にある感情に名前をつけて
分類して、分かってあげることが
出来なかった、という雰囲気がある。
だから、頭のおかしい科学者、
感情の欠落がある人間味のないようなヤバい人、
という印象は全然ない。
不器用すぎた人、というか。
まあ、情緒が未発達の天才ってよくある型だし。

また、考えてみるとそういう風に
目の前のことにしか意識が行かなくなるのも
子供っぽさを助長している。
分かりやすいのは、

怪物を初めてマジマジと見た時、
死んだウィリアムのことなんか忘れて
あまりの出来の良さに感激しっぱなしだった時。

あとは、最近若い女が溺死した、と聞いた時
自分の目的にピッタリ過ぎて
素直によっしゃ!って喜んじゃったりした時。
その後取り繕うようにお祈りしているのも、
咎められた子供のような行動だと思う。

だから、彼は一度に色んなことが起こると
例えば怪物とエリザベスのことを
同時に考えなければならない時とかは
頭が混乱してしまう。
それこそシャンデリアが、脳内の神経細胞が、
光がスパークするみたいに。
目の前で起きる様々なことを、
素直にいちいち拾って
いちいち反応してしまう質だから
一気に色んなことが起きると
多分わあああってパニックになっちゃう。
上手くシャットダウンできない質。

後半になるにつれて、
博士のそういう性質が明らかになっていくから
確実に成長していく怪物と
子供っぽさが明らかになっていく博士の
アイデンティティが交差していく。
したがって、逆バージョンより
怪物と博士の間にある種の交流が見えやすい。

博士の自業自得の結末ではあるんだけれど、
なんとなく同情の余地があるのは、
上にあげたような不器用な子供らしさが
博士にあるからかなと、思う。
サイコパスでも、ましてや、
マッドサイエンティストでもなくて、
ただ成功を楽しみに無我夢中で
突き進んでしまった結果がこれなのかな、
って思えなくもないから。
でも、無我夢中すぎて、人との関わりを
結果的に断つことになってしまい、
事前に間違いを指摘してくれる人もいなくて、
(というかダメっていえば言うほど
子供はやりたがるよね。子供だけじゃないけど)
だから、親として怪物を愛せないのも
仕方がないかな、と思わせてしまう。

まあ、実際に子供に見える訳では無いので
表現がなんともむずい...。
ある意味でピュアな演技というか..。
まあ全て、あくまでもJLM博士に比べると、
BC博士の方が若くて若干子供らしいかな、
レベルの印象。
...どうやっても『SHERLOCK』の
..............あの探偵に近い........
とは表現したくない笑笑。
まあ確かにあの探偵から傲慢さ5割減して、
大胆不敵さとトリッキーさを
抜いたらこうなるかもだけど...
(我ながら書いてて、
今までのどの文章よりしっくり来てて辛い)
何かに負けた気がするのでなんかやだ笑。
てかBC博士もJLM博士も
どっちもシャーロック・ホームズやってるから
マジでややこしい。 仲良しかよ。




あと追記として、BC博士は
どう頑張ってもにじみ出る
いいとこの坊っちゃん感が凄いので(言い方)
這いつくばって肉を食べる時の惨めさと没落感は
明らかにJLM博士よりあると思います。
体の大きさもJLM怪物よりでかいしね。縦に。
...JLMさんはね、なんかね...イケメンなんだけど
ワイルド系イケメンというか...、
なんか軍隊に居そうな顔、というか....。
あ、でも普通に顔の造型自体は、
JLMさんの方が整ってると思います(突然)




ベネディクト・カンバーバッチ怪物版】

全体的な印象としては、
おそらく原作のゴシックホラーの雰囲気が
より強いのはこっちだろうと思う。
正直同じ脚本で、ここまで印象が変わるとは、
と、開いた口が塞がらないどころか、
どこまでも延々と開いていきそう...。

まず、最初に怪物が出てくる前に、
手で、というか主に指で薄い膜を触る、
というか軽くつついたり、なぞる
という演技をしてるけど、
もし演出家の指示無しで
しかも直感的にやったんだとしたら、
マジで紛れもなく天才だと思う。
人差し指でつうっとなぞるのが特にいい。
あと、それをきちんとアップで撮影した
カメラマンさんありがとうございます!天才!

生命を"作り出す"という意味で
手そのものが劇で占めるイメージは大きいし
もっと俗っぽく落としていいなら、
あの膜が子宮のイメージだとすると、
精神とか心理学的には、
指とか鼻とか、特に指がそうなんだけど
とにかく人体の突き出した部分は
男性器の暗喩になるから、
生命を作り出すイメージとして
"電気の神話"ってあたりがちょっと皮肉だけれど
ぴったり符合してる。

あとは単純に、見えそうで見えないって
一番人間の興味を引くし、怖い。
隙間からのお化けがいちばん怖いよね!
あと手形ってホラー映画でよく見るし。
そういう前置きありで怪物が生まれてくるので
「...呼んだあ?」っていう感じの
ゾワっとした怖さがある。
だからこの怪物は、
作り出した、生み出したっていう感じに、
呼び起こしてしまったって感じが加わる。

多分JLM怪物より、肌のトーンが白いから、
傷メイクが映えすぎなのもスプラッタ感増長。
見ていてちょっと引くぐらい痛々しい。
あのメイクのために2時間半前入りするって
マジかな。スゴすぎなんだけど。
あと単純にあんなに汗だくになっても
決して取れないあの特殊メイクが強いと思う。
メイクさんの本気。

また、怪物が動き出す時も、
JLMに比べると幾分静かめに呻きながら
なんとか自分の身体を自分の意識と連動させて
動かそうとしている感じが、
体を確かめている障害者のリハビリみたいで、
微笑ましい感じはあまりしない。
傷メイク同様、痛々しさが垣間見得る。
ハイハイから歩く、といった
わかりやすい進化の過程ではなかったのも
そう思う原因かも。

また確かに、膜から垂れたへその緒みたいな紐で
きゃいきゃい遊んだり、
字幕で(Laughs childishly 子どもっぽく笑う)
あるように、確かに少し子どもっぽさを
補填する感じはあったんだけれど
このような状況下では、恐怖の方が強い。
不気味な雰囲気の中で、
子供が子供らしく遊んで笑ってるほうが
むしろ怖いわ。

というわけでJLM怪物よりも怖い怪物。
そりゃウィリアム役の子役も泣き出すよ。

それでその後、老人と話す時の後半には
早くも怪物は思考と言葉が一致している。
多少話し方はゆっくりではあるけれど、
すでにものすごく知的である。
学習スピードえげつないな。
これは声の響きもあるかもしれない。
JLM怪物が横方向に響く声だとしたら、
BC怪物は縦方向に響く声だから、
どことなくNobleな感じがどうしても消えない。
顔をひきつらせて、発音を微妙にすることで
補っているようにも見えるけれど。

だから、元々出だしが怖かった上に、
成長の過程もJLM怪物よりは急勾配なのに、
それに加えて博士との対話の時に至ってすら、
行動にかなり子供っぽさが残っている。
(もちろん怪物は全編通して
両バージョン子供っぽいんだけど、
それは、世界を独自の理論で理解しているから
つまり、普通の大人の常識と外れているだけで、
行動そのものに無邪気の極みの子供っぽさが
ある訳では無い。)
例えば、このBC怪物は
博士に"好きなだけ自分を傷つけろ"って
言われたとき、揶揄うみたいに1回ナイフ持って、
かたーんって落としたり、

"Have a dialogue?"
(おしゃべりしよ?)

ってバンバンって楽しそうに
大袈裟に床をたたいたり、など
無邪気に遊んでいるように見える部分が結果ある。
それがさっきと同じように、
確かに面白くて笑えはするんだけど、
同時に状況が不釣り合いすぎて怖い。
成長しても、こういう風に目に見える形で
子供っぽい部分が残っているのは、
理解が難しい存在として恐怖の対象になりうる。

プラスの感情をJLM怪物よりも怪物に対して
抱きにくいのはそのため。
だから原作の雰囲気がより強い気もする。
まあ、原作さわりしか読んでないけど...(›´ω`‹ )

博士に関しては、靴音でも触れたけど
どことなくイラついている感じがする。
見た目も声も要因としてあげられる。
ワイルド系だよね...いや他に何系あるか
わかんないけど...。
話すスピードも結構早くて
舞台上の登場人物だけでなく、
観客の反応が来るか来ないかのうちに
突き進むようなスピードの時があるから、
酷く特徴的な演技そのものに対して
どっかんどっかん笑うというよりは、
言うセリフの内容と、吐き捨てるような
言い方のギャップがなんかおかしくて
笑ってしまうって感じだった。

また、そういう風に、周りをシャットダウンする
雰囲気が博士にあったので、
上に書いた細かい印象含め、
こっちの博士のほうがサイコパスとか
マッドサイエンティスト感が強い。
まあサイコパスならもっと上手く
世渡りするだろうから、あくまで比較すると、
っていうレベルだけれど、
ある程度自分の精神を制御する術を、
周りにそれなりに溶け込む術を、
知っているって感じを受ける。
その上で今、自分に必要なもの以外、
意識の外側に、意識して出せる質になっている。
だから酷く混乱する様子はない。

そして、ある程度普通に合わせることを
知っているが故に、心の底から
凡人を軽蔑している雰囲気が出ている。
街に向かって悪態をつくときとかに、
BC博士は遊びの延長のように
幾分楽しんで叫んでたけど、
JLM博士は小さく吐き捨てるようにいうから
最早言及することすら汚らわしい、と
思っている感が出る。

とまあ、そんな感じで
マッドサイエンティスト感が少しあるので
女の怪物殺すときの残虐さなんかは
BC博士版が目じゃないぐらい酷い。
心做しか血糊の量も多い気がする。(気のせい)

エリザベスに"I do love you"って言うときも、
完全に怪物に対抗するように、
まるで自分に言い聞かせるように、
言っているのが印象的。
ざっくり言うと目が死んでる。いい意味で。

そして、JLM怪物版で書いたけど、こっちの版は

"Hatred is what I understand."
(憎しみだけが僕が"理解している"ものだ)

BC博士が、自分の周りに居た人々を
思い浮かべるように話すのとは
少し違って、単に事実として語り、
また軽く後悔の念も見える。
JLM博士は、おそらく自分の中にも
様々な感情があり、愛と呼べるものも
あるんだろうことは知っていたけれど
とにかく研究の邪魔でしか無かったので
意識して無視してきた感がやはりある。
目を意図的に逸らしてきたことは
はっきりと自覚しているので、後悔がみえる。
そして、怪物と自身のこの関係が
おそらく限りなく、愛憎併存に近いことは
博士は薄々分かっているけど、
それを認めない、という決意表明にも思われる。
自分の意志を自身の意識で貫いたという点で
この結末に至ったので、
博士への同情の余地はBC博士版より少ない。

ただ、言い方悪いけど、
自業自得という意味で悲劇感も若干薄れるので、
"愛について分からない"って言った博士に
"教えるよ!"って怪物が言ったときに、
かるーく笑いがおこったのは、そのためかな。

怪物の、多分1番印象的なセリフ

"All I wanted was your love.
I would have loved you with all my heart"
(僕はあんたの愛が欲しかった。
そうしてくれれば、心からあんたを愛したのに)

っていうセリフももちろん悲壮感はあるけど
やはり、JLM怪物版よりは
博士がより一層明確な拒絶を示すので、
皮肉な響きを持って聞こえる。




以上!(やっと終わった...)
愛と死の物語という面をより強調したいなら
ジョニー・リー・ミラー怪物版、
原作のゴシックホラー感も存分に味わうなら
ベネディクト・カンバーバッチ怪物版、
って感じですかね。
個人的には舞台ということもあるので、
ジョニー・リー・ミラー怪物版のほうが
綺麗におさまっていて好きです。
ただラストの感じはほんとに甲乙付け難いです。
多分博士がこのあとすぐ死んじゃって
怪物も悲しむんだろうな...って言うJLM怪物版も
なんかしばらくは激情の追いかけっこを
それこそ命尽きるまで楽しくやってそうっていう
BC怪物版も好き...。
いやそれにしても
まじでこの『Frankenstein』は大好き...。
流してくれてありがとうございますNTLive。
出来ればついでに
ベネディクト・カンバーバッチの『Hamlet』
軽くいっときませんか?待ってます笑。
わたしはもう1回あのking!(笑)を観たい...。

それにしても今回の記事は
目標が目標だけにえぐい長さになりました。
最後まで読んでくださった方(いればですが)
ありがとうございます。
結構支離滅裂なのに...( ¯꒳¯ )

次はグローブ座かな...。頑張ろう。

(以下、入れどころが分からなかった
細々した感想です。文才が欲しい)


・錯視を利用した湖の表現は
初めて見た時(去年)ほんとびっくりしました。
舞台に穴空いてる??と目を一瞬疑いました。

・あまりにもダイナミックに
火花とか、火とか、電気を使うから、
余計なお世話だろうけど消防法が気になる笑。

・両バージョンどちらも、主演2人以外は
ほとんど同じように動いて喋って演技してて
すっげえって思いました。
去年観た時は、切り貼りしてるのかな、と
思ったレベルです(そんなことはさすがに無理)

・地域の違いはあるんだろうけど、
大きい括りで、UKに住んでいる人の前で
UKの土地のことをawful(めっちゃ悪い)って。
ローカルネタいいと思います。爆笑。

"The food was unbelievable."
(食事は信じられないものだった)

っていうセリフも笑いました。
ここの言い方のタメ感は
BC博士の方が良かったと思います。
また、全体を通して、笑える、という点では、
ベネディクト・カンバーバッチの方が
流石というかなんというか...。
観客とのパイプが太い、舞台慣れした人独特の
余裕みたいなのを感じます。
映像だと二人揃ってほぼ遜色ないとは思う...。
ただ、こういうタイプの違う俳優だから
入れ替えの配役は面白いので、
結果何が言いたいかと言うと、
とにかくこれ最高。頼むから消さないで!
次の『アントニークレオパトラ』と一緒に
半永久的にあげといて。お願いします...。

それにしても頑張って書いただけあって、
ようやく色々モヤモヤが7割ぐらい
解消されたような...してないような...。
また機会があったら映画館で観たいな。
学割が使えるうちに(1番大事)